その他の作家
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          海音寺潮五郎-幕末動乱の男たち(上)

■有馬新七は激烈・純粋の性質の人

<本文から>
 新七は生来、激烈・純粋の性質の人であった。彼自身もその自叙伝に、「天性急烈で、暴悍で、長者の教えに従わず、しばしば叱られた」と書いている。こんな性質であるところに、時代の思潮に尊王賤覇の傾向があったので彼の思想ははげしくこれに傾斜している。彼の十三の時、十二代将軍家慶が、将軍宣下を受けているが、彼は国許にいてこれを聞き、父にいきどおりの手紙を書いている。
 「徳川が将軍宣下を受けたということですが、これは京に上ってお受けすべきで、江戸にいながらお受けするとはけしからんことです」
 これにたいして、父四郎兵衛は、
「将軍はかしこくも天皇から大将軍の職任をこうむられたのだから、徳川などと呼びすてにしてはならない。徳川公と書くべきである」
 と訓戒してやっている。
 このような彼が、間もなく崎門学(山崎闇斎派の朱子学の洗礼を受けたので、その性質と思想とは一層純粋・激烈となった。崎門学は朱子学といわず、あらゆる儒学の中で、最も大義名分を重んじ、その学風の激烈で純粋なことは、学祖の闇斎以来のことである。
 自叙伝によると、彼は十四歳の暗から崎門学を修めて、友人らとともに「靖献遺言」(閤斎の高弟浅見締就の書。中国の忠臣烈士の列伝である)を講習したとあって、師匠の名が出ていないから、崎門学を学んだというのも、師匠にはつかず、その学派の人々の著書を手に入れて自習したのであろう。つまり、たまたまついた師匠が崎門学の人であったというのではなく、自らの好みによってこの学派をえらんだのである。
 十九の時、江戸遊学の藩許を得て、途中京の父の許にしばらく滞在して、江戸に行き、闇斎学の泰斗である若狭小浜の帝土山口菅山の門に入ったが、翌年からは師の代講をするほどとなったことを自叙伝にしるしている。よほど精励したのであろうが、山口門に入るまでに独学で相当深いところまできわめていたのであろう。
 この翌々年、京都に来て、梅田雲浜と深い交りを結んでいる。これは山口菅山の紹介だったに違いない。雲浜は前小浜藩士であり、また崎門学の人であるからだ。平凡社版の「大人名事典」によると、菅山の弟子である。 
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■天皇への忠誠を第一義とし、藩主への忠義を第二義とした

<本文から>
 この時代の諸藩の志士は、強い尊王心を抱きながらも、天皇への忠誠と藩主への忠義の板ばさみになっている。高杉晋作のような人すら、それに苦しんでいる。しかし、新七はこの点わり切っている。天皇への忠誠を第一義とし、藩主への忠義を第二義とし、朝廷の大事にたいしては、藩士たるものは藩主を説得して藩全体として忠勤をつくさせることに努力を傾倒すべきで、それの容れられない時はただ一人去って勤王すべきであると、その著「大疑問答」に書いているのである。現代人から見れば大したこととは考えられないであろうが、当時の人としては血みどろな苦悩の未に到達した断案である。この時代の人になったつもりで考えてやるべきことであろう。
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■自叙伝を息子に託し、妻を離縁し覚悟していた

