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          海音寺潮五郎−悪人列伝・中世編

■梶原景時の最期

<本文から>
 中原仲業は元来京都、の下級廷臣で、東国に下って来て頼朝につかえるようになった人物だが、元来が文墨の家に育ち、文書はその本業だ。その上書文を起草する役にあたったが、文中、
 「?を養ふ者は狸を畜はず、獣を牧ふ者は豺は育はず」
 という文句があったところ、義村は大いに感心したという。おそらく、この上書の中には、景時がこれまであれこれと申し上げて人々を無実の罪におとしてほろぼしたり、苦しめたりしたことが列記してあったと思われる。
 上書が提出されると、頼家はこれを一見して景時に下げわたし、申しひらくべきことあらば申すようと言ったが、景時は一言も申しひらくことが出来なかった。
 これは十一月十二日のことであったが、翌日、景時は子供や一族をひきいて、相模の一之官に退いた。ただ三男の景家だけをとどめおいた。情報がかりのつもりであったろう。一之官は高座郡の今の寒川町である。
 翌月九日に一旦鎌倉に帰ったが、十八日に彼を鎌倉から追放することが正式に決定し、屋敷まで破却されることになったので、また一之官にかえった。
 景時のしたことは悪いことにはちがいないが、彼自身は、おれは将軍家のおんためを思ってしたのだという自信があったろう。それゆえに、頼家がこの切所にあたって自分を見捨てたことに、一方ならぬ憤りを感じたにちがいない。彼は一之官に城郭をかまえて、いざという時には徹底的に抵抗する準備にかかったが、これが世間に高いうわさとなったので、もういけないと思った。
 翌年の正月十九日の深夜、一族をひきつれ京都をさして逃げ出した。
 報告は二十日の朝辰ノ刻(八時)に、鎌倉についた。討手がさし向けられた。
 景時一行は馬を速めて、駿河の清見が関近くまで行ったところ、ちょうどその日、その近くの武士らが野外に出て参集し、的矢を射て遊び、帰宅しつつあったが、それと出逢った。一旦はたがいに行き過ぎたが、
 「あやしいぞ! 追え」
 と、この者共は馬をかえして追いかけた。
 景時は文吏肌の男ではあるが、武勇もまたすぐれている。のがれぬところと覚悟をき
めると、とって返して狐ガ崎に陣をしいて戦った。吉田兼伍博士の大日本地名辞書によると、狐ガ崎は安倍郡の、今の豊田村の大字にその名がのこっているという。文芸春秋校閲部の調査では、豊田村は現在は焼津市になっているが、ここには狐ガ崎の大字はなく、安倍郡有度村に草薙という地があり、この村に狐ガ崎遊園地というのがあった由。いずれがそれかわからない。
 敵味方ともに東国武士だ。壮烈な戦いが行なわれ、景時をはじめとして、梶原一族はことごとく討取られた。景時の年はわからないが、長男景季三十九、次男景高三十六、三男貴家三十四だ。これから推すと、景時の年は六十を少し出たくらいのものであったろうか。
 吾妻鏡によると、景時の京都を目ざしての亡命は相当周到な陰謀をめぐらしてのことであった。先ず甲斐源氏の武田有光を将軍にすることにして有光を承諾させている。京都朝廷とも連絡のあったらしいことは、正治二年二月二十二日の条に、景時が関東を逐電したことがこの一日に京都に披露されると、仙洞では五壇の御修法をはじめられた、まことに怪しむべきことである、一体誰が景時の関東出発を奏聞したのであろうか、前もって朝廷と連絡があったようである、との記述があるによってわかる。彼にくみしていた武士らも相当あり、捕えられている記事がある。越後の城長茂は京都で兵を挙げて、上皇御所に行って院宣を強請して、ゆるされずして吉野に弄り、ここで亡ぼされている。城の本国越後ではその一族が叛旗をひるがえしている。知恵はある男だけに、景時の叛乱計画は相当に大がかり、かつ行きとどいていたのである。
 世間には頭脳が優秀であるくせに狂信的な人間がいる。こんな人間は往々にして神経質で、陰湿で、意地悪い性質になる。いわゆる刻深というやつ。官僚などになると出世する型である。景時はそれだったと、ぼくは見ている。 
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■政子の最後の大熱弁

