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          海音寺潮五郎−武将列伝−江戸

■宗茂の優れた戦術

<本文から> 秀吉の朝鮮役のはじまったのは、宗茂二十四の時である。宗茂は兵三千をひきいて出征した。
 朝鮮役は前役と後役とにわかれるのだが、前役には日本軍は非常な速さで進軍して京城を占領し、国王が遠く北へ逃げてしまったことは、周知のことである。
 京城を占領すると、諸将は持口を定めて守備したが、間もなく、京城から西北五、六里の地点に敵が六、七千人集まり、要害の地に拠って、日本軍の往来をさまたげはじめた。日本軍は度々出動して掃蕩しようとしたが、敵は要害を利用しては日本軍が近づくと散々に矢を射かける。損害ばかり多くて、功があがらない。蜂須賀家政・有馬晴信、いずれもしくじって敗退した。
 総司令官の宇喜多秀家は、宗茂を召して、討伐を命じた。
 「かしこまり申した」
 と答えて、宗茂は出陣したが、その近くまで行くと兵をとどめ、数騎だけひきいて、自ら偵察に出かけた。その場所は、丈高い茅が方々に繁り、大きな岩石が散在してもともと足場の悪いところであるのに、敵は所々に空堀を掘って、ひどく馬の馳駆に不便な地勢にこしらえていた。
 宗茂は馬を立ててしばらく観察して帰陣したが、その夜多数の人夫をくり出し、ひそかに敵塁近いあたりの青草を刈取らせた。
 次ぎの夜には、千余騎をひきいて行き向い、これを三手に分けて三カ所に埋伏させて、「敵が出てもはげしく追撃してはならぬ。静かに追いはらい、退くあとからやわやわと慕って攻め入るよう」と兵には命じておいて、また前夜のように人夫を出して革を刈取らせた。昨夜知らぬ間に株を刈られて無念がっていた敵は、今夜は心をとぎすましている。すぐさとって、二、三千人、ワッとさけんで、人夫らにおそいかかって来た。人夫らは逃げる。敵は追いかけて来る。それを十分に近づけておいて、埋伏していた立花勢はにわかにおこり立ち、三方からおめきさけんで討ちかかった。
 敵は一たまりもなく退却にかかった。立花勢は堂小茂のさしず通り、やわやわと追い慕った。ゆるい追撃なので、敵はくずれ立たず、三度まで返し合わせたが、味方には立花吉右衛門・由布五兵衛などという勇士がいる、その度に撃退して、執拗に散に食いついて、追い入れて行った。
 難所ではあるが、敵の退くあとにあとにとついて進むのだから、空堀にもおちず、障碍のものにも突当らず、敵塁間近くおしつめ、階段状になっているところに多数建てならべられている敵の陣屋に火をつけた。おりから風烈しく、見る見る八方に燃えひろがった。時は六月二十七日、月の出にはまだ遠い闇夜であったが、自室のように明るい。逃げ散る敵を自在に追いつめて討取った。その数七百余人あったという。
 宗茂の戦術がいかに冴えていたか、よくわかるのである。
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■宗茂の優れた戦術2

<本文から> 備前勢八千人は、この有様を見て、忽ち動揺して四、五町ばかり引き返いたとある。
 間もなく敵の先手が近づいて来た。二万余。五隊になって、密集し、整々徐々、「勢いことのほかに見事なり」とある。しずしずと近づくと、太鼓を打ち鳴らし、大砲を撃ち掛け、黒煙を立てて押寄せて来る。毛利勢の先手は一ささえもせず崩れ立った。
 これを見ていた宗茂の陣中で、小野和泉が、
 「時分よく候」
 と宗茂に出撃をうながしたが、宗茂は床凡に腰かけたまま返事もせず、敵を凝視している。しばらくして、こんどは天野が、
 「もはやよろしき時でござろう」
 と言った。宗茂ははたとにらんで、
 「汝が何を知って!」
 と言って、まだ動かない。
 天野は黙ったが、またたまりかねて、
「潮合がはずれましょう」
 とまた言うと、
 「敵合がまだ少し遠い。その上、毛利の者共足手まといだ。皆引きとらせて、高名も不覚もまぎれぬようにして働こう」
 という。小野をはじめ皆あっとばかりに感じておそれ入った。
 ややしばらくすると、
 「時分よきぞ」
と立上り、
 「一騎がけすな、下知なきに矢を放つな、よろず差図に従って働けい」
 と呼ばわり、総勢密集して、足なみそろえて進み、敵に近づくや二百挺の鉄砲をこめかえこめかえ三度一斉射撃し、敵の色めくところを、一斉に抜きつれて斬って入ったので、二万余の敵は足の立てどもなく敗北した。それを急追したので、敵の全軍が崩れ立ったとある。
 天野の覚書は立花家の一手で明軍三十万を斬り崩したように書いているが、諸書を参酌すると、毛利元康もまた横槍を入れており、小早川隆景が兵を迂回させて敵の背後の山をこえて襲撃させている。かれこれあいまって、明軍大いに乱れ、ついに大敗北したのであろう。これは敵側の記録ともよく符合する。
 ともあれ、碧蹄館の敗北によって、明側は日本軍の最も恐るべき敵であることを知って、これまでの策謀的講和を捨てて、まじめに考えるようになったのだが、この戦いにおける第一の殊勲者が宗茂であることは、すべての史家の認めるところである。
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■徳川家光の将軍就任時の外様大名らへの洞喝は裏に演出者がいた

