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<本文から> せっせと通って接触の度が重なると、松陰にも象山のえらさがわかって来る。象山もまた松陰のすぐれた素質がわかって来る。師弟の交情は最も美しいものになった。
象山は生涯に一万五千人の門弟を養ったという人だが、その多い門弟の中で、この頃最も卓出していたのは、越後長岡藩の小林虎三郎であった。これも象山につくまでに儒学を十分にやって来た人である。松陰は忽ちこの小林と並称されるようになって、人々は「象門の二虎」と呼んだという。
象山も二人を見ることが特に厚く、
「吉田の胆略と小林の学識は、皆稀世の材である。天下のことをなすには吉田が適しており、わが子を託するには小林がよい」
と言ったという。これでは象山は松陰の教育家としての天分を認めなかったことになりそうだが、象山の真意はそうではなく、松陰の教育では子は義烈の士となって、将来が危険であるが、小林の教育なら円満具足に仕立て、従って子供の運命も平安となるであろうというのであったろう。小林はおだやかな人がらであったらしく、後に岡津の河井継之助が藩政をとって、官軍に反抗した時も、反対して事を共にしていないのである。 |
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