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          北方謙三-武王の門・下

■太宰府に負ける

<本文から>
 大事府の館で、少弐頼尚は饗庭宣尚とともに、ひっそりと新年を迎えた。
 伺候してくる武士たちの数も、極端に少なかった。それで当たり前だ、と頼尚は思っていた。負けたのである。ただ一度と、満を持してむかった戦に負けた。運が勝敗を分けたとしか言いようのない負け方だったが、負けは負けで濁る。かつて九州忙落ちてきた足利尊氏を担ぎ、多々長浜で菊地武敏の軍とぶつかった時は、明らかに自分に運があった。尊氏に、躊躇なく賭けることもできた。九州探題などというものを、あの時尊氏が残していかなければ、そう思っても、尊氏はすでにない。
「征西府では、肥前に軍勢を出す気配。暮から正月にかけての、冬資様の動きが目立ちすぎたのではありますまいか」
 「冬資はあれでよい。好きなようにやらせよ」
 どう踏ん張ったところで、再度征西府に決戦を挑めるとは思えなかった。抗し難い、時の勢いというものはある。ただ、冬資はこれからも少弐一族を率いていかなければならない忍従と屈辱を拒むなら、何度でも闘い、何度でも負けるしかないのだ。耐え続ければいつかはまた運が向いてくる。それが十年さきなのか、二十年さきなのか。
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■再び征西へ

<本文から>
 頼治が、麿下の者たちを連れて入ってきた。具足姿である。
「武光殿の死は、伏せてあります。どこからか洩れるにしろ、今川了俊は半信半疑でありましょうから」
「有智山の武政も呼び戻せ。菊池の軍勢が揃ったら、三つに分けて高長山に移動させよ。儂は、最後の隊で行こう。武光の体は、第一隊で運ぶがよい」
 頼治が、いくつか下知を出した。
 大牢府に菊池軍が揃ったのは、夜半だった。
 雨はさらに激しい。
 武政の率いる第一隊が、高良山にむけて進発した。すでに、奉行所の者たちはかなりの道のりを進んでいるはずだ。第二隊を指揮したのは、まだ十歳の菊池賀々丸だった。自ら名乗り出て、祖父の白い馬に跨がったという。
 「御所様、そろそろ」
 武安が来て言った。武光も、すでに大広間にはいない。
「明朝には、七万の大軍が征西府館を押し包みましょう。すでに、大半の者は高良山へむかい、殿軍の二千が残っているのみでございます」
 「捨てるか、大宰府を」
 「御心中は」
「よい、武安。十一年にわたって、よくもちこたえたものだ。さまざまな思いがあるが、それもここへ残していこう」
 武安が、また肩をふるわせた。
 「頼拾、征西府旗はいずれに?」
 「はい。麿下の軍勢で守って参ります」
 懐良は立ちあがった。
 雨の音が大きくなったような気がした。雷鳴はすでに遠ざかり、雨だけが激しくなっている。太刀に手をかけた。武安が飛び出していく。征西府館はひっそりとしていて、門前にいる軍勢も、声ひとつあげなかった。
 「高良山にむかって、進発いたす」
 懐良は、放から声を出した。雨が具足を打つ。心も打つ。それを振り払うように、懐良は軍配を一度振った。
 前方は、どこまでも深い闇である。
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■太宰府を押さえた