<本文から>
 いうまでもなく、将軍とは名ばかりで、政治は全部義時の手中にあった。吾妻鏡を検すると、幕府から下す文書も義時が全部を断じているから、政子はもう関係しなかったようである。義時が血のつながりのない政子を除外したのでもあろうが、政子自身、浮世の夢を見つくした気持で、関係する気がなくなってもいたのであろう。
 後鳥羽は頼朝の系統が絶えた後、依然として幕府が存続しているのが気に入らない。上皇は源氏の系統がたえて幕府がほろび、皇権を回復出来るようにし、武士を手なずけたり、呪詛・修法をやらせたり、準備おこたりなかったのである。実朝の官位をしきりに進めて右大臣にまでしたのは、呪詛のためだといわれている。古来、朝廷ではにくしと思う臣下を呪詛する一法として「官打」というのがあった。その人にふさわしくないほどの高官に上せると、位負けして死ぬという呪法だが、実朝はそれにかかったというのである。
 後鳥羽は歴代の天皇中屈指の英明な人だが、幕府政治が時代の要求にマッチして起こったものであるということが理解されず、単に頼朝の野心によっておこったものとしか考えられなかったようだ。それ故その子孫が絶えれば幕府も解体すべきものと見ていたのに、依然としてつづいているので、失望し、腹を立て、ついに討幕にふみ切った。
 ことが勃発したのは幼年将軍頼経が鎌倉に迎えられた翌々年、承久三年の五月であった。鎌倉幕府は震撼した。
 おとろえたとはいっても、皇室の尊厳にたいする畏怖感情は当時の武士らには強烈なものがある。おそらく、皇室を利用ばかりして来た公家らより純粋な敬意を持っていたろう。人々は意気がふるい立たない。それをふるい立たせたのは、政子である。
 彼女はこの時六十五だ、承久兵乱記と承久記によると、彼女は魔の隅々まで埋めつくした武士らに向って、妻戸のすだれをおしあけて、一世一代の大演説をおこなった。先ず自分が頼朝の妻となって以来の平家追討、天下統一に至るまでの苦労をのべ、頼朝におくれ、頼家・実朝におくれた悲しみをのべ、自殺しようとまで思ったが、義時の諌めによって、頼朝の菩提をとむらい、その功業を永くのこすのが自分のつとめであると思って生きながらえていることを述べ、皆々も三代の深いご恩をこうむっているはずだ、その三代のおん墓が敵の馬蹄に蹴散らされてあとかたもなくなり、この鎌倉の地が牛馬の牧場となることをなんぼう口惜しいとは思わぬか、とのべ、語調をかえ、
 「皆々心を一つにしてうけたまわられよ。わしが最後のことばである。日本の侍達は、昔は大番は三年の期間であったので、人々はその番にあたると、一期の大事と出で立ち、郎従・脊属にいたるまで、美々しく装わせて京上りしたが、三年の期満ちて帰る時には財宝費いつくし、馬もものも売りはらい、供の者もなく、蓑笠を首にかけ、徒歩はだしのみすぼらしい姿で下って来るのを常とした。それを故殿(頼朝)あわれませ給うて、三年の期を六カ月にちぢめ、身代に応じて割りあて、諸人助かるようにして下された。近いことじゃ。お忘れではあるまい。これほど情深くあらせられた故殿のご恩が忘れられるものであろうか。忘恩の徒となって京方へ味方するならそれもよし、はっきりと申し切って、敵味方を明らかにされよ」
 六十五歳のお婆さんが、涙をふるっての大熱弁だ。武士達は幕府が自分達の利益を保護するものであり、朝廷は何の利益もあたえてくれない空権威にすぎないことを痛感した。どっと闘志が湧いて、東海・東山・北陸の三道から総勢十九万、文字通りに雲霞のごとく攻めのぼったのであった。
 この乱から四年後、嘉禄元年七月十一日、死んだ。六十九であった。
 政子は悪人ではない。常に善意をもって婚家のためによかれと努力しつづけた人であるが、あまりにも勝気であり、賢かったために、夫の在世中にはその独占欲によって夫を苦しめ、夫の死後は子供らの圧迫者となり、ついに実家の父や弟に乗ぜられて、婚家をほろぼすに至った。これに類することは、今日でも賢めずらしくない。憎むより、気の毒がってやるべき女であろう。
 人の世は善意だけではかえって悪となることが少なくない。
 政子の一生は、われわれに善意が善となるためには叡智がともなわなければならないことを教えるものであろう。
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■高師直の最期

