その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          南原幹雄−謀将 石川数正

■数正は秀吉の臣下になることで徳川家を守ることを決意

<本文から>
 (石川家をまもり、今後とも存続させていくには、自分が秀吉の臣下になることがもっとも有効な策ではないか。それによって徳川家を守りたてていける)
 余の者はともかく、主君家康だけはかならず自分の真意をわかってくれるだろう。そうする以外に徳川家と石川家をまもっていく道はないと確信するにいたったのだ。こころを徳川に残しながら、身は秀吉に臣従するといったきわめて至難な手段をとることを決断したのだ。
 けれどもそんな心中のカラクリを見抜かれれば、秀吉が数正の臣従をゆるすはずがない。あくまでも時世に暗い徳川家中に愛想をつかし、出奔を決断したという筋道をとらなければならなかった。とりわけ勘のすぐれた秀吉だけに見抜かれる可能性はきわめて高い。それをふせぐには徹底した秀吉への忠誠しかない。そのため、今は家康にすら真実を明かさずにおかねばならない。数正にとってはきわめて至難な賭けであった。しかし家中でこのような放れ技のできそうな者がいないかぎり、数正がみずから裏切者の汚名を着て、この賭けに挑む以外はなかった。汚名は終世、あるいは後世まで晴れぬにしても、今徳川が秀吉とたたかえば、家中の意気込みとは裏腹に手痛い敗北を喫するのはあきらかであった。
▲UP

■秀吉の臣になったが、けっして卑下しなかった

<本文から>
 数正は今秀吉が苦慮している徳川家の内情についてもっとも詳しい人物として、関白家での存在価値をみとめられているのだ。
 三人はこの日、むなしく帰っていった。
 数正のなかにはいくつかの案があったが、今日はそれを口にしなかった。三人や秀吉の胸中もわからぬうちに自分から言う必要はなかったからだ。
 数正は徳川から寝返って秀吉の臣になったが、けっして卑下しながら関白家で生きていく気はなかった。家康はじめ三河武士たちに愛想をつかして、やむなく退転したという立場をとった。おのれを卑下すれば、秀吉が自分を見る目も変ってくるであろうし、そうすると石川家の家臣一同が日蔭者の暮しをずっとおくっていかねばならぬ。それは避けねばならないと自分をいましめていた。
 数正は日ごろ、つとめて闊達にくらし、闊達に意見を言って過した。それは家臣たちによい影響をあたえていた。関白家にとけこむもっともよい道でもあった。家族も夫婦と子供二人にくわえて、於義丸についてきていた勝千代とおなじ城内で暮らせる状況になった。立場上、生活は別ながら、どちらかがのぞめばいつでも親子は会うことができるのだ。勝千代にとっては大層こころ丈夫なことだった。
▲UP

■関東に睨みをきかす松本への移封

<本文から>
 ここでようやく数正はたずねた。
「関東と日本中央部の接点は信濃であろう。すなわち関東山地が両者の境だ。そこで数正にいわば関東鎮台をつとめてもらいたい。信濃の要所は松本じゃ。以前探志といわれておったところ。この松本に鎮台をきずいてもらいたいのじゃ。いわば松本城というてもよい。和泉十万石から松本への移封じゃが、この役目、数正以外に立派にこなす者が見あたらぬ。徳川のこと数正にまかせるにしくほあるまい」
 前触れもなく数正に大問題があたえられた。
 数正は和泉から信濃への移封などかんがえてみたこともなかった。
「不肖の身にござりまするが、お役にたてることならば何なりと」
 数正はともかくそう答えるしかなかった。
「大役じゃ。関東に睨みをきかしてもらいたい」
 秀吉は意中のあらましをあきらかにした。
▲UP

■秀吉に海外への征戦を促した

<本文から>
 数正の胸にむくむくと黒い雲が湧いてきた。
 秀吉は今旅の空の下にあるから、こころに隙が生じている。大坂城や聚楽第で群臣にかこまれていたなら、これほどあからさまに心中を吐露しなかったであろう。不世出の英雄にも大事を成しとげた一瞬、油断や隙は生まれるのだと数正はおもった。
 「余にはもう、この世でなすべきことは無くなってしまった」
 秀吉は慨嘆するがどとく叩き声を発した。
 一瞬の間が生じた。数正が言うべきか否か迷った瞬間である。
 「殿下、無いことはございません」
 数正は一瞬の隙につけこむように言った。悪魔がささやくどとく。
 「この世のどこに、わが征戦のむかうべき所がある」
 「殿下、目を遠く海外に向けてみてはいかがでしょうか」
 「海外とな?」
 「左様にござります。たしかにわが国においては寸土といえども殿下のご意向に異をとなえる所はござりませぬ。さりながら海のむこうには朝鮮、唐、天竺がござります」
 「ううむ……」
 秀吉は一と声うなった。それからしだいに秀吉の目がかがやきだした。異様な輝きと言ってもよい。今まで木偶のように見えていた秀吉の体に生命の力がやどり、さらに魔王のごとき血がながれだしたかと見えた。
 「そうよな。海のかなたにはわが関白の威光のとどかぬ地が陸続とつづいておる。忘れておった。数正、よきことをおしえてくれたの」
 はじめはつぶやくように、しだいに体を震わし興奮したかのように秀吉は言った。目はさらに輝きを増していた。
 「わたしは思いついたことをふとロにいたしたばかりにござります」
 「たしかに出雲守の申すとおりじゃ。わが事業はたかだか国内を終えたばかりじゃな。海のかなたには朝鮮、唐、天竺、さらに南蛮国もあるぞ」
 秀吉は魔に魅入られたように言った。その魔とは数正がほんの一言口にした言葉である。これが秀吉にとって運命の分かれ目であった。
▲UP

