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          海音寺潮五郎−悪人列伝・古代編

■道鏡事件

<本文から>
 孝謙は道鏡を愛するのあまりであろう、由義の離宮が大好きになり、度々行幸したが、ついにこの年ここを帝都の一つにして西京と呼ぶことにしたが、この翌年宝亀元年に道鏡とともにここに行き、一月余り滞在している間に病気になり(その病因について奇説があるが、これはこの次の薬子伝で述べる)、四月、平城にかえったが、次第に重態になり、八月四日死んだ。
 道鏡の没落は当然の帰結である。しかし、先帝の寵臣であるというので、殺さず、造下野薬師寺別当として関東に左遷したが、この翌々年配所で死んだ。年齢不詳、推定六十五。
 恵美押勝事件といい、道鏡事件といい、ばかばかしいかぎりの事件であるが、つまりこれは天皇専制権の絶頂期に孝謙のような人が皇位にあったためにおこったのである。孝謙が最も女らしい女であったことは縷々述べて来た通りである。もし彼女が庶民の家に生まれたのであったら、最も忠実な妻、最も愛すべき女性となった人にちがいないのに、なまじ皇位につき、しかも天皇の命は必ず行なわれ、これに反対し得る者、諌言し得る者は一人もないというほど天皇権の張り切っている時代であったので、あんなばかげたことになったのだと言ってよいであろう。
 恵美押勝は多少の才幹のあった人物のようであるが、道鏡は僧侶としては別として、俗才はまるでなかった人物のようだ。従って悪才などもあろうはずはない。奇妙なめぐり合わせで、孝謙の愛人となったために、悪名を千載に流すことになってしまったのである。本来なら、二人とも倭幸伝に入るべきで、悪人伝に入るべきではないのであるが、日本では古来悪人となっているから、入れて叙した。
 道鏡大陰説は、鎌倉時代に出来た古事談あたりが初出であろう。いつの頃から出来て、伝承されて来たのであろう。この話の原形は史記の呂不草列伝にある膠毒と秦の始皇帝の母后との情話にあるという説を読んだことがある。同感である。たしか滝川政次郎博士の説だったと思うが、はっきりしない。 
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■薬子事件−美貌の力

<本文から>
 薬子事件のために、皇太子に立てられていた彼の皇子高岳は廃せられて仏門に入り、後中国にわたり、印度に入ろうとして羅越国(ラオスであろう)で虎害に遭って死んだことは世の人の知るところである。不幸な父子であった。
 この事変のため、藤原四家のうち、これまで最も栄えていた式家は急速におとろえて、再び興らず、これまでおとなしい人物ばかりが出て、地位は高くても権勢があったとはいえない北家の隆盛時代が到来し、ついには平安朝時代とは藤原民時代の同義語ではないかと思われるほど時代の中心の家となって長くつづき、その流れは現代にまで引いている。五摂家といわれている家々は皆この系統である。あとの烏が先になる、人生にはしばしばこういうことがあるのである。
 美貌は女の天与の財産である。佳人薄命というが、それはその人の運命の起伏が大きいということであり、美貌が力であればこそのことである。だからであろう、古来女性で悪人として伝えられているほどの者で、美貌でなかったものはない。美貌でなければ歴史の表面に浮かび上ることが出来ないからであろう。
 世に生きて行くことは、人間にとって大へんなことだ。一頭地をぬきんずるに至ってはなおさらのことだ。人は自らの持つあらゆる機能を動員して懸命に生き、生をつなぎ、人がましいものと言われるようになる。知恵すぐれた者が知恵を、学力ある者が学力を、背力すぐれた者が背力を、美声を持つ者が美声を、巧妙に利用することによって運命を切り開こうとするのが責むべきではないように、美貌の女性が美貌を利用することも責むべきではないであろう。しかしながら、その女性が社会の最上層部にいて、その生き方が社会全体に大きな影響を持つ立場にある場合は、単純に是認することが出来ない。美人で政治上の最高位に上りついた人が古来決してよく言われないのはこのためである。それは西洋でも東洋でも同じだ。同じ人間の持つ力といっても、美貌は他のものとちがって、人間の本能の最も弱いところに訴えることによって力となるものであるからであろう。
 女の悪人の資格は美貌だけではない。すぐれた才気もその一つだ。旺盛な権勢欲もその一つだ。この三つを兼備した女性は大ていの場合悪人七なる。人間の弱点に訴えて力となる美貌を持ち、その力を巧妙に利用し得る才気があり、権勢を追求してやまない熱情がある以上、悪への道は最も自然なコースであろう。
 この点、薬子は悪人となるべき完全な資質を持っていたと言えるが、その運命を決定的にしたのは、彼女が平城のような人に逢ったことである。不運な出逢いであった。彼女はその素質の導くままに、三男二女の母であり、有夫の身でありながら平城に通じ、その口を封じて地位を保つために葛野麻呂とも通じ、血まなこになって権力を追いかけたのだ。
 彼女が才女であったことは疑うべくもない。嵯峨ほどの英明な天皇をあれほど大わらわならしめて防衛対策に腐心させたのだ。すぐれた才気がなければ出来ることではない。
 もし、彼女が平城に逢わなかったら、彼女は上流宮廷人藤原縄主の美貌にして才気ある良妻として世をおえたであろうと思うと、ぼくはあわれむべきか、にくむべきか、自らよくわからないのである。
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■平将門には良き参謀がいなかった