<本文から>
 一体、家光は小心で、吃りで、ものを言おうとする時には酒を飲んで、いくらかロがきけるようになったという人である。二十歳頃から元気がよくなったと伝えられているが、それでも諸大名が参観交代する時には、出入りには必ず将軍に謁見してあいさつをし、将軍またこれに返事をするのだが、その際にはいつも酒井忠勝(前出忠世とは別系統、若狭小浜の酒井家の先祖である)が「お取合」としてついていたというのだ。お取合とは助手だ、助手がついていなければ、適当な受答えが出来なかったという次第だ。
 こんな家光が、外様大名にたんかを切って、大見得が切れたのは、裏に演出者がいたからであろうとは、容易に推察されることだ。その演出者は誰であろう。土井利勝あたりではなかったろうか。利勝はなかなかの権謀家だ。この以前、秀忠の時代には計略にかけて、千姫事件の坂崎出羽守を片づけており、この以後には家光のかつての有力な競争者であった忠長を殺して家光を安心させ、その数年後に大老に任ぜられている。その利勝にとって、家光に芝居をさせて、さなきだに幕府をこわがっている外様大名らの荒ぎもをひしぐくらいのことは、何でもないことであったろう。
 こんな次第であるから、将軍職就任のはじめに、外様大名らを洞喝したという事実をもって、家光の英邁を証明することは出来ないのである。
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■家光の感心できない逸話

<本文から>
 家光の逸話として後世に伝わっていることは、その多くは感心出来ないものである。少し列挙してみよう。
 その一。
 家光は若い頃には女にたいして全然関心がなく、美少年ばかりを寵愛していた。彼の寵童はずいぶん多数あるが、最も有名なのは堀田正盛と酒井重澄の二人だ。堀田は前にも書いたよう.に春日局の継孫でその養子分となった人物で、あとで老中にまでなった。
 酒井重澄は本来は酒井姓ではなく飛騨国守であっいた金森職重の七男であったが、非常な美少年だったので、家光に寵愛された。家光は愛するあまり、酒井忠勝の養子分として酒井の名字を名のらせた。徳川家において酒井という名字は容易ならないものであるのに、寵愛のあまりにそれを名のらせたのである。また、三万石の大名にまで取立てている。
 この重澄が病気で引きこもっている間に、妻や側室に子供を生ませたことが家光にわかったので、家光は嫉妬し、重澄を備後福山の水野日向守勝成にあずけ、家は改易にしたという話がある。
 これを徳川実紀によって調べてみると、寛永十年五月十三日の条にこう出ている。
 「重澄は堀田加賀守正盛と同じく一双の寵臣で、官職の進め工合も同じようにされ、いささかの物を賜わる時でも、重澄は正盛が下になってはならず、正盛は重澄が上になってはならずと仰せられて、全然同じように賜わった。だから正盛を三万石の大名にとり立てられた時、重澄にも三万石下さったのだ。しかるに、どんな理由があったのか、重澄は病気である由を言い立て、出仕もせず自邸に引きこもっていたが、そのうち妻が男子二人生み、妾もまた二人生んだので、重澄の病気は虚病で、実は酒と色にふけっているのだと申上げをする者がいたので、この勘気をこうむることになったのだ」
 とある。
 これが普通の主従なら、虚病を怒ってこの処置にしたと言えようが、同性愛のなかだ。
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■鎖国の功罪、徳川氏のためにはなったが、日本のためにはならなかった

