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          一坂太郎−幕末維新の城

■まぽろしの鯖江城

<本文から>
 築城許可が出る
 越前の鯖江津(間部家)は譜代五万石の小藩だ。天守がそびえるような城郭はなく、北陸街道沿いに陣屋を設けて本拠としていた、いわゆる無城の大名である。ちなみに大名の格式には国主(国持)、準国主、城主、城主格、無城があった。ところが開藩以来百二十年あまり経った天保十一年(一八四〇)四月二十八日になり、鯖江に城を築く話が持ち上がってくる。
 ただし、外圧に対する危機感から生まれた築城計画ではない。
 七代目の鯖江藩主である間部詮勝は幕府政治にも参加したが、なかなかの有能な人物だった。寺社奉行加判役、大坂城代、京都所司代などの要職を経て、天保十一年一月十三日、三十七歳で西の丸老中に列せられている。わずか十数年の間に幕閣の頂点にまで登り詰めたから、「権力の象徴」としての城郭が必要になったのだ。
 老中となった詮勝は、それまでの無城よりもツーランク上の城主大名となる。こうして同年四月二十八日、幕府は詮勝に築城の許可を与えた。つづいて五月十九日、幕府は築城費用として五千両という大金を鯖江藩に下す。翌日、鯖江藩は年寄職の間部司馬を築城御用掛に任命した。鯖江では献金する町人もいたという。
 モデルは北庄城
 だが、結論からいえば鯖江城は建てられなかった。
 近年、有力な大工家であった福井県越前市の三田家から「天守図」が見つかった。四重五層から成る天守の外観を正面と側面から描いた図に「天保十二年丑七月中旬」と記されており、「鯖江城の建設に際して作成された可能性が高いと判断できる」という(青田純一『福井の城』平成六年)。もっとも、完成予想外観図だけで、建造物ができるわけではない。計画がどこまで進んだ段階で描かれたものなのか、三田家が天守計画に関与していたのか、本当に鯖江城天守の完成予想図なのかといった点はさらに考察する余地かある気かする。
 ともかく「天守図」か見つかったことで、鯖江市では一時「まぼろしの鯖江城」を建立(再建ではない)しようとの気運が盛り上かった。やはり城というものは、人々の心を奮い立たせるようで、本来なかった城までも、平成の現代に建ててしまおうというのである。幕末当時の喜びようは推して知るべしではないか。その計画も現在のところ実現には至っていないという。ただし、平成七年(一九九五)に「天守図」をもとに横沢戊雄氏か製作した三十分の一という「まぼろしの鯖江城」と題された模型が、鯖江市の歴史資竹館である「まなべの館」に展示されている。
 これらの図や模型を見てなんとも不思議な気分にさせられるのは、日本近代化の入口とされる時代をまったく感じさせないことだ。それもそのはずで、この「天守図」は慶長六年(一八○一から十一年にかけて結城秀康が建てた北庄城(福井城)の天守をもとに措かれたというのだ。
 鯖江城は間部詮勝栄達のモミュメントとしてのみ、必要とされた。国の内外にさまざまな危機が迫っていた天保のころに、このような時代遅れの城郭を建てようと考えていたとすれば、いつの時代も変わらない、体制側特有のある種呑気さのようなものを感じずにはいられない。
 城普請のための用材探しや城地選定も進められた。縄張調査は小浜藩士宮田源右衛門に依頼したことが分かっており、縄張絵図も二枚が確認されている。それは「現況にあてほめてみると、西山公園の展望台がたつ頂上あたりから東は旧北陸街道あたりまで、南は誠照寺の背後あるいはその西方の輝陽会館あたりまで、西は長泉寺山の西麓あたり一帯の地域を城郭地として計画していたことになる」(『福井の城』)という。
 建てられなかった理由
 先に述べたとおり、鯖江城は建設されなかったのだか、その理由を『鯖江市史・通史編上菅』(平成五年)では、
「諸般の情況からその実現をみるに至らなかった」
と、実にあっさりと流す。
『福井の城』では「鯖江城地二付内談書」という史料を根拠に「他藩の領地や幕府領が交錯していたりして領内に十分な広さの地域が得られなかったことや水の便が悪いことがその理由であった」とし、「城郭の建設には農民たちの労働・使役が必須の条件となってくるが、当時は大飢饉のために農村は極端に疲弊し、農民たちは困窮のどん底にあった。立地条件とともにこうした社会背景も鯖江城の築城を妨げる要因になったものと思われる」と推察する。
 たしかに、そのころの鯖江藩はかなり窮乏していた模様だ。寛政二年(一七九〇)に一万九千両あまりあった藩の貯えが、文政四年(一入二一)では三千四百両あまりとなっていた。さらに詮勝が昇進するたびに、関係各所へ献金などの強要もあり、これが天保飢饉と重なったため領民は大変な苦労を強いられたのである(『鯖江市史・通史編上巻』)。
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■五稜郭の築造