<本文から>
 この翌月上旬、良兼は少し前から病気になっていたが、死んだ。
 人の運命は思うにまかせないことが多い。五カ国の証明書までつけて無実を訴えた将門の上書を見て、朝廷では疑いを解いたばかりか、その証明書には将門の武勇や人望の直さなども書いてあったので、「将門のために功課あるべきの由、宮中に議せられ、幸ひに恩換を海内に沐せしめ、須らく威勢を外国に滞たすべし云々」と将門記に書いてあるから、将門を叙位任官して朝廷の役に立たせたいということになったらしいのである。このことを将門が知っていたか知らなかったか、書きぶりが至ってあいまいであるからわからないが、おそらくは知らなかったらしい。知っていたら、これから起こったようなことは先ずなかったろうと思われるからだ。
 せっかく向いて来た彼の幸運は、この直後から狂いはじめるのだが、その原因の一つは、彼がこのことを知らなかったことであり、その二つはこの頃から彼の家に興世王が寄食する身になったことだ。武蔵の正任の国守百済貞連はこの五月に任命されて、ちょうどこの頃に着任したのであるが、興世王はこれと相野(妻同士が姉妹)というなかでありながら、気が合わない。相当けわしいなかであったことは、貞連が役所内での座席も興世王にあたえないようにはからったという記述でもわかる。面白くないので、興世王は任地をはなれて将門のところへ来て厄介になることになったのだ。
 三つ目の理由はこれからのべる。
 常陸の住人で藤原玄明という者がいた。他の部分の記述を読むと、彼の兄弟と覚しき玄茂という人物が常陸掾になっているから、湘唱名家の生まれなのだろうが、上にも下にもあたりの悪い男で、民をしいたげては却略し、納税はせず、国府の役人が督促に来れば乱暴して追いかえすという、盗賊同然のやつとある。これが常陸の官物を強奪したので、常陸国府の長官藤原維幾(前出、貞盛の叔母智)は度々弁済の督促状を送りつけたが、例によって乱暴しては追い返す。維幾は怒って、太政官に訴えて追捕状を下してもらい、追捕にかかった。
 これに抵抗すれば、叛逆だ。さすがの乱暴者も窮して、当時威勢隆々たる将門の庇護を受けようと、国を逃げ出して駆けこむことにしたが、そのついでに、行方・河内南都の不動倉に格納してある穀物と精を掠奪した。不動倉に貯蔵したものは、軍事・凶荒の時以外は官でも手をつけないことになっている。維幾の怒りは頂点に達した。
 ところが、これを将門が庇護した。「将門素より侘人(不幸者)を済ひて気をのべ、無便者(ふびんな者)を顧みて力を託く」とある。不幸な人間を見れば保護してやらずにはおられぬ性質だというのだ。親分なのだ。
 維幾からはもちろん将門に、捕えて渡せ、と言って来る。将門はいつも判でおしたように、捕えに行ったが風を食らって逃走して行くえがわからないとだけ返事する。
 くりかえしているうちに、双方の激情はついに合戦ということになった。これまでの将門の行なった合戦はすべて同族との私闘であったのだが、この以後官軍との戦いになる。
 将門は千余人の兵をひきいて常陸におし出した。これにたいして維幾方では数千の兵を用意して迎え戦ったが、将門は一戦のもとに痛破して、三千余人を討取ったとある。誇張のようだが、国府方の兵はにわかのかき集め勢であったろうから、あり得ないことではない。将門は国府を包囲した。維幾は降伏して印鎗を将門に捧げた。維幾一家は捕虜となった。
 兵士らが府中の人家に相当乱暴狼籍を働いたことは将門記に明らかだ。掠奪・暴行・放火・凌辱、ずいぶんやったようである。しかし、これが当時の戦争の実相だ。
 将門は一応豊田郡の鎌輪(今鎌庭)に引き上げたが、ここで将来の策を議した。興世王は、「案内を検ずるに、一国を討つといへども公費軽からず、同じくは坂東を虜掠して暫く気色を聞かん」と進言した。頼山陽はこれをさらにたくみな漢文にした。「関八州は沃鏡にして四塞、拠りて以て天下に覇たるべし。夫れ一州を取るも課せられ、八州を取るも課せらる。訣は一のみ、顧ふに公いづくにか決する所ぞ」というのだ。
 将門もその気になり、維幾一家を碓氷峠まで送って、ここで追い放させた。
 将門は軍を下野の国府に向けた。下野の国守らは恐れて将門を途に迎え、再拝して、地に脆いて印鎗を捧げた。将門はこの国司らも碓氷峠まで送って追い放させた。
 さらに上野国府に兵を向けた。ここでも国司はこちらから要求するまでもなく印鎗を捧呈する。将門らは周府を占領して、ここでそれぞれ関東諸国の国司を任命した。下野守に平将頼(将門の弟)、上野守に多治経明、常陸介に藤原玄茂、上総介に興世王、安房守に文屋好立、相模守に平将文(将門の弟)、伊豆守に平将武(同)、下総.守に平将為(同)といった調子だ。いぶかしいのは京都朝廷から絶縁して関東独立国を建設しようというのに、京都朝廷の慣例を何の省察もなく踏襲して、常陸・上総の二国に守をおいていないことだ(上野には守をおいているのが不思議だ)。将門の左右によき参謀のいなかったことがわかるのである。
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■将門の最期