<本文から>
 久光は文久二年の三月十六日に鹿児島を出発した。従者千余人であった。彼は出発に際して、随行の藩士らに訓令を出している。要領は、
 「万事、余の統制に従って行動せよ。諸藩の過激な主や浪人の企てに引きずりこまれてはならんぞ」
というのである。彼も何となき予感があったのであろう。
 新七は伍長として随従しているが、出発にあたって、自叙伝を草して十二になる息子の幹太郎にのこし、また妻ていを離別した。これをあやしんだ叔父の坂木六郎が追いかけて、川内町で追いつき、
 「そなたはこんどのお供において、何か企てているのではないか」
 とたずねると、新七はうなずいた。
「やるつもりでございもす。公武合体なんどという因循なやり方では、どうにもなりはしもはん。何事も皮切りするものがなくてはならんのでごわすから、わしらが.こんどそれをやりもす。たとえ成らんでも、やればきっとあとをつぐものが出て来もす。わしらは源三位頼政になるつもり。ただいさぎよく死のうとだけ思うとりもす」
 六郎はしばらくうつ向いていた後、顔をあげて、
 「よかろう。存分にやれ」
 と言って、別れて帰ったという。
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■有馬新七の最期

<本文から>
 「ああ、聞かん!こうなった以上、何といわれても聞かんぞ!」
と答えた。
 とたんに、道島は、上意!とさけぶや、抜打ちに田中に斬りつけた。田中はひたいを切りわられ、眼球を飛び出させて気絶した。
 この時、別路を取った五人も到着していて、新七らのうしろに立っていたが、柴山愛次郎のうしろに立ち、刀のつかに手をかけていた山口金之進は、サッと抜刀するや、エイエイと掛声して、柴山に斬りつけた。示現流の型をそのまま、左右の肩を袈裟がけに斬ったので、柴山の首はX字形に切りひらかれた胸からほろりと前におちた。柴山は大坂にいる頃から、もし上意討ちのお使いがあったら、おいどんは手向いせんで斬られるつもりであると言っていたが、この時も小刀だけで二階からおりて来て、斬られた暗も両手を畳についていたという。
 道島が田中の両部を斬りつけた時、新七は猛然としておどり上った。刀をぬいて道島に斬ってかかった。道島は示現流の名手、新七伯叔父坂木六郎から神影流を授けられて中々の達人である。双方一歩も退らず、ハッシ、ハッシと斬り合っているうち、新七の刀は鍔元からおれて飛び散った。しかし、新七はひるまない。かえって道島の手許にふみこみ、道島を壁におしつけた。もみ合っているところに、橋口壮助の弟吉之丞が刀を抜きはなってそばに来て、新七を助けようとしたが、はげしくもみ合っているので、助勢のしようがない。うろうろしていると、新七はどなった。
「おいごと刺せ! おいごと刺せ!」
 吉之丞はこの時やっと二十歳だ。逆上しきっている。
 「チエーストー!」
 と大喝して、渾身の力をこめて、つかも通れと、両人を串ざしに壁に縫いつけた。
 これが新七の最期であった。壮齢三十八。
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■平野国臣は尚古主義

<本文から>
 「月代をおくのは本来の日本の風ではなく、戦国時代以後のものである。当世の衣服は古制のものでない。刀のこしらえ、帯びようもまたそうである。皆よからぬことである」
 といって、髪を総髪にし、毛鞘の太刀を凧いたり、烏帽子・直垂を日常に着用したりしていたことは有名であるが、それは漸斎の感化なのである。
 この尚古主義には同志があった。足軽なかまの日高四郎、藤四郎などという人々がそれで、いつも、
 「故実を調べて、せめては太刀なりとも古制のものをととのえたい」
 と語り合っていた。
 もっとも、この頃までは実行はしない。実行したい気は大いにあったが、黒田の家中として、また役付の者として、さらにまた養子の境遇として、世間とあまり調子の違うことは遠慮しなければならなかったのである。
 二十四歳の春、普請方手付としての仕事で、宗像郡大島に出張した時、北条右門という人物と知合い、忽ち親しくなった。
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■この時期に討幕の計画と新政府の方針とを構想し、文章にまで書いたのは、平野国臣一人

