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<本文から>
新七は生来、激烈・純粋の性質の人であった。彼自身もその自叙伝に、「天性急烈で、暴悍で、長者の教えに従わず、しばしば叱られた」と書いている。こんな性質であるところに、時代の思潮に尊王賤覇の傾向があったので彼の思想ははげしくこれに傾斜している。彼の十三の時、十二代将軍家慶が、将軍宣下を受けているが、彼は国許にいてこれを聞き、父にいきどおりの手紙を書いている。
「徳川が将軍宣下を受けたということですが、これは京に上ってお受けすべきで、江戸にいながらお受けするとはけしからんことです」
これにたいして、父四郎兵衛は、
「将軍はかしこくも天皇から大将軍の職任をこうむられたのだから、徳川などと呼びすてにしてはならない。徳川公と書くべきである」
と訓戒してやっている。
このような彼が、間もなく崎門学(山崎闇斎派の朱子学の洗礼を受けたので、その性質と思想とは一層純粋・激烈となった。崎門学は朱子学といわず、あらゆる儒学の中で、最も大義名分を重んじ、その学風の激烈で純粋なことは、学祖の闇斎以来のことである。
自叙伝によると、彼は十四歳の暗から崎門学を修めて、友人らとともに「靖献遺言」(閤斎の高弟浅見締就の書。中国の忠臣烈士の列伝である)を講習したとあって、師匠の名が出ていないから、崎門学を学んだというのも、師匠にはつかず、その学派の人々の著書を手に入れて自習したのであろう。つまり、たまたまついた師匠が崎門学の人であったというのではなく、自らの好みによってこの学派をえらんだのである。
十九の時、江戸遊学の藩許を得て、途中京の父の許にしばらく滞在して、江戸に行き、闇斎学の泰斗である若狭小浜の帝土山口菅山の門に入ったが、翌年からは師の代講をするほどとなったことを自叙伝にしるしている。よほど精励したのであろうが、山口門に入るまでに独学で相当深いところまできわめていたのであろう。
この翌々年、京都に来て、梅田雲浜と深い交りを結んでいる。これは山口菅山の紹介だったに違いない。雲浜は前小浜藩士であり、また崎門学の人であるからだ。平凡社版の「大人名事典」によると、菅山の弟子である。 |
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