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          一坂太郎−幕末・英傑たちのヒーロー

■「七生説」に見る死生観

<本文から>
「七生説」には、松陰の死生観がよく表れている。桧陰という人物の行動を理解する上で、最も重要な文章とされている。伊豆下田の柿崎弁天島(密航を企んだ松陰が潜んだ地点)にも明治四十一年(一九〇八)ころ、地元有志により「七生説」を刻んだ石碑が建立されたほどだ。
「七生説」の中で松陰はまず、
「体は私なり、心は公なり。私を役して公に殉ふ者を大人と為し、公を役して私に殉ふを小人と為す」
 と説く。意味はこうであろう。人間は元来、体(肉体)と心(精神)から成っている。体は「私」で本能のまま動く。だが、心は神に近く「公」で普遍的な存在だ。だから「公」を主、「私」を従にする者を「大人」と呼ぶ。一方、「私」を主にし、「公」を従にする者を「小人」と呼ぶ。
 さらに松陰は続ける。
 小人は生命が尽きると、その遺骸は腐り果てて土くれとなり、二度と戻ることはない。一方の大人は天の「理」と通じている。たとえ肉体が朽ちても「理」は古今にわたり天地と共に存在、活動するので、その心は決して朽ち果てはしない。
 そのように体と心、公と私の関係を説明した上で松陰は、正成の最期に言及する。
 後醍醐天皇の忠臣である正成は、足利尊氏の大軍と戦い敗れ、弟正季と共に兵庫湊川で自刃した。
 そのさい正季は、
 「願わくば七たび人間に生まれて、以て国賊を滅ぼさん」
 と誓う。正成も、
 「先づ吾が心を獲たり」
と合意し、刺し違えて死んだ。
 これにつき松陰は、こう考える。
 「ただ七生のみならず、初より未だ嘗て死せざるなり」
 楠木兄弟は七度生まれかわるどころか、まだ一度も死んでいないというのだ。なぜなら後世、「忠孝節義の人」は正成の忠節を知り、「興起」するからである。その度に正成は復活する。その数は計り知れず、七度どころではないのだという。 
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■桧陰の門下生たちも正成や正行を精神的支えとして活動した

<本文から>
 入江九一は文久二年(一人六二)三月、母と妻を故郷に残し、決起のため京都に赴く。そのさい岸見村の官舎に掛けていた正成墓碑の拓本軸に、次のような歌を書き添えた(野村靖『追懐録』明治二十六年)。
 「さくら井のそのわかれぢもかゝりけむ、いまのわが身におもひくらべて」
 湊川の戦いに赴く正成が、桜井の駅で息子正行と決別する場面を、自身の境遇と重ね合わせて感慨に浸ったのだ。京都での挙兵計画は頓挫したが、九一は元治元年七月十九日、禁門の変で戦死している。
 このように桧陰の門下生たちもまた、正成や正行を精神的支えとして活動したのだ。
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■伊藤博文も正成崇拝者

<本文から>
 伊藤は長州藩出身で吉田桧陰門下だから、筋金入りの正成崇拝者だ。二十九歳の明治二年(一人六九)九月、湊川の正成重刑に「大蔵少輔従五位兼民部少輔 越智宿禰博文」と刻んだ石灯龍一対を寄進したこともあり、これがいまも残っている。
 明治四十二年十月二十六日、六十九歳の伊藤がハルビン駅頭で韓国人青年に暗殺されるや、雑誌『冒険世界』は「伊藤公追悼号」(十一月五日付発行)を出したが、その中に「楠公崇拝の藤公」という一文がある。
 それによると伊藤は、守り本尊の虚空蔵菩薩像真に正成・正行父子の忌日を刻んでいた。あるいは正成の話をするさいはつねに「吾輩の崇拝しておる」とか「吾輩の好きな」とかいった言葉を冠したという。
 あるいは明治二十六年三月二十四日付『東京日日新聞』には、国家を挙げて正成の子孫探しが行われたことにかんし、次のような記事を載せている(『新聞集成明治編年史・八』昭和九年)。
 「楠公の商五十名
  宮内省で調査と聞き自称血統者が続出
 宮内省に於ては先年以来楠廷尉正成朝臣の血統を取調べ居らるゝ由なるが、是迄系図及び古書類等を添へ、届け出でたる者五十名に及びしか、執れも正統の者に非らずといふ」
 子孫が五十名も名乗りを挙げて来たが、どれも「正統の者」ではなかったというのが面白い。国民的英雄となった正成に、少しでも縁を持ちたいと願う者が、いかに多かったかというゝとだろう。正成人気の高さが、うかがえる。
 そうした正成崇拝の核となったのは、なんといっても明治五年、正成墓所に建立された湊川神社であろう。居留地に住む外国人までが見物に訪れる、神戸を代表する名所となってゆく。
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■攻めても祭神、守っても祭神

<本文から>
 戊辰戦争よりも以前、幕末の政治運動に関わり命を落とした殉難者の慰霊については明治初年に布告されていたが、なかなか実行には至らなかった。
 明治八年(一八七五)になりようやく、東京招魂社への合祀が布達され、ペリー来航の嘉永六年(一八五三)まで減った幕末殉難者の名簿完成が各府県に指示される。
 ところがこれも、台湾出兵、西南戦争の戦死者合祀が優先されたために遅れた。それでもやがて各藩出身者の名簿が整理され、明治十六年から三十年ころまでに逐次、靖国神社への合祀が実現してゆく。さらに合祀は大正、昭和初期まで続いた(『靖国神社遊就館図録』平成十五年)。
 長州藩関係六百一人は、明治二十一年(一八八八)四月二十六日の陸軍大臣達により、同年五月五日に靖国神社に合祀されている。来島又兵衛・久坂義助(玄瑞)・入江九一・寺島忠三郎・乃木初之進等々、「禁門の変」の戦没者たちも、この時合祀された。あるいは、「禁門の変」の責任をとり切腹した福原越後・益田右衛門介・国司信濃の三家老なども合祀された。
 合祀の条件は、一応ある。「ただ皇室の御為めに身を献げて忠勇事にしたがい、死してもまた護国の神たらんことを期した」ことだ(『靖国神社誌』明治四十四年)。
 にもかかわらず、御所に押し寄せ、長州藩が朝敵となるきっかけを作った者たちが、真っ先に靖国神社の祭神になるというのはすっきりしない。
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