<本文から> それから間もなくのことだ。筑前藩の捕吏共も、どうやら国臣は関門や博多地方にいず、筑後・肥後方面があやしいと気がついて、国臣の身辺は大いに不安になって来た。そこで、河上彦斎が心配してくれて、潜伏場所を天草下島の南端牛深の近在に移し、寺小屋の師匠となって生活を立てることになった。
 国臣が牛深に潜んで二、三カ月の後、筑前藩では津内の勤王分子の処分を実行したが、苛烈で、また広範囲にわたった。切腹や死罪になった者こそなかったが、減禄、流罪、牢舎、押込め、外出禁止、免職、譴責、謹慎等、総勢で三十余人にもおよび、それは隣の秋月藩にまでおよんだ。
 (筑前藩はこの三年後の慶応元年に、滞内の勤王分子を大量に切腹、斬罪等に処している。ついに勤王藩にはならなかったのである。先祖が領地を四倍以上にしてもらった恩は根強いものであった)
 国臣は牛深にいる間に、「尊撰英断録」なる、漢文の長篇文章を書き上げた。この文章のことについては、「有馬新七」で書いたが、ここでも書かないわけに行かない。薩摩侯への建白書の形式をとり、堂々七千余言のものである。
 「日本今日の急務は、外難を克服して国の独立を碓保することであるが、そのためには挙国一致の体制となるこせが絶対肝要である。挙国一致は薩摩のような富強な大藩が奮起すればわけなく出来るのである。すなわち、朝廷に請うて討幕の勅をいただき、兵をひきいて東上し、大坂城を抜き、天下に義兵を募り、粟田宮(前の青蓮院宮、後の中川官、久淘宮朝彦親王)を将軍とし、鳳輦を奉じて束征し、箱根に行在所をおき、幕府の降をうながし、幕府が罪を謝して降伏するなら寛宥して諸侯とし、然らざれば断乎としてこれを伐つのである。かくて、日本は天皇を中心とする、最も強固なる結束を持つ国となるのである」
 というのが、要領だ。討幕論である。
 この時点ではまことに乱暴な意見のようだが、この六、七年後には、大略この段取りをとって、維新政府が設立されたのであるから、最も鋭敏な見識と称すべきである。
 もちろん、こうして出来た新政府の政治方針についでも、構想されていて、それはなかなか雄大である。
一体、ペリーが来航して開国を強要して以来、多数の憂国の士が社会の各層に出て、国を憂えて熱心に言論、奔走してなかなかさかんなことであったが、安政の大獄までは、幕府否定の意見も、運動もなかった。最も尊王心の純粋・強烈な人でも、その時局匡救の方策の根本は、
 「幕府は日本の政治の中心である故、今日外難幅湊の時にあたっては、急速に強化する必要がある。そのためには、幕府は日本人の精神の中心である朝廷を尊崇し、重んじ申さなければならない。そうすれば、日本は挙国一致の体制となり、国難を解決し、独立を確保し得る力が出来る」
 というに尽きた。安政大獄以前の時点では、まだ「公武合体」という政治上の成語はなかったが、条約問題や将軍世子問題などありはしても、つまりは公武合体論であった。
 ところが、井伊大老が最も強力な恐怖政治を強府し、日本人中の最優秀分子、最愛国者を大量虐殺したので、網の目をこぼれて生きのこった志士達、新しく出て来た志士達の中に、幕府の存在に疑いを抱く者が出て来た。
 「幕府がこういうものであるなら、日本にとっては有害無益のものではないか。日本には国初以来の朝廷があって日本人の精神の中心になっているから、これを政治の中心にもすればよい。武家政治のはじまるまでは、日本はそうだったのだ。つまり、これは本来の日本の姿でもある。本来にかえるべきである」
 人間の考えは、そう大きな飛躍はなかなかしないものであるから、それはごく少数の人々ではあったが、たしかにあった。吉田松陰はすでに大獄の進行中、彼の捕えられる少し前、門弟入江杉蔵にあてた書簡中に、討幕のことをほのめかしている。薩摩の有馬新七、浪人志士では清河八郎がやはりこの思案に達している。田中河内介もそうであっかと思われる。
 しかし、こうまではっきりと筋道を立てて、討幕の計画と新政府の方針とを構想し、文章にまで書いたのは、国臣一人である。これはもちろん、彼が筑前藩に藩籍はあっても足軽の家の厄介人という身軽な身分である上に、純然たる浪人同様に自由に飛びまわれる境遇にいるところからの所産に違いない。しかしながら、天下に足軽は多い。浪人も多い。その中に彼だけがこうであったのは、彼が天性の自由な魂の所有者であったからだと思わないではいられない。この自由な魂が、彼が本質において文学者であったことに関係のあることも言うまでもなかろう。
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■平野国臣は八月十八日政変で命運尽きた

