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          海音寺潮五郎-幕末動乱の男たち(下)

■象門の二虎

<本文から>
 せっせと通って接触の度が重なると、松陰にも象山のえらさがわかって来る。象山もまた松陰のすぐれた素質がわかって来る。師弟の交情は最も美しいものになった。
 象山は生涯に一万五千人の門弟を養ったという人だが、その多い門弟の中で、この頃最も卓出していたのは、越後長岡藩の小林虎三郎であった。これも象山につくまでに儒学を十分にやって来た人である。松陰は忽ちこの小林と並称されるようになって、人々は「象門の二虎」と呼んだという。
 象山も二人を見ることが特に厚く、
 「吉田の胆略と小林の学識は、皆稀世の材である。天下のことをなすには吉田が適しており、わが子を託するには小林がよい」
 と言ったという。これでは象山は松陰の教育家としての天分を認めなかったことになりそうだが、象山の真意はそうではなく、松陰の教育では子は義烈の士となって、将来が危険であるが、小林の教育なら円満具足に仕立て、従って子供の運命も平安となるであろうというのであったろう。小林はおだやかな人がらであったらしく、後に岡津の河井継之助が藩政をとって、官軍に反抗した時も、反対して事を共にしていないのである。
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■ペリーは松陰らに感動し寛大な処分を希望していた

<本文から>
 ペリーは二人に会いはしなかったが、好意は十分に抱いた。しかし、日本の国法を破っては新しく成立した両国の和親を破ることになると考え、また、たとえ両人の願いをゆるしても、下田碇泊中は日本政府から探索されることもあり得ると考えたのであった。
 松陰らは大いに当惑して、
「われわれは陸にかえれば斬首されるにきまっている。このままここにおいてくれ」
 と、熱心は嘆願をくり返したが、きかれず、ボートに乗せられて岸に送り返された。
 二人は岸に上って小舟をさがしたが、暗さは暗し、見つけることは出来なかった。
 小舟が役人らにおさえられれば、乗っている荷物によって、二人の身分は暴露する。うろうろしている間に捕えられては見苦しいことになると相談して、柿崎村の名主の家に行って事情を語って処置を請うた。名主は狼狽して、「お逃げなされよ」とすすめたが、二人は「逃げるくらいならこうして来はせん」とはねつけた。
 こうして、松陰等は下田の牢につながれた。
 その牢は長命寺という寺に急造されたもので、わずかにたたみ一畳じきくらいの広さしかなく、二人は膝をまじえてすわっていなければならなかったという。
 この牢の前に、ある日一組の米国士官らが散歩の途次、偶然に来た。士官らは先夜のことを知っているので、驚いて立寄って、見舞いを言った。二人は非常によろこんだが、失敗を少しも気にかけていないような沈着な様子であった。
 士官らが帰艦してこのことを語ったので、翌日から見に行く者が多かった。すると、ある日、
 二人は板片に次のような漢文を書いたものを渡した。
 英雄といえども失敗した時は、世間はこれを目するに悪漢・盗賊を以てする。路海の策失敗に帰したわれらは、当局に揃えられ、飛鳥翼絶え、繰維に碑吟する身となった。今やわれらにたいする役人らの待遇は、軽蔑残暴いたらざるないが、われらは省みて一点の恥じる所がない。今こそ、われらはわれらが真の英雄漢であるかどうかを試練するよい場に遭遇したのである。われらは日本のために五大洲を周遊して、見聞を広めんとしたのだが、かなしいかな、計画蹉跌し、この烏龍のごとき狭い監房に投ぜられ、寝食坐臥も思うにまかせず、ほとんど生を保つことが出来ないほどであるが、泣かんか、しわざ痴愚とされん、笑わんか、しわざ横着漢とされん。黙々
たるにしかないのである。

 という意味がそれには記してあった。
 ぼくはペリーの遠征記を読んでここに至るごとに、懸命にこらえて誇りを保っている松陰らの気持を思って、いつもまぶたが熱くなる。ペリーも感動して、二人にたいする処分の寛大ならんことを幕府役人に希望し、役人らも決して厳刑にほしないから安心してくれと言っている。
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■同囚であった富永有隣への愛情