<本文から>
 鎖国の功罪については、明治以後いろいろな論議がある。よしとする側では、一つ、金銀貨の海外流出をせきとめた。二つ、国を鎖して外からの風の通い路を塞いだために、二世紀半もの間平和が保てた、こんなに長く平和のつづいたことは世界の歴史に類例がない。三つ、二世紀半の平和の間に、温室の中で酒が醸酵するように文化が成熟した。今日日本的文化といわれるものは、皆この時代に出来たものである。四つ、こんなに高度な文化が出来ていたから、明治になって西欧の文化を容易に消化することが出来たのだ。五つ、国をひらいていたら、西欧諸国に侵略されてしまったろう。
 鎖国を可とする人々の説は、大体以上に尽きる。
 鎖国を非とする人々は言う。一つ、鎖国のために、日本は世界の文化の進軍に二世紀半おくれた。明治以来の日本のあわただしさはこの遅れをとりもどすために生じたものである。二つ、鎖国によって生じた功のごとく見えるものは、ことごとく日本人の功で、あって、鎖国そのものの功ではない。人間は活物である。すぐれた人間はすぐれた括物である。こんな人間はあたえられた境遇に空しく屈服はしない。その場道内で最も立派に生きる努力をする。このために日本の鎖国も美果をみのらせることが出来たのだ。もし鎖国時代というものがなかったら、それはそれでまた最善の努力をして、よき精華を咲かせたであろう。三つ、以上のようであるから、金銀も流出ばかりはしなかったであろう。かえって流入させたかも知れない。四つ、当時の西欧諸国の有様から見て、日本が侵略されたとは思われない。むしろ日本こそ南洋各地やアメリカ西部に発展していたであろう。
 いずれの側にも理がある。こんなことは解釈だから、いずれが当っているかは一人とはわからないが、ぼく切好みから言えば、鎖国を非とする議論の方に軍配を上げたい。人間が努力し、成長し、変化する括物であることを認めてこれを前提としない議論は、人間を対象とする問題においては、意味がない。
 日中事変のはじまった頃、菊池某氏と同席した座談会で、鎖国の功罪如何という問題
が出ると、菊池氏は、
 「鎖国は徳川氏のためにはなったが、日本のためにはならなかった。日本のためには悪いにきまっている」
 と、持前の最も直裁なことばで言った。
鎖国したために、日本は広い世界からの風波の影響のおよぶのをまぬかれ、コップの中の平和を二世紀半にわたって保ち、徳川家は安泰であることが出来たのだが、そのために日本人は損したという意味であろう。最も端的で、核心をえぐっていると、ぼくは今に至るまで最も感銘深く記憶している。これも家光が鎖国がよいと主張してきめたわけではなく、大老や老中らのきめたことであろう。この点、家光は信長や、秀吉や、家康とは違う。この人々は皆自分で判断し、自分で決定したのだ。秀忠とも違う。秀忠はこの人達ほどではなかったが、それでも半分くらいは自分で考え、自分で決定している。家光は全然重臣まかせなのである。幕末頃になると、幕府の重臣らも幕府中心の考えから脱却して日本を土台にしてものを考える人もずいぶん出て来るが、この頃の重臣たは一人のこらずお家中心である。幕府の安黍ということだけを考えて、鎖国にふみ切ったに違いないのである。
 こんなわけだから、鎖国に罪ありとしても、家光の罪といっては苛酷であろう。将軍は独裁君主という建前になっているのだから、法理論的に言えば、もちろん家光は責任をまぬかれることは出来ないが、内実に即しての論である。
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■西郷は痛烈に薩摩の農政を罵倒。十年の役人生活の間、最初の憤りを持ちつづけていた