<本文から>
 師直は尊氏の館におしかけて包囲し、尊氏にせまって直義を隠居させ、錦小路掘川の邸に幽し、重能・直宗の二人は越前に流した。
 以後、当然師直の勢いは益々盛んになった。尊氏を説いて兵を中国に出し、直冬を攻めさせた。直冬は九州に奔って、九州の武家方の兵を糾合して、尊氏・師直に反抗の色をあらわにした。ここにおいて天下三分したと太平記は言っている。つまり北朝方が二分したのだ。当然その勢力はおとろえた。
 翌正平五年、師直は尊氏にすすめ、共に兵をひきいて西下して直冬を伐とうとしたが、師直は自分の不在中に直義が兵を挙げることを恐れ、部下をつかわして直義を殺そうとした。
 直義は大和に弄り、南朝に降った。
 南朝では色々評議があったが、結局直義の乞いを許し、尊氏を課することを命じた。直義は南朝方として諸国に兵を募り、ついに京都に入って都を占領した。
 尊氏と師直とは中国路から引きかえし、正平六年二月半ば直義の軍と摂津で戦ったが、尊氏軍は大敗した。しかし、そこは兄弟のことで、和議が成り立った。
 師直兄弟は出家して命乞いし、一旦はゆるされた。この時、塩冶夫人にたいする師直の横恋慕の時に出て来た薬師寺公義が、
「降参など以てのほかのこと、所詮は助かり給わぬお命でござる。死は一つであります。ひたすら討死と心を定めて、今一度敵にかかり給え」
 と諌めたが、兄弟がただ腰々として出家降参のことしか考えていないので、
「ああ、豎子ともに謀るに足らず」
と嘆じ、
  とれば憂しとらねば人の数ならず
    捨つべきものは弓矢なりけり
 と詠じて髪を切り、高野山へのぼったという。
 尊氏兄弟の和議成立の時、兄弟の間に師直一族を殺す密議が出来ていたのであろう。京へ引き上げる時、師直兄弟は尊氏の側にいれば安全なので離れ頂いようにつとめたのだが、尊氏はしきりに馬を急がせる上に、兄弟にうらみを含む上杉・畠山与力の武士共が兄弟の邪魔をするのでいつかはぐれてしまった。
 時は二月二十六日、折しも春の雨の降りしきっている時であったという。武庫川の埋の上を師直兄弟は馬を急がせた。二人とも墨染の衣をまとい、蓮の葉笠をいただき、顔は布で包んでいたという。師直の方が少し先きに立っていたが、突然師直に小者が二人駆け寄って、
 「これなる遁世者の顔をかくすは何者ぞ! その笠ぬげ!」
 というままに、おどり上って師直の蓮の葉笠をひきちぎって捨てた。とたんに覆面がはずれて顔のはしが見えた。
 小者共の主人三浦澄知は、
 「あっぱれ敵であったわ!願うところの幸いかな!」
 と馬を寄せぎま、薙刀の柄をとりのべ、右の肩先から左の小脇にかけて切り、あっというところをたたみかけてなお二刀斬った。落つるところを、三浦は馬を飛んでおり、首をかきおとし、薙刀の切っ先につらぬいて差し上げた。
 師泰は半町ほどおくれて来つつあったが、兄の討たれるのを見て、駆けんとするところを、うしろから来つつあった吉江時宣という者が、槍をとりのべ、背骨から左の乳の下までつき通した。突かれて師泰は槍の柄をつかんで身をねじりながら、ふところにかくし持った刀を抜こうとしたが、吉江の中間が走り寄ってあぶみを返して引きずりおとし、落ちるや首をかき切った。
 このほか途々で高一族は全部討取られてしまった。
 師直といい、師泰といい、怯者ではなかったはずであるのに、末期の思い切りの悪さはおどろくべきものだ。人は快楽になれると生にたいする執着が強くなるのであろうか、一旦死にはぐれるとどこまでもいのちがおしくなるのであろうか、人間研究の好題目であろう。
 師直兄弟は悪行無漸の人物ではあるが、当時の人間は彼らの地位におけば、十人のうち八九人まではこうなったのではないだろうか。上は天皇から将軍・公卿・大名・一武人に至るまで、我欲旺盛の濁りかえった世の中だったようにぼくには見えるのである。
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■足利義満は驕児

<本文から>
 義満は驕児である。
 祖父も父も、幕府の名はあり、征夷大将軍の名はあっても、統制力のきわめて劣弱な幕府であり、将軍であり、生涯戦争ばかりし、しかもよく負けて都落ちばかりしていなければならなかったのに、彼においてはじめて基礎が確実になり、統制力が出来て来た。しかも、皇室は彼の思うがままになっている。彼が騎児となったのはきわめて自然なことである。
 驕児には善・悪の観念はない。無道徳である。第三者の目におのれの行為が善とうつろうと、悪とうつろうと、かまうところではない。彼は彼の欲するままに行なうのである。義満はこれだったと、ぼくは見る。
 驕児としては、彼はなかなかスケールが大きい。ちょいと日本人ばなれしている。
 古来、彼が明国にたいして臣称したことを卑陋として非難する説が盛んであるが、明国にたいして臣称した例は他にもある。彼にかぎったことではない。この時代にかけて明と貿易した大名らにはずいぶんそうした例が多いのである。朝貢貿易ということにしなければ、相手になってくれないから、しかたがないのである。この時代の商売上の方便である。今日的考えで愛国心など持ち出すのは野暮である。しかも、彼の豪奢ぜいたくの費用のほとんど全部が対明貿易から得られた。所領から上る租入は知れたものなのである。彼としてはどんなことがあってもやめられるものではないのである。
 また、彼は日本の皇室にたいしては全然尊敬を持たないが、明は大国であり、その故にその皇帝はえらいと思っている。その皇帝から「日本国王源道義」といって来れば、こちらも「日本国王臣源道義」と名のるのは、彼においてはあたり前のことであったろう。
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