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          海音寺潮五郎−悪人列伝・近代編

■天一坊は一種の精神病者

<本文から>
  天一坊が真に吉宗の落胤であったかどうかは、今ではせんさくするに由がない。肯定も否定も推理にすぎない。つまりは水かけ論におわらざるを得ないから、それは論外だ。
 しかし、仮に彼が吉宗の落胤であったとしても、彼がうそつきであったことは否定出来ない。
 やれ公方様にお目通りしてお腰物を拝領し、お扶持をいただくことになったの、最初のお目見えは吹上だったが、独礼の格であったの、三十人扶持と五百俵いただいていたが、遊女屋町で酒狂乱暴して追い出されたの、上野の法事に参列するの、老中の屋敷に泊まるの、迎えに来いの、役僧から銀三十枚借りて香奠にしたの、上野の官様がどうのこうのと、勧学院や常楽院にチャランボランを言っているところ、うそつきであるに違いないし、こんな浅ましいうそにだまされるのがどうかしているとあきれるほどである。
 ぼくは天一坊は一種の精神病者であったのではないかと思う。
 日常の生活は常人と少しも変らないように見えながら、空想と現実の区別のわからない人が世の中には時々いる。健康人だって、はじめは作り話や想像話だと意識しながら人に語っていても、度々その話をくり返しているうちに、ついには現実にあったことのように考えこんでしまう人もいる。歴史上の追憶談などにはよくそれがあって、だまされてしまうことがあるのだ。
 天一坊はそれが少し強度で、もう少し過ぎると純然たる狂人ということになる人間だったのではなかったか。彼が幼時から酒を好み、酒乱であったということも、この推察を助ける。
 尭仙院のところにいる時、いつか彼が大酒を飲んであばれ出し、皆が手込めにした時、おどかすために、
 「何をしやがるんだ! おれァてめえらにこんな目にあわされる人間じゃねえぞ! おれァえらいんだぞ! おれにァ大名衆だってあたまが上らねえんだぞ! おれァ公方様の子だぞ! こん畜生、今に見てやがれ! このかたきは討ってやるぞ! おれァ公方様の落胤だ! 手をはなしやがれ! 土下座しろい!」
 などとわめき立てたかも知れない。
 酔っぱらいというものは条件反射にたいしては実に無抵抗になるものだから、その後酔って暴れ出し、人々が制止しようとすれば、必ずこの口上が出るようになり、次第にその口上は精密になり、ついに自分でも信じこんでしまうようになったのではないかと思う。
 常楽院に対するうそはまことに無器用なものだが、あまり皆が大事にしてちやほやするので、あんな芝居も打たなければならなくなったのであろう。
 以上、小説家的の空想がすぎるようにも思うが、本多源左衛門以下の浪人らの口上書にはお目見金をとられたというようなことは全然ないのである。召抱えた浪人らに、決して他から銀子など借りるな、そんなことをしたらきびしく詮議するぞと申し渡してもいる。金銭目あての計画的な詐欺ではなかったとぼくは思う。
 思うに、天一坊は自分の空想がこんな形で現実にうつされ、うっとりとしていい気持でいることもあったろうが、純然たる狂人ではないのだから、どうなることかとおびえることもあったろう。あわれなピエロといえよう。
 彼は相当美男子で、上品な容貌を持っていたにちがいない。でなければ、人の信用を買うことが出来ない。
 以上のような次第で、この事件は品川でおこって品川で始末がついている。従って天一坊伝説でいうようなスケールの大きい事件ではない。大岡越前守が関係していないことも言うまでもない。 
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■鳥居耀蔵は恨みで無実の島を陥れた

<本文から>
 陥れようとの計画を抱いて動いている人物があった。耀蔵である。耀蔵にとっては、高島が洋学流の人間であるということが先ず気に入らない。だからその意見書にケチをつけた。その高島を浦賀測量以来うらみ重なる江川英龍がひいきした。益々気に入らない。江川説が勝ったばかりでなく、高島の砲術は閣老連の検分を受けることになり、しかも成績まことによく、採用になり、高島は与力格に昇進した。耀蔵のような性質の人間には気も狂うばかりに腹が立ったろう。
 ここで、かねて飼っておいた本庄茂平次が役に立つことになる。元来この者は長崎の低い地役人(高島家の家来であったという説もある)であったのが、長崎を食いつめて江戸に流れて来たのだから、長崎のことをよく知っている。耀蔵はこいつを長崎に帰し、高島のアラを洗い立てた。耀蔵はこれによって、長崎奉行に手配したという次第。
 長崎奉行は高島の潔白をよく知っている。大いに同情しているから、なかなか耀蔵の思う壷にはまらない。
 鳥居はついに謀叛の罪をもって高島を告発して江戸に引致して、自ら取調べた。その嫌疑の材料は、
一、大砲小銃を多数買込んでいる。
一、高島の邸は長崎の山の半旗に石垣のある広大なものだ。寵城の用意である
一、熊本に人を派して兵糧を買込んだ。
一、こういう費用は全部海上において密貿易して得たものだ。
 高島は一々明白に申し開いた。火器は報国の志により、その都度お奉行の許しを得て買入れた。石垣は邸地が崖地の上にあるから、崩れるのを防ぐためだ。肥後米の買入れは先年の飢饉の際のことである。長崎市中が食糧が欠乏して苦しんだから、お奉行の許しをもらって、町会所の金で買入れたのである。密貿易など根も葉もないことである。
 輝蔵はついに高島を罪におとすことは出来なかったが、高島は揚屋に足かけ四年も入れられていたのである。
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■耀蔵は水野越前守をも裏切った