<本文から>
 また、野山獄で同囚であった富永有隣にも手伝ってもらうため、藩にたいして釈放運動にかかった。これは一つには富永にたいする松陰の愛情であった。
 富永は隻眼の大男であった。狛介な性質で、獄中で松陰が読書会をはじめた当座は、馬鹿にしたような態度でいたが、松陰の講義を聞き、その人となりを見ている間に、すっかり松陰に傾倒するようになったのである。これも松陰の特質の一つだが、枚陰はほとんど人を悪意をもって見ない人であった。どんな人にも長所を見た。松陰自身も、後のことになるが、人から甘いと言われて、
 「人を見るに甘いのは決してかまわない。刻薄であるよりずっとよい」
 と言っている。これは松陰の育った家庭が最も和気にあふれたものであり、愛情ゆたかに育ったためであると思われるのだが、これが教育家に最も望ましい素質であることは説明するまでもない。こんな松陰であるところに、富永は相当な学識があり、自分を尊敬してもいるのだ。松陰としては愛情を持たざるを得ないわけだ。
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■松陰の凄味ある最期

<本文から>
 「拙者は死罪に相当する罪が二つござる。当り前なら自首すべきでござるが、他人に累を及ぼす恐れがござるので、そうしないのでござる」
 と言った。役人は心中はっとしながらも、
 「ここで自らそういうほどのことであれば、大罪ではあるまい。ありのままに申せ」
 と、やさしく言う。
 松陰は人を疑うことを知らない人だ。「奉行もまた人の心あり、われ欺かるるも可なり」と思って、間部要諫策(襲撃とはいわなかったのである)と大原重徳を西下させようとしたことを述べた。
 ここで奉行は態度を改めた。
 「その方が国のためを思う心はよくわかるが、ご老中を刺し申そうとは不屈至極、吟味中、揚屋入り申しつける」
 と、伝馬町の揚屋に入れられた。
 松陰はここの揚足でも、牢名主代の元福島藩士沼崎吉五郎に孫子と孟子を教えている。暗記しているところを教えたのだ。
 やがて、死刑はまぬがれないという気になったので、門弟らにわが志をのこすために留魂録を書きはじめた。この書名は、冒頭の、
 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂
 の歌によるのである。
 十月二十七日、判決の申渡しがあった。
 小幡高政は長州藩の公用人で、この日長州藩の代表者として、評定所の法廷に立合った人であるが、後年こう語っている。
 松陰は獄卒に導かれて潜戸から入って来、定めの席について、一礼して人々を見まわした。鬚も髪も蓬々として眼光鋭く、人が違うように凄味があった。
 死罪申渡しの文を読み聞かせられた後、立ちませい! と言われて立ち上り、自分の方を向い
て一礼した。潜戸から外へ出たかと思うと、朗々たる吟声が聞えた。
 吾今国のために死す
 死して君親に負かず
 悠々たる天地の事
 鑑頗 明神にあり
 奉行らは粛然として聞いていた。
 護卒らもそばにいかがら制止するのを忘れたもののようであった。吟諦がおわると、にわかに気がついて、あわてて駕籠にのせた。
 一旦伝馬町の獄に帰り、袴姿になって細をかけられて、小塚ッ原の刑場に引かれて行くのである。獄を出る時、同囚の同志らに訣別のつもりで、留魂録の和歌と今評定所で吟じた漢詩とを吟諭したという。
 刑場の態度も従容として実に見事であったという。年わずかに三十であった。
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■山岡は維新後も清白無類の男として生きた