■徳川家臣の譜代魂の故に秀吉の懐に飛びこんだ

<本文から>
 数正はそうおもったものである。数正の勘はするどい。徳川がかって従来の今川家の属将の立場から、織田家に鞍替えして清須同盟をむすんだのも、数正が強力に主張したためである。天正十年代の初年ごろから秀吉の力が急速に伸びることを家中でいちばん早くから予想したのも数正であった。その秀吉政権が長くつづくようであったら家康の出番がなくなってしまう。何とかしなければという思いで数正は果敢に秀吉の懐に飛びこんでいった。いわば獅子身中の虫になる覚悟をかためたからであった。
 徳川家中に心中を理解する者がいないといって、それを嘆く数正でもなかった。彼の真意は自分の栄達や名誉にはなく、あくまでも徳川家がさかんになることにあったからだ。それが徳川家臣の譜代魂というべきものだとかんがえていた。
 (何事も主家のため。主家のためには名も命も惜しむな)
 という精神が、祖父清兼、父康正から数正につたえられ、血肉となっていたのである。
 誰にも理解されなくとも、徳川家のためならば迷わずおこなう。数正はこの信念のもとに生き、康長、康勝、康次にもそういう教育をほどこしてきた。数正が少年のころ今川家へ人質におもむく竹千代の小姓七人衆の最年長として同行したときも祖父、父の教えをしっかり胸に秘めていたものである。幼ないながらも主家のためには死をも辞さぬ覚悟をもっていった。
▲UP

■二十年目にして家康のロから徳川家のために豊臣家へはしったことが証明

<本文から>
 家康は康長の顔をじっと見て言った。
 (ついに家康公がこの言葉を口にした)
 康長の体が感動でうちふるえた。
 父数正が徳川家を捨てて豊臣家へはしった真意は、家康も察していたことと今証明された。それは父も言い、康長兄弟、家老、重臣たちも信じていたことながら、それをおおや止り公に言うわけにいくはずもなかった。したがって、世間ではみな数正父子を裏切者と見ていた。四天王でさえそうだったのが、それが二十年めにして、ようやく家康のロから徳川家のために豊臣家へはしったことが証明されたのだ。
 康長は家康のロからこの言葉がかたられるのを一体何年待っていただろうか。
 家康の言葉を康長はしっかりと頭の中にきざみつけた。
 (やはり、父は家康公も内心納得ずくの謀略作戦にでたのだった)
 当初から数正は息子たちにそう言い聞かせていたが、相手側からの証言が得られなかった。それは得られぬのが当り前で、双方の口からあきらかにされたら謀略はならずにおわってしまう。その謀略はあつい信頼でむすばれた主人と家臣のあいだでのみ成立した大芝居であった。
 「お疲れでいらっしやいましょう。どうぞ奥へノ。ささやかな準備をいたしております」
 康長は二十年間の思い遂げた気持で、家康一行を玄関内に招いた。
▲UP

■家康から、ついに、数正、康長二代にわたる勲功を褒められ

<本文から>
 翌々日の五月十日、家康は二条城本丸大広間において、戦に参加した諸大名を引見し、皆なと勝利の喜びをわかち合った。その中に康長の姿もあった。
 引見後、康長は二人家康に召されて、小書院にむかった。
 小書院において待つことしばし、家康が近習もつれずに姿をあらわした。家康は上座近くに康長をまねき寄せ、
 「数正、康長二代にわたる勲功まことに筆舌につくしがたいものがある。家康つつしんでここに礼を言う」
 物音ひとつしない静寂のなかでかたりかけた。
 「有難き御口葉に存じあげます。亡き父も満足いたしておろうかと存じまする」
 康長は家康のこの一言が聞きたいがために、二条城まで足をはこんだのである。
 「恩賞として、康長に十万石をあたえる。領地は後日、つたえよう」
 ついで家康が言った言葉を、康長は万感胸にせまる思いで聞いた。が、康長は十万石の領地にこだわったわけではなかった。数正がおこなった謀略を今自分たちが完成させたことをこころから喜んだのである。
 (十万石は拝領すべき)
 という思いも胸中にはあったが、父と自分二代にわたるあいだの家臣たちのあまりにおおきな犠牲や苦しみをおもうと、今自分が十万石を得て、悠々とこれからの人生をすごす気持にはなれなかった。
 「まこと有難きことにござります」
 康長は深々と平伏してそう答えた。
 けれどその翌日、康長は一人で家康に面会し、十万石拝領の件を固く辞退する旨を申しのべた。当初家康はそれをいぶかしんだが、
 「父は自分一身と家族、家来たちを犠牲にして、徳川家につくすことをえらびました。弟や家来たちを大勢死なせた今わたくしのみが、栄華に浴することを父はけっして喜ぶことはないでしょう」
 康長がこたえると、家康も後に納得した。
 そして康長は大薮十郎次とともに、京都からいったん東山道をとって松本にむかい、石川家の菩提寺正行寺をおとずれ、父の真に詣でて、すべての報告をおこなった。その後、二人は九州豊後におもむいた。
▲UP

メニューへ


トップページへ