<本文から>
  高良山の征西府軍はおよそ三千。ほかに菊池に四千。合わせて七千というところだった。菊池軍は五千で、そのほかに恵良惟武の軍勢など、二千が加わっている。
 菊池から高良山の征西府へは太い兵曲線があり、容易に切れそうもなかった。むしろ、博多を押さえきっていない探題軍の方が、いまだ兵姑には不安があった。
 「各地へ、それぞれがむかって貰わねばならぬ。およそのことだけは、決めておきたい」
 太宰府の機構がようやく落ち着いたころ、了俊は一族を集めて言った。九州を制圧するのに、一族を立てる方がいいのかどうか、よくわからない。すでに、大豪族は独立独歩の構えを示し、いくつか豪族同士でぶつかったところもある。
「肥前に仲秋、獣断に義範、耶舶に氏兼、薩摩、期限に満範と決めておこう。筑前、鄭丘祀は大学府で治められる。筑後、肥後は、みんなで当たるしかあるまい」
 役割を決めたところで、すぐにそこへ行けるわけではなかった。豊後では大友親世、氏継兄弟の争いが予想されたし、日向は島津が長年狙っていたところである。肥前の武士は、情勢いかんによっては、いつ征西府につくかわからない。
 こうやって全九州を眺め直していると、大軍府にあった征西府が、十年以上も九州を統轄し、武士たちの力を少しずつ削ぎ、ほとんど全九州をひとつの国のようにしようとしていたことが、奇蹟としか思えないのだった。
 征西将軍宮と菊池武光の結びつきが、どれほど大きな存在となり得ていたのか、いま身をもって了俊には理解できた。足利幕府という旗を立てたところで、集まってきているのは恩賞目当ての武士ばかりである。
 大牢府周辺に一万、肥前、筑前、筑後の国境が交錯するところに二万。了俊が、九州探題として集めうる兵力のすべてがそれだった。いつまでも、中国の軍勢を九州に留めておくわけにもいかなかったのだ。それでも、いまだ五千の中国の軍勢が残っている。五千は自分の軍勢であるから、九州で集めたのは一万にすぎない。
 「難しいものよのう」
 「時が、解決してくれると思えます。まだ、九州探題が九州の武士に馴染んでおりません」
 大牢府に入って、三月である。斎藤明真も、忙しく飛び回っていた。僥倖によって手に入れた大牢府である。失うことは許されなかった。
 三月が、あっという間という感じだった。時折静かな心持ちになるのは、ここ数日のこと だ。
 八月の戦のことを、よく思い出すようになった。思い出すたびに、恐怖は強くなる。全身に粟が生じる。眠っている間に夢で見た時は、汗にまみれて跳ね起きる。
 菊池武光になにかあった。それは間違いないだろう。死んだのか、病に倒れたのか、判断はつかない。あれほどの勝ちを収めていた軍勢が、一斉に退いてしまう理由は、菊池武光に異変が起きたこと以外考えられなかった。
 死んだのだ、と了俊は思っていた。しかし、高点山の征西府軍は、守りを固め、容易には攻め落とせそうもない態勢を作っていた。菊池にいる四千も、無気味である。。
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■戦いが終わり海へ

<本文から>
 「済まなかったな、賀々丸。おまえの爺さまなら、今川了俊をたやすく討ち取っていたであろう。やはり、おまえの爺さまには、戦ではかなわぬ」
 「御所様。申しあげねばなりません。敵が八万にまでふくれあがっております。高良山は、支えきれません。無念ですが、菊池へ落ちます」
 「そうか、武安」
 「父上は、私がお連れしますぞ、海へ」
 月王丸の声には、童をあやすにも似た響きがあった。
「海?」
 「さよう。高麗のほかにも、海のむこうにはさまざまな国がございます。傷が癒えられても、右足は思うように動かぬかもしれません。なに、船の上では、それほど駈けることもございません」
 「偵は、九州を離れることはできぬ、月王丸」
 「死者はみな、父上が九州を離れてくださることを、望んでおります」
 「死者の思いが、なにゆえに」
 懐良は、月王丸のぞんざいなもの言いに、かすかな笑みを洩らした。
 「わかるから、わかるのです」
 「儂は、九州にとってどういう人間であったのだ。頼拾、どう思う?」
 「夢で、この大地を彩られました。もはや、闘いは不要です。どうか、月王丸様とともに。私も、お供いたします」
 「そうか」
 懐良は眼を閉じた。熱いものが、眼の端から耳の方へ流れ落ちていく。それを、月王丸の大きな手が拭った。
 「賀々丸」
 「はい」
 「よくぞ、闘った。爺さまも、驚いておろう。良成を頼める者は、おまえしかおらぬ。武安に助けられ、早く成長せよ」
 「新御所様は、この賀々丸がお守りいたします」
 「頼拾。おまえは星野へ落ちよ」
 「なぜでございます?」
 「あの地は、病によい。絶対に侵されることのない、要害でもある。征西府旗を、おまえに預けよう。丘成と賀々丸がもし必要とすることがあれば、渡してやれ」
 「私は、御所様と」
 「もういいのだ。儂が闘いをやめるように、おまえもおまえの生を生きよ。長くともに暮してきた。だから、おまえと儂に別れなどはない。星野にあろうと、儂とは一体だ。別れの言葉も言わぬ」
 頼治がうつむいた。頼を涙が濡らしていく。
 眼を閉じた。
 すべてが、夢だったのか。そして、夢のまま、この身とともに潰えていくのか。
 「父上、孫も大きくなっております。体じゅう傷だらけの爺さまに会える日を、愉しみにしておりますぞ」
 抗いようもない疲れが、懐良を襲ってきた。眠りたい。眼醒めることのない眠りの中に、落ちていきたい。それを思うだけだった。
 風が吹いていた。心の中を、吹き抜けていく。眠りは、まだ来ない。自分が眠りはじめるのを、懐良はじっと待った。
 音が聞えてきた。風の音。そして波。林が揺れているのか。海が見えた。どこまでも、果てることのない海だった。夢と海は似ている。そう思った。隊の光が海面に射して、鮮やかな照り返しが交錯している。眠ろうとしている自分を、懐良は感じた。
 光。風。夢。海。
 遠くなった。
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