<本文から>「その方、急ぎ大和に下り、中山忠光卿の一味を取鎮めよ」
 と命ぜられた。
 大和行幸・攘夷親征のおふれ出しのあった日、土佐人吉村虎太郎、三河人松本謙三郎等の人々四十四人は、行幸の先駆をするために、中山大納言家の次男前侍従中山忠光を元帥におし立てて大和に下った。どうせ討幕戦争になるのだから、大和地方の幕府勢力を掃討し、強力な先鋒隊をこしらえておこうとの意図であった。いわゆる天忠組である。
 長州藩やその派の公家達は、この人々とはじめから相当な連絡があったのだが、出してやってから不安になった。闇雲に過激なことをされては、天皇や摂関らに行幸中止と言い出されるかも知れないと思ったのだ。そこで、国臣にこの命令が下ったわけであった。
 国臣は十九日に、桜井で中山忠光らに追いついたが、彼らはすでに一昨日、つまり国臣が任命を受けた当日だ、天領である五条の代官所を襲って、代官鈴木源内をはじめ五人の役人を血祭に上げ、ひしひしと戦闘準備を進めつつあったのだ。
 もう手おくれだとは思ったが、使命は達しなければならない。三条らのことばを伝え、自分の意見ものべ、論争しているところに、思いもかけない知らせがとどいた。この十七日の深夜から十八日の早暁までの間に、京に大変事があったというのである。薩摩と会津とが握手して「中川宮(前青蓮院官、栗田宮、後に久適宮朝彦親王)を動かし、こんどの大和行幸の件は、長州藩一派の陰謀で、真に討幕の陰謀がかくされている、ゆゆしい大事になりましょうと密奏してもらった。天皇は驚愕され、中川官と相談してクーデター計画をめぐらされた。すなわち、十七日の深夜、会津・薩摩の兵を召集して禁裡の九門を警備させ、それまで長州藩の任務であった堺町御門守衛の任を解き、皇族・堂上といえども召命なきものは参入を許さないということにされた。だから、長州藩も、その派の公家達も、一夜にして権力の座から逐われた。勤王攘夷派の志士達はいきり立ち、京都中鼎の沸くようなさわぎであるというのである。維新史上に最も名高い、八月十八日政変である。
 天忠組の壮士らも、国臣も驚きあきれたが、くわしいことはわからない。
 国臣は大急ぎで京に帰ってみると、長州人らは憤りのあまり、その派の公家である三条実美以下の七卿を奉じて、国許に引きあげてしまっていた。勤王攘夷派総潰滅だ。学習院も雲散霧消だ。
 国臣の学習院出仕はたった二日でおわったのだ。彼ほどの者でも、時勢に翻弄されたの感があって胸が痛むのである。
 以後、国臣の運命はもうひらけない。
 彼は天忠組に呼応するために、但馬の生野銀山で挙兵したが、元帥の沢宣弄卿が近習五人とともに、軍用金をたずさえて、誰にも知らせず逃亡するという、最もみじめな形で失敗し、豊岡藩兵に捕えられ、京に送られて六角の牢に入れられた。
 翌年七月、長州兵が大挙上京して、いわゆる蛤御門の変がおこった時、六角の獄中で、同じように囚えられている志士達と共に、新選組に殺された。彼はこの時三十七であったが、肉落ち、骨枯れ、髪もひげも雪のように白く、眼光だけがけいけいとかがやく相貌となっていたという。
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■清河八郎だけがどこの藩にもよらなかった