<本文から>
 相良の意見書はのこっていないので、どんな趣意のものであったかくわしくはわからないが、西郷の答申書から判断すると、
「薩摩領内では百姓が逃散して年々に減少し、ために田地も荒廃に帰するものが多く、従って御収納も減少しつつある。これは村々の租税が不公平なためである。検地をしなおして、村々の収穫量を正確につきとめ、徴税を公平にする必要がある」
 というのであったらしい。
 これにたいして、西郷は、
「御領内で最も近く検地が行なわれたのは、享保年度であるが、その時、村々の耕地が昔より増えていたら、それはその村の所有高にするとのおふれ出しであったので、村々はなるべく耕地が多いように報告した。しかるに、検地がおわると、これをすべて藩のものにしてしまった。つまり、民を詐術にかけたのである。以後、租税の制度も乱れ、民心も失った。すべてこれは一時の功をもとめ格好吏共のなせるわざである。相良の献言によって、検地を行ない、民苦をお除きになろうとの御趣意は大いに結構であるが、役人共の心術が旧態依然では、かえって民の育となることは明らかである。先ず役人共の心掛けから改めておかかりになる必要があり、然らざるかぎり、一切無益有害である」
 と前おきして、縷縷数千言におよんでいるが、彼は肥後の農政のいきとどいているのと比較して、痛烈に薩摩の農政を罵倒して、「こんな無慈悲な苛烈誅求をしている国は他国にはない」とまで言っている。また徴税の時の桝や、肥料のことや、農具や牛馬のことにまで言及し、一々地名を指摘している。
 このことは、彼がいかに農政のことにくわしかったか、そして民を見る目が愛情に満ちていたかを示すものであるが、同時に彼が天性最も強烈な正義感と誠実心の持主であったことを語っている。
 境遇にたいする人間の順応性はおどろくべきものがある。どんな境遇にも人は慣れる。役人社会に入った当座は、そこに充満している不義・不正・非道・無慈悲に憤りを感じていても、やがて人はそれに慣れて来る。こういうものだと思い、こうでなくてはならぬものだとそれを合理化までするようになるのが普通であるが、彼は足かけ十年の役人生活の間、ずっと最初の憤りを持ちつづけているのだ。
 この深い愛情心と、強烈な正義感と、真撃な誠実心は、特筆すべき彼の特性であり、彼の生涯を形成する大きな骨格となるのである。
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■西郷は一見豪放に見える性格の人に案外神経質なところもあった

<本文から>
 ぼくは前に西郷は誠実で、正義好きで、良心的で、愛情が深くて、礼儀正しくて、謙虚な人がらであると述べたが、そうでありながら、彼にはおさえておさえ切れない英雄的なものがあったのだ。人間は誰でもそうで、小説に描出されているような単純な性格の者はいない。一見豪放に見える性格の人に案外神経質なところや衣滑なところがあったり、一見気が小さく見える人に案外大胆不敵なところがあったりするのが実在の人間のすがたであることは、少し注意深く人間を観察する者なら誰も気づいていることであるが、その点、西郷の性格は実に複雑である。しかも、その持つ各種の性向が人並はずれて大きく深い。小説中の人物として具体性をもって描出するにこれくらい持出しにくい人物は稀である。彼の誠実さに主眼をおいて描くと、その払澗喉如鈍重で保守的な感じのものとなってしまい、彼の英雄的面に重点をおくと単に粗豪放胆な月並な英雄像になってしまい、彼の正義好きで良心的な点に重点をおけば、神経質で怒りっぽい人物像となり、彼の礼儀正しくて謙虚な面を中心にすれば、気のきかない田舎ものになってしまうのだ。彼は諧謔好きで、いつも冗談を言って、人を笑わせていたというが、ここに主眼をおいて書くと、他愛のない一冗談やになってしまう。しかし、彼はこのような人物だったのだ。
 さて、こんな工合に、斉彬ほどの人が西郷の人物を買い、世間に吹聴もしてくれたので、西郷は忽ち天下の名士となってしまった。その身分といえば小姓組、その役儀といえばお庭方という卑賎さでありながら、
 「薩摩に西郷あり」
 との評判は、大名といわず、藩士といわず、浪人といわず、いやしくも当時国事を念としている人々には隈なく知れわたった。西郷が後年天下の人の信頼を得て縦横に活躍し得る基盤はこうして出来たのである。
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■西郷はあくなき理想家で悲劇的