<本文から>
 戦いは十四日の午後の三時頃からはじまった。将門方は山を負うて南面してかまえ、連合軍方はそれに対して北面してかまえた。連合軍方には藤原為憲も兵をひきいて加わっていた。おりしもおそろしい北風が吹き出した。将門方の楯がうつ伏せに吹きたおされ、連合軍方の楯はあおむけに吹きたおされたという。烈風であったのだ。
 将門方は風を負うており、連合軍側は風にさからっている。将門の先陣は気力百倍して奮戦し、忽ち貞盛の中陣を撃破した。将門は主力をひきいてこれにつづき、忽ち木っばみじんに貞盛の軍も、秀郷の軍も、為憲の軍も撃破したので、兵の大部分は潰走し、わずかにのこる精兵三百余人があちらこちらと逃げまどいながら集団を保っていた。
 ところが、ここに人間の運命がある。今まで北方から烈しく吹き立てていた風が、急に南にかわったのだ。ぼくは小説「平将門」を書いた時、新聞社から気象庁に、将門記の記述を示して問い合わせてもらったところ、春先きにはよくあることだという返事であった。
 これに勢いを得て、連合軍側は気力を回復して浮身の力をふりしぼって戦った。将門も手をくだいて戦ったが、「時に現に天罰あつて、馬は風飛の歩を忘れ」とあるから、突風に吹き立てられた砂塵でも、将門の乗馬の目に入り、おどろいて棒立ちになったのでもあろうか。そこを「暗に神鏑に中り」とあるから、いずくからともなく飛んで来た矢に射つらぬかれて、どうと将門は落馬したのである。
 秀郷の射た矢であったという伝説があり、貞盛の射た矢であったという伝説があり、一定しないし、また矢は額に立ったともいい、こめかみに立ったともいうが、いずれも後世の書物にしか出ていないことだ。最も根本的な史料である将門記には、以上書いた通り、誰が射た矢とも記述せず、あたりどころも記述していない。
 将門の年もわからない。幸田露伴翁の説に従って菅原道真の死んだ年、延喜三年に生まれたとすれば、三十八であるが、ぼくは第二章にのべた理由によって七八年から十年くらい後の生まれであると思うから、二十八九から三十一二と見ている。
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■京都朝廷は幸運によって危機を脱し得た

<本文から>
 将門の乱も、純友の乱も、おこるべくしておこった乱である。二人の敵としているところは、本当は天皇家ではない。摂関政治であり、無制限な利潤追求で民を苦しめてやまなかった荘園制度であった。だから、この点では天皇家と憤りを同じくしているわけである。しかし、世の中のことはこう理論的に割り切れるものではない。天皇家もそうは考えなかったろうし、二人もまたそうは考えなかったろう。二人が天皇家にたいする逆賊と目され、後世長く指弾されたのは、いたし方なきことであった。
 二人の威勢の最盛期には、京都朝廷は実に危かった。一髪千鈞を引くの危さであったと言ってよいであろう。もし将門がもう十日亡びなかったら、純友は京に攻め上り、京都朝廷は瓦解していたことは確かである。
 そのあとがどうなるかは、もちろんわからない。一旦都落ちしても、勤王の士を天下に募って回復したろうとも考えられるが、天皇家にたいする一般庶民の敬愛の念は、この時代にはまださほどではなかったとも言える。天皇権の絶対性が制度の上で確立した大化改新から三百年しか立っていないからだ。南北朝の時代のように行ったかどうか疑問である。こんな工合に、幸運によってすらりと危機を脱し得たので、仏神の加護めでたき天皇家であるとの信仰が国民の間に生じ、敬愛の情が養われていったとも思われるからである。
 でないかぎり、これほどの大きな矛盾を持っている朝廷が、この後頼朝の武家政治創立まで二世紀半もつづくはずがない。幸運によってこの未曾有の大難をまぬかれることの出来た朝廷にたいする日本人の信仰が、続かせたのだとぼくは思う。
 こう考えてくると、天皇家の存在は決して否定しない武家政治という制度が日本に出来たのも、このためであることがわかる。現在もまたそうだ。将門・純友の叛乱の意義は従来考えられていたよりはるかに大きいのである。
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