<本文から>
 まず、金十万両の予算で着工されたのは弁天岬台場である。安政三年(一八五六)十一月に工事が始まり、八年後の元治元年(一八六四)九月に完成した、亀甲型(不等辺六面)、三万八〇〇〇平方メートルの海上壁塁だ。そこに六○ポンド砲二座と二四ポンド砲十三座が設置されたが、なかにはロシア皇帝から幕府に贈られたディアナ号(下田で破損したロシア軍艦)の備砲五十二門のうちの一部が使われていた。
 敵の攻撃目標になりやすい台場の土石は箱館山から取ったが、重要部分は備前の御影石を大坂から取り寄せて使った。この台場は明治二十九年(一八九六)、港湾改良工事のために取り崩されたが、そのさい、より堅牢にするため四隅に鉄筋を貫徹していたのが発見されて、当時の高度な技術に専門家も感嘆の声をもらしたという。
 つづいて安政四年十一月からは、箱館の海岸から約三キロメートルに位置する亀田村の地に、五稜郭と呼ばれる亀田役所土塁の工事が始まり、七年後の元治元年五月に完成している。周囲約千九百聞、高さ約一丈五尺、直径約百八十間、面積五万四千百二十二坪(『函館市史・通説編』昭和五十五年)という、日本最大の西洋式墜塁だ。
 ただし当時、西洋の軍艦に搭載されていた砲の射程距離は四キロメートルを超えており、箱館港に侵入された場合、この場所では攻撃目標になってしまう可能性かあった。しかし奥地に築くには工費がかさみ、また近くに水の利がないなどの理由から亀田村に決まったのだという。このあたり、「実戦用要塞」を本気で遣る気かあったのか、首を傾げたくなるところでもある。
 各地から土方人足が集まり、最も工事が盛んだった文久年間(一八六一〜六四)には六千人もが働いていたと、『函館市史別巻・亀田市編』にある。施工は弁天岬台場同様、土工事を松川弁之助(越後出身)、石垣工事を井上喜三郎(備前出身。品川台場築造にも参加)、奉行所や役宅などの建設を中川源左衛門(伝蔵)らが請け負った。
 この築造が、箱館市街の繁栄におよぼした影響は大きい。戸数は増加して、安政五年二月には足軽長屋付近に湯屋が開業、やがて料理屋なども開店する。
 元治元年六月、箱館奉行小出大和守秀実は箱館山のふもとより奉行庁舎を五稜郭に移し、政務を行うようになった。同心長屋や役宅も多数建てられる。いずれも敵の攻撃目標になるような、高い建物ではない。
 居住施設と要塞との分離が明確に行われていないのが日本の城郭の特徴だが、この点五稜郭も同様であった。和洋折衷とされるゆえんである。
 五稜郭の形状は五稜、つまり五つの突角がある星型だ。それは小銃を防御兵器とし、城内から攻撃するさい、死角を削減することができるからである。また、攻撃に対しても被害が少ないとされた。このスタイルは西洋では十六世紀から実用化されていたが、日本では幕末になってはじめて実現している。西洋では煉瓦を使った部分が、旧来の土塁と石垣で処理されるなど、やはり和風の築城だ。ただし西洋では小銃での防御から、大砲を据えて防御する時代へと移行していたため、恒久的な稜塗式の要塞というのは、時代遅れでもあった。
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