<本文から>
 ぼくの見るところでは、西郷はあくなき理想家である。理想家であったが故に、彼は幕府政治に不満を抱いてこれを打倒したが、その後に出来上った明治政府は立って数年ならずして腐敗の兆をしめしはじめた。維新の元勲であり、新政府の大蔵大輔である井上馨が官権を悪用して南部の尾去沢銅山を奪取横領したのはその一例である。兵部大輔であり、近衛都督である山県有朋が陸軍の公金を一商人山城屋和助に融通してこげつかせたのがその二例である。
 理想家であり、良心的であり、誠実である西郷にとっては身を切られるように切なかったに相違ない。
 「こんなつもりで、おいどんらは幕府をつぶしたのではなかった」
 という心が去らなかったであろう。
 当時の高位高官らが、志士時代の艱苦を忘れて宏壮な邸宅を営み、美妾を擁し、綺羅をまとい、出入ともに肥馬軽単によっていた中に、彼だけは陸軍大将・近衛都督・主席参議という菅高い地位にいながら、一僕を相手に小さい家に住み、木綿着物に小倉の袴をはき、一僕をつれて徒歩で出仕している。この姿には一身をもって世を警醒しようとする心がうかがわれるとぼくは見るのだ。
 板垣退助の談話の中に、こういうのがある。
 西郷が病気と称して久しく太政官にも出仕しないので、板垣が見舞に行くと、西郷は病気ではなかったが、まことに憂鬱げな顔をしている。
「どうなさったのです」と聞くと、
「わしは世の中がいやになりもした。わしの言うことなんぞ、今の世には通りはしません。わしは北海道に行って百姓になろうと思うとります」
 と言う。板垣はおどろきながらも、声をはげまして、
「西郷さん。あんたなんということを言われる。幕府をたおして新政府を立てた中心人物はあんたではありませんか。そのあなたがそんなことを言って逃避しようなど、無責任というものですぞ。悪ければ悪いで、なぜこれを正すことを考えなさらんのです」
 と言うと、西郷は満面真赤になり、がたがたふるえ出して、涙をこぼして、
「申しわけのないことを言いもした。わしが悪うごわした。おたがい、しっかりやりもそ」
 と言ったという。
 彼の良心的な性質と、誠実さとを見るとともに、彼がいかに新政府にあき足りなく思っていたかがわかるのであり、このあき足りなさは、彼が飽くなき理想家であったところから出て来るのだと、ぼくは思うのだ。
 彼が征韓論を主唱したのもここにその根源があろう。遣韓大使となってかの地で自分が死ぬことによって、明治政府の要人らを覚醒させ、その後につづく戦争によって明治政府を引きしめようと思ったのではなかったかとぼくは思うのだ。
 西南戦争もまたここに根源をもとむべきであろう。彼はクーデタ一によって最も理想的な政府をつくろうと思ったにちがいない。
 しかしながら、もし西南戦争が彼の勝利に帰し、彼が東京に上って来、政府をこしらえたとしても、彼は決してそれに満足せず、再び革命を企てるか、彼の股肱であった人々に殺されるかしたにちがいない。
 理想的な政府なぞ、どこの世界だって、いつの時代だって、あったためしはない。彼の心理の中にあるだけだ。彼はそれを知らない。普通の人なら、それを知って、妥協に甘んずるか、哲人となって世を雲煙の下に高踏するかするのだが−彼はいく度かそうしようと試みているのだが、かなしいことに彼は英雄であった。おのれの力を信ずることが厚い。おさえてもおさえ切れない烈々たる熱情がある。実現可能と信じて、賓の河原の子供のように、積んではくずし、積んではくずすことをつづけざるを得ないのだ。
 最も悲劇的な性格というべきであろう。
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■勝海舟は旧幕臣の間で長く評判が悪かった

<本文から>
 西郷は二十八日にはもう池上本門寺の本営に入って、四月四日勅裁の旨を麟太郎に達し、四月十一日、江戸城受取りがあった。
 敗戦降伏の談判など、どんなにうまくやっても、評判のよいものではない。まして、この時、幕府には相当な余力があったのである。それを麟太郎が一意恭順、降伏に持って行ったのは、江戸百万の生霊の不幸を思い、また内戦が外力の侵入を招いて取り返しのつかない日本の不幸になると思ったからである。しかし、そんなことは普通の者には理解出来ない。妻子さえおれに不服だったよといっているくらいだ。幕臣らは、
 「譜代の主家をあやまる臆病武士」
と怒って、暗殺しようとする者が少なくなかった。
 この頃、品川の先鋒総督府からの帰り−と彼は言っているが、前兜の西郷と会っての帰途だろう、薄暮赤羽橋を馬で通りかかると、銃声とともに銃丸が肇をかすめて飛びすぎたので、彼は馬を下り、くつわをとってしずかに歩いて過ぎ、辻まで来て、また乗馬して帰ったと語っている。
 この評判の悪さは、旧幕臣の間ではずっと後までつづいたようだ。彼ほどの人物にろくな伝記がないのも、そのためであろう。彼の伝記は当時のことをよく知っている生きのこりの旧幕臣中の誰か、史才あり文才ある者が書けば一番よかったと思われるし、やりがいのある仕事でもあると思うのだが、一人もそれのなかったのは、この理由しか考えることが出来ない。
 彼は明治三十二年一月十九日、七十七歳で脳卒中で死んでいるが、その公生涯は四十六の明治元年(慶応四年)四月十一日の江戸城明渡しでおわっているといってよいであう。
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