<本文から>
 維新時代の浪人志士にはいろいろな人がいるが、いずれも薩摩や長州等の大津の力を借りて志をのべている。そうするよりほかはなかったのである。真木和泉は長州藩により、坂本竜馬は薩摩と長州の両藩により、平野国臣は薩摩によっている。ただ一人、清河八郎だけがどこの藩にもよらない。ほんのしばらく薩摩によろうとしたが、すぐやめている。彼は傲慢にすぎたのである。頭を下げることがきらいだったのである。権勢にたいする飢餓感がありながらだ。よほどに傲慢だったのである。あの時代、強力な背景なくして志をのべようとすれば、勢い権謀術数によらざるを得ない。しかし、権謀というものは、大きな背景があれば目ざましく生きて来るが、でないかぎり、人の警戒心を呼ぶだけで、危険千万なものだ。彼はついにそのために死んだのである。
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■長野主膳は功名心旺盛で、目的のためには手段をえらばない人間

<本文から> 長野は稀な才子であるが、功名心旺盛で、目的のためには手段をえらばない人間であった。大獄をおこしたのも、この性質による。井伊は彼によって大老となったが、彼によって最も暴悪な大獄をおこして、日本の最も忠良・優秀な分子を圧殺した。井伊の死が当然であるように、彼の死もまた当然であろう。しかしながら、その大魔王的性格と妖気を帯びた美しい風姿とには、奇妙な魅力がある。「赤と黒」や「ベラミー」の主人公のようなりいつか小説にしてみたいと思う。
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■武市半平太が暗殺問屋的に見られていたが一流の維新志士

<本文から>
 半平太が暗殺問屋的に見られていたことは、中山大納言家の次男侍従忠光は狂気じみた過激派だったが、ある時諸大夫の大口出雲守を半平太の寓居につかわして、手下の暗殺名人を借りたいと申入れた事実があることをもってもわかる。
 ぼくは半平太を一流中の一流の維新志士と評価しているから、半平太のためにおしまないではいられないのである。ぼくは維新時代の多数の暗殺の中で、井伊と吉田東洋の場合以外は是認することが出来ない。この二つの場合は、除くよりほかに新しい時代をひらくことが出来なかったのだから、必要悪として認めるが、他の場合はその必要がないのだ。お調子ものの浅薄で残忍で不快な所業に過ぎない。
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■山内容堂は吉田東洋暗殺たちをつぶす機会をうかがっていた