<本文から>
  駿府では、山岡は藩政輔翼とされた。昔なら家老というところであろうが、何せ八百万石の大身代が七十万石になったところに、随従して移住して来た旗本・御家人が多い。無禄を覚悟でついて来た人々であるが、出来ることならいくらかずつでも手当をやりたい。家老だからといって、そうもらえるものでない。まして山岡は清白無類の男だ。くれるといわれたってもらいはしない。相変らずの貧乏であった。その上、食客は前に増して多い。妻女は麦・粟・芋・大根等を種蒔きから、収納、麦つきに至るまで、全部自分でやったという。
 明治四年七月に廃藩置県があった。山岡は静岡で隠居して暮すつもりでいた。西郷は明治元年に会津城が落ちると、さっさと国に帰っていたが、新政府の要望でこの年の二月、出京して、六月から木戸とならんで参議になっていた。山岡にぜひ出て政府につかえてくれるように頼んだ。
 西郷は山岡のような人間が大好きなのだ。西郷の有名な「命もいらん、金もいらん、名もいらん云々」のことばは、孟子の「富貴も淫する能はず、貧臓も移す能はず、威武も屈する能はず、これをこれ大丈夫といふ」ということばを彼流に言ったものだが、江戸開城の相談の時、海舟にむかって山岡をほめたたえたことばだという一説もあるほどなのだ。山岡のような人に役人になってもらいたかったのである。
 山岡もついに動かされて、十一月から茨城県参事になった。知藩事は水戸の殿様だ。参事というのは皆の家老である。しかし、これは一月でやめて、九州伊万里県の権令になった。副知事というところだが、正任の県令がいないのだから、知事と同じであったわけである。
 翌五年、西郷は宮中改革に着手して、女官が内諸によって政治に干与したり、人事を動かす途を杜ぎ、天皇の侍従にも武家出の剛直清廉な人を任命した。西郷はその侍従の一人に、山岡になってもらいたいと頼んだ。
 山岡は固辞したが、西郷は手をかえ品をかえ口説いた。さすがにことわれなくなって、
 「十年だけ、おつとめしましょう」
 と条件をつけて、承諾した。それは五年六月であったが、きっちり十年目の十五年六月に辞職し、何と引きとめられても、もう聞かなかった。
 山岡が明治政府につかえたのをあきたりないとする人があるが、山岡は権勢欲や利欲のためにつかえたのではない。江戸開城の時世諸になった西郷への義理でつかえたのだ。だから、約束の十年でさっさとやめたのである。ここを見てやるべきであろう。
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■田中新兵衛が犯人とされた姉小路暗殺事件の謎

<本文から>
 人々は一層緊張した。薩摩にたいする疑惑が探くなったことは言うまでもない。
 三条も、姉小路も、いずれも国事参政の職にあり、尊攘派公家の最左派で、現在の朝議は二人がリードしていると言ってよい。従って長州藩の朝廷における代弁者の観がある。同時に二人を狙ったとすれば、薩摩は大いに疑うべきである。
 そこへ那須信吾が駆けつけて来た。この頃では那須は藤井良節の家も出ていた。その刀を見て、
 「これは田中新兵衛の自慢の那邦である」
 と言う。
 人々はおかしいと思った。新兵衛は武市と義兄弟の盟約を結んだほどのなかである。武市を尊敬し切っている。武市と姉小路はこれまた最も親密ななかである。昨年の十月三条と姉小感とが勅使になって江戸に行った時は、武市は姉小路の諸大境柳川左門と名のって随従し、以後武市の敬愛、姉小路の信愛は、君臣の間柄のようなのだ。これらのことは、皆よく知っていることである。(中略)
 しかし、新兵衛は知らぬ存ぜずの一点張りだ。永井は証拠の刀を出して、
「この刀が証拠だ。その方の刀に相違ないと、その方の知人らが口をそろえて申しているぞ。よもや、そうでないとは申せまい」
 と詰問した。
 「見せていただきとうごわす。とっくりと見せて下され」
 永井は刀を下役の者に渡して、新兵衛の前に持って行かせた。新兵衛は受取って、じっと見た後、
 「いかにも、拙者の差料に相違ござらぬ。しかしながら、姉小路卿を暗殺したのは、拙者ではござらん。拙者はさらに関係はござらん。はっきりと申しておきます」
 と言ったかと思うと、いきなり腹を切ってしまった。
 一説では、その刀で切腹したといい、一説では差していた脇差をぬいて切腹したともいう。
 皆がおどろいて飛びかかったが、その以前に、新兵衛は腹につき刺していた刀をぬき、自らの頸動脈をはねていた。
 新兵衛が納得の行く弁解をしないで自殺してしまったので、薩藩が疑われるのは当然である。これまでうけたまわっていた蛤御門の警衛の任を解かれ、藩士らが宮門に出入りすることを禁ぜられ、京都政界は長州藩の独檀場となってしまった。
 なおまた仁礼源之丞は芸州藩に、下僕の藤田太市は米沢藩にお預けとなったが、間もなく二人ともに逃亡してしまったという。どこまでも歯切れの悪い、後味の悪い事件である。
 姉小路暗殺事件は、推新史上の謎の一つになっている。
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■無実の河上彦斎は長州の大官から恐れられ死刑になった

