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<本文から> 孝謙は道鏡を愛するのあまりであろう、由義の離宮が大好きになり、度々行幸したが、ついにこの年ここを帝都の一つにして西京と呼ぶことにしたが、この翌年宝亀元年に道鏡とともにここに行き、一月余り滞在している間に病気になり(その病因について奇説があるが、これはこの次の薬子伝で述べる)、四月、平城にかえったが、次第に重態になり、八月四日死んだ。
道鏡の没落は当然の帰結である。しかし、先帝の寵臣であるというので、殺さず、造下野薬師寺別当として関東に左遷したが、この翌々年配所で死んだ。年齢不詳、推定六十五。
恵美押勝事件といい、道鏡事件といい、ばかばかしいかぎりの事件であるが、つまりこれは天皇専制権の絶頂期に孝謙のような人が皇位にあったためにおこったのである。孝謙が最も女らしい女であったことは縷々述べて来た通りである。もし彼女が庶民の家に生まれたのであったら、最も忠実な妻、最も愛すべき女性となった人にちがいないのに、なまじ皇位につき、しかも天皇の命は必ず行なわれ、これに反対し得る者、諌言し得る者は一人もないというほど天皇権の張り切っている時代であったので、あんなばかげたことになったのだと言ってよいであろう。
恵美押勝は多少の才幹のあった人物のようであるが、道鏡は僧侶としては別として、俗才はまるでなかった人物のようだ。従って悪才などもあろうはずはない。奇妙なめぐり合わせで、孝謙の愛人となったために、悪名を千載に流すことになってしまったのである。本来なら、二人とも倭幸伝に入るべきで、悪人伝に入るべきではないのであるが、日本では古来悪人となっているから、入れて叙した。
道鏡大陰説は、鎌倉時代に出来た古事談あたりが初出であろう。いつの頃から出来て、伝承されて来たのであろう。この話の原形は史記の呂不草列伝にある膠毒と秦の始皇帝の母后との情話にあるという説を読んだことがある。同感である。たしか滝川政次郎博士の説だったと思うが、はっきりしない。 |
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