<本文から> 彼はもともと山内家の伝統によって、幕府に愛情を持っている。公武合体が彼のぎりぎりのところだ。勤王心がないではないが、彼においてはそれは公武合体ともとるものではない。彼はまた吉田東洋を愛していた。その吉田を殺されたうらみは深刻なものがある。京・坂の地を吹きまくっているテロリズムは、皆この勤王志士と称するならず者どもがやっているのだと、腹にすえかねる気がしている。この者共をたたきつぶさなければ、日本に平安は来ないという気にもなっている。
 酒好きで、蒙酒の彼は、表面悠々として酒をのみながら、眈々として機会をうかがった。
 その容堂が、ある日、青蓮院官に会うと、宮は、
 「去年の暮やった、あんたの家中の間崎滄浪いう者と弘瀬健太いうものとが、同じ御家中の平井隈山に紹介されて、まろのとこへ来たわ。あんたの言いつけで、藩政改革するために帰国するのやが、門閥の連中が頑固やさけ、大隠居に令旨書いてくれいうて頼んだ。わるいこととは思われなんだよって、まろの令旨が役に立つなら、何とでも書こう言うて、二人の言うままに書いてやった。含んどいてや」
 と、一切ぶちまけたのである。
 一体、宮はどういう考えだったのだろう。「土佐勤王史」の著者は、宮は島津久光と親しみが深く、その政治思想は公武合体であったので、底をばらしてしまったのだと言っている。そうかも知れないし、単に軽薄で口をすべらしたのかも知れない。あるいは国許からの知らせで宮の令旨の出ていることは容堂は知っているはずだから、持ち前の鋭い調子で詰問したので、責任のがれにぶちまけたのかも知れない。この時代の宮廷人は取りとめた根性はないのである。
 容堂はこの事実を深く胸の底にたたんだ。やがてこれを武器として使おうというのである。
■八月十八日政変を機に半平太ら土佐勤王党は潰滅
 そうしているところにおこったのが、京都の八月十八日政変だ。これまで朝議をリードしていた長州藩は京都政界から追われ、三条実美ら七人の公家は長州に落ちた。昨日までの正義派は一夜にして朝廷の不興をこうむっている者共ということになったのだ。
 容堂にとっては、待ちに待った機会だ。知らせが土佐にとどくと、
「天朝へ対し奉ってそのままにさしおき難き不審の者共」
 という名目で、半平太をはじめその党与の重だった者数人に出頭を命じ、一網打尽に入牢させた。
 きびしい取調べがはじまった。東洋暗殺の下手人は誰かという糾問である。拷問ももちろん行われたが、誰も白状しない。藩庁ではあぐねた。
 ところが、翌年の六月、岡田以蔵が京都で捕えられて国許に送られて来た。以蔵は身をもちくずして、ばくち打ちとなり、そのあげくに強盗をはたらいて捕えられ、土佐藩に引渡されたのであった。
 半平太はこのことを聞いて不安がり、手をまわして以蔵に天祥丸という毒薬を食べものに混じてあたえたが、この人斬り名人は特別な体質をもっていると見えて、少しもききめがない。拷問にたえず、白状した。
 ついに一切が明らかになり、半平太以下処刑される。
 半平太は切腹、岡田以蔵は兵首、岡本次郎、村田忠三郎、久松喜代馬は斬首、その他は永牢となった。半平太の弟田内恵吉は入牢中に天祥丸を飲んで死んだ。半平太は三文字腹を切ったという。慶応元年閏五月十日のことであった。年三十七。この翌々年の十月には大政奉還があったのだから、不運といわねばならない。
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■小栗はロッシュによりかかっていて危険であった

<本文から> 小栗は蛭川新博士の著書が出て以来、大へん評判のよい人物になった。彼が幕府の末路において最も出色の人物であることは、言うまでもないが、ぼくは自分で調べてみて、博士の言うほどの人物とは思わない。博士は小栗の背後にいたフランス公使レオン・ロッシュのことを無視している。小栗の知恵はほとんどすべてロッシュの入れ知恵なのだ。それはよいとしても、全身的にロッシュによりかかっているので、日本のために非常に危険であったと思わずにいられないのだ。
 小栗が幕府側にあり、薩・長側にも小栗式の人物がいて全身的に英国にもたれかかっていたなら、当時の日本は現代の朝鮮やベトナムのように真二つに引裂かれたに相違ない。現代に左右両軍の強大国があるように、当時は英・仏の両強国があって、覇をきそい合っていたのだ。
 こう考えて来ると、勤王も佐幕もなく、日本を外国の餌食にしてはいけないと念じつづけていた勝海舟が幕府側の代表者となり、英国の力は利用しても、日本の政体変革は日本人だけでやらなければ外国の人に面目がないと、アーネスト・サトーの援助申出をことわった西郷が官軍側の代表者となって、話合いをつけたことは日本の大幸運であった。
 勝は小栗のことを、
 「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じ、しかも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。一口に言うと、あれは三河武士の長所と短所とを両方そなえておったよ」
 と批評しているが、ぼくには最も納得の行く評言である。
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