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<本文から> 「七生説」には、松陰の死生観がよく表れている。桧陰という人物の行動を理解する上で、最も重要な文章とされている。伊豆下田の柿崎弁天島(密航を企んだ松陰が潜んだ地点)にも明治四十一年(一九〇八)ころ、地元有志により「七生説」を刻んだ石碑が建立されたほどだ。
「七生説」の中で松陰はまず、
「体は私なり、心は公なり。私を役して公に殉ふ者を大人と為し、公を役して私に殉ふを小人と為す」
と説く。意味はこうであろう。人間は元来、体(肉体)と心(精神)から成っている。体は「私」で本能のまま動く。だが、心は神に近く「公」で普遍的な存在だ。だから「公」を主、「私」を従にする者を「大人」と呼ぶ。一方、「私」を主にし、「公」を従にする者を「小人」と呼ぶ。
さらに松陰は続ける。
小人は生命が尽きると、その遺骸は腐り果てて土くれとなり、二度と戻ることはない。一方の大人は天の「理」と通じている。たとえ肉体が朽ちても「理」は古今にわたり天地と共に存在、活動するので、その心は決して朽ち果てはしない。
そのように体と心、公と私の関係を説明した上で松陰は、正成の最期に言及する。
後醍醐天皇の忠臣である正成は、足利尊氏の大軍と戦い敗れ、弟正季と共に兵庫湊川で自刃した。
そのさい正季は、
「願わくば七たび人間に生まれて、以て国賊を滅ぼさん」
と誓う。正成も、
「先づ吾が心を獲たり」
と合意し、刺し違えて死んだ。
これにつき松陰は、こう考える。
「ただ七生のみならず、初より未だ嘗て死せざるなり」
楠木兄弟は七度生まれかわるどころか、まだ一度も死んでいないというのだ。なぜなら後世、「忠孝節義の人」は正成の忠節を知り、「興起」するからである。その度に正成は復活する。その数は計り知れず、七度どころではないのだという。 |
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