<本文から>
 十一月、突然、彦斎は捕えられて、投獄された。
 その嫌疑の一
 昨年冬から今年の正月にかけて、長州の諸隊が暴動をおこした。藩が兵制を改革して、奇兵隊その他の隊を廃止して常備軍一本槍にしようとしたことが主原因であるが、これにつけ加えて、維新戦争の行賞の不公平、攘夷方針の廃棄、兵制の洋式化などが怪しからんと言い立てて騒ぎをおこしたのである。一時は非常な勢いであったが、やがて藩兵に討伐されて敗れ、首領大楽源太郎はじめ十七、八人が彦斎を頼って鶴崎に落ちて来た。彦斎は長州の諸隊とは浅からぬ因縁がある。攘夷方針を堅持して洋風化をきらうのは彼の素志でもある。これをかくまったという罪。
 嫌疑の二
 大楽らは山口奪還を計画して、彦斎に鶴崎兵営に保管する銃器・弾薬・糧食等を貸してくれと頼んだ。彦斎は表面拒絶したが、無断奪い去るのであればやむを得ないと匂わせたのではほないか
 という疑い。実際は断然拒絶している。
 嫌疑の三
 当時、全国的規模を持った大陰謀があった。公家の外山光輔・愛宕通旭・秋田藩大参事初岡敬次、久留米藩の大参事水野正名、少参事小河真文、古松簡二、前述の大楽源太郎、その他多数の人−七卿落ちの際の一人沢宣叢、石州津和野藩主亀井侯なども加担していたという−が党与となって、政府を転覆し、都を京都にかえし、諸事旧に復するという計画を立てて運動していたが、これが暴露し、一網打尽に捕えられた。発覚の動機は沢宣嘉と亀井侯とが裏切ったのであると伝えられている。沢宣嘉のことについては、「平野国臣」でも書いたが、平野の生野挙兵に首領と仰がれながら、軍用金をたずさえて無断逃亡するという、裏切り同然のことをしている。おもしろくない人がらであったようである。それはさておき、この陰謀に彦斎も加担しているという疑い。
 彦斎は中央政府からの示達を受けた藩更に取調べられた。
 第一条については認めた。
 第二条は否認した。しかし、藩吏は疑いを捨てなかった。
 第三条も認めた。ただ、実際には何もしなかったと言った。事実その通りなのであった。
 やがて、身がらは聴取者とともに東京に送られた。
 東京では小伝馬町の牢に入れられた。大陰謀の同志らも囚えられている。他の人々にはきびしい取調べがあったが、彦斎には何の尋問もなかった。
 ある日、裁判官の玉乃世履−周防岩国帝人で、明治の大間越前守といわれたほどの名裁判官である−が、彦斎の監房に来て、
 「あんた、攘夷主義を捨てなさらんか。昔と時勢が違うて来たのじゃ。国家のために、あんたのために、考えをかえてもらいたいのじゃ」
 と忠告した。
 彦斎は礼を言った後、言った。
 「出来ませんなあ。そうしては、攘夷の達成を信じ、達成のために死んだ同志に申訳がなか。あんたは時勢がかわったと言われるが、時勢は少しも変っておらん、変ったのは政府の諸公の心だけですたい。多数の同志を犠牲にして得た、今日の地位、今日の権勢、今日の富、今日の安楽な生活が可愛ゆうなって、時勢が変ったと言うのです。わしアそぎやん人達とは違いますたい」
 明治四年十二月三日に刑が確定し、翌日斬られた。刑場にひかれるために牢を出るにあたって、同囚の横枕覚助(久野米人、これは死刑にはならなかった)に、
 「あんた、わしの遺言じゃというて、天下の同志に言うて下さい。鍋のつるは曲げてこそ役に立つのに、彦斎はわざと真直ぐにして使うた、そのために、こぎゃん目に逢うた、わしが真似ばしてはいかんばいとな」
 と言って、呵々として大笑したという。死する時、三十八。
 前述した「河上彦斎」の著者桧山守善は、熊本敬神党の一人で、彦斎を師と仰いだ人であるが、
 この人が後年この時の判決を言い渡した島本仲道−土佐人、審次郎、「武市半平太」に出て来る−に会って、この時のことをたずねたところ、
 「彦斎には、実は死刑に相当する罪跡の証拠はなかったのだが、長州の先輩が、彦斎はとうてい考えをかえるやつではない、生かしておいては、所詮は陰謀を企てる、今のうちに死刑にした方がよいと主張したので、死刑にしたのだ」
 と語ったという。かつての同志の長州の大官らは、彦斎をよく知っているだけに、恐ろしかったのであろう。長州の第一の先輩といえば、木戸だが、木戸は前々月八日に岩倉具視らとともに欧米視察に出発しているから、言いおいたのであろう。
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