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<本文から>
天一坊が真に吉宗の落胤であったかどうかは、今ではせんさくするに由がない。肯定も否定も推理にすぎない。つまりは水かけ論におわらざるを得ないから、それは論外だ。
しかし、仮に彼が吉宗の落胤であったとしても、彼がうそつきであったことは否定出来ない。
やれ公方様にお目通りしてお腰物を拝領し、お扶持をいただくことになったの、最初のお目見えは吹上だったが、独礼の格であったの、三十人扶持と五百俵いただいていたが、遊女屋町で酒狂乱暴して追い出されたの、上野の法事に参列するの、老中の屋敷に泊まるの、迎えに来いの、役僧から銀三十枚借りて香奠にしたの、上野の官様がどうのこうのと、勧学院や常楽院にチャランボランを言っているところ、うそつきであるに違いないし、こんな浅ましいうそにだまされるのがどうかしているとあきれるほどである。
ぼくは天一坊は一種の精神病者であったのではないかと思う。
日常の生活は常人と少しも変らないように見えながら、空想と現実の区別のわからない人が世の中には時々いる。健康人だって、はじめは作り話や想像話だと意識しながら人に語っていても、度々その話をくり返しているうちに、ついには現実にあったことのように考えこんでしまう人もいる。歴史上の追憶談などにはよくそれがあって、だまされてしまうことがあるのだ。
天一坊はそれが少し強度で、もう少し過ぎると純然たる狂人ということになる人間だったのではなかったか。彼が幼時から酒を好み、酒乱であったということも、この推察を助ける。
尭仙院のところにいる時、いつか彼が大酒を飲んであばれ出し、皆が手込めにした時、おどかすために、
「何をしやがるんだ! おれァてめえらにこんな目にあわされる人間じゃねえぞ! おれァえらいんだぞ! おれにァ大名衆だってあたまが上らねえんだぞ! おれァ公方様の子だぞ! こん畜生、今に見てやがれ! このかたきは討ってやるぞ! おれァ公方様の落胤だ! 手をはなしやがれ! 土下座しろい!」
などとわめき立てたかも知れない。
酔っぱらいというものは条件反射にたいしては実に無抵抗になるものだから、その後酔って暴れ出し、人々が制止しようとすれば、必ずこの口上が出るようになり、次第にその口上は精密になり、ついに自分でも信じこんでしまうようになったのではないかと思う。
常楽院に対するうそはまことに無器用なものだが、あまり皆が大事にしてちやほやするので、あんな芝居も打たなければならなくなったのであろう。
以上、小説家的の空想がすぎるようにも思うが、本多源左衛門以下の浪人らの口上書にはお目見金をとられたというようなことは全然ないのである。召抱えた浪人らに、決して他から銀子など借りるな、そんなことをしたらきびしく詮議するぞと申し渡してもいる。金銭目あての計画的な詐欺ではなかったとぼくは思う。
思うに、天一坊は自分の空想がこんな形で現実にうつされ、うっとりとしていい気持でいることもあったろうが、純然たる狂人ではないのだから、どうなることかとおびえることもあったろう。あわれなピエロといえよう。
彼は相当美男子で、上品な容貌を持っていたにちがいない。でなければ、人の信用を買うことが出来ない。
以上のような次第で、この事件は品川でおこって品川で始末がついている。従って天一坊伝説でいうようなスケールの大きい事件ではない。大岡越前守が関係していないことも言うまでもない。 |
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