<本文から>
 最後に、耀蔵は水野越前守を裏切った。
 天保の改革は失敗の連続であったが、精神そのものは悪いとはいえなかった。当時の幕府は大改革を必要としたのだ。その改革が出来なかったから、幕府はついに倒れなければならなかったとも言えるのだ。失敗の原因は多々あるが、根本的には改革の必要を民に納得させる努力をしなかったために、独善的独走となり、民がついて行かなかったことである。第二は耀蔵がことごとに人に憎悪されるようなことをしたにある。元来、日本人は国民性として陰険な人物がきらいなのだ。この列伝の中で、当時の人に最も憎まれた人物を考えてみていただきたい。伴大納言、梶原景時の二人である。他の人々はそうまで憎まれていない。陰性で策謀的な悪人はその行なったことが実際にはそれほど害悪を流していなくても憎まれるのだ。輝蔵のような人物が憎まれないはずがなく、それがどれくらいこの改革政治の評判をおとしたかわからないのである。
 水野の改革はいずれも評判が悪かったが、中でも最も悪かったのは、江戸と大坂の周囲十里以内にある諸大名・旗本の領地を公収して、他の地方に替地をあたえるというのであった。
 これは外国間題がうるさくなって来る形勢にあるので、国防上最も肝要な土地をしっかり固めようというものでもあったろうし、富餞な土地であるから公収すれば幕府の利益であるという目的もあったのであろう。
 発令になったのは天保十四年九月十四日であったが、反対はごう然としておこった。老中の中にも反対する暑が出て来た。
 耀蔵ははじめ最も熱心な公収論者であったのだが、ごう然たるこの反対を見て、こう思案したようである。
 (水野殿の改革政治も、ずいぶん失敗つづきで、評判が悪いわ。そこにこの反対じゃ。あの人も長いことはないな。上様も大分おもしろうなく思うていらせられるというぞ。このへんが見切り時かも知れぬ。一蓮托生の心中は願いさげにしたいわ)
 そのうち、紀州家から反対説が出た。大坂城の周囲十里以内には紀州領の一部が含まれるのだ。紀州家では、 「当家に紀州全体を賜うたのほ、発願公の深き思召しによるのである。東照公の思召しを訂正なさろうというのか」
 東照公をかつぎ出されては、江戸時代にはどうにもならない。水野は、困じ入った末、
 「ご三家のご領地は公領と同様である故、除外する」
 ということにしようとしたのだが、耀蔵はこれについて水野から意見をもとめられると、侃々諤々と言った。
 「そのご意見は拙者には聞こえませぬ。お公儀にたいする忠勤ということになれば、ご三家は率先してお従いなされねばならぬと存ずる。ご三家滋限って除外するような不公平なことをなされてほ、天下は一層納得いたしますまいぞ」
 耀蔵は水野に困難を強いて窮地に陥らせ、自らはこれを見捨てようとしたのだ。そして見捨てた。彼は水野に反対している老中土井利位のところに行き、
「越前守殿のなされ方は中途半ば、不公平でござる。拙者共は反対せざるを得ません。このことはあくまでも公平を持して一律に強行されるか、全然おやめになるか、いずれかであるべきでござる」
 と言った。つまり、反対派に寝返りを打ったのである。ついに水野は老中を辞職するよりほかないことになった。天保十四年閏九月であった。
 耀蔵は水野の失脚後も町奉行でいたが、何しろ皆から憎まれている。また憎まれるだけの罪があるのだ。翌天保十五年九月に免職になり、さらにその翌弘化二年二月に評定所に呼び出されて尋問を受けたのをはじめに度々の取調べがあり、十月三日、後藤三右衛門、渋川六蔵等とともに処分を言い渡された。後藤は死を賜い、渋川はお預け、耀蔵は讃岐丸亀の京極長門守にお預けの上囚禁、その家は改易になった。
 耀蔵は京極家にあること二十三年であった。何しろ彼が座敷牢の中で食べた枇杷の種子を窓から外に捨てたのが根づいて、鬱然たる木になり、累々と実をならすほどとなっていたというから長いものである。
 明治元年に、京極家で、すでに幕府も亡びたこと故、どこへでも行ってもらいたいと言ったところ、耀蔵は、
 「わしはお公儀の命で当家にお預けになったのでござる。勝手なことは出来申さぬ」
と言って出ようとしない。
 京極家では朝廷に上申し、許可を得て、はじめて立ち去ってもらうことが出来た。
 彼は東京に出たが、その時七十余であったという。旧知の幕臣の家を訪問して、倣然として言ったという。
 「わしは昔、お公儀のために、夷敵の学問などは決してお近づけになってはならんと言うたが、お聞きとどけにならなんだ。しかし、わしが言うた通りになったじゃろう」
 この頃は徳川家は静岡に移封し、幕臣もまた供して行っている者が多かった。彼の実家林家も静岡に来ている。彼はそれを頼って行ったが、林家では彼を見知っている者が一人もなかったという。しかし、彼は林家の厄介になり、明治七年十月に死んだ。
 耀蔵は一種の狂信者だったのかも知れない。とすれば彼の陰険な悪業は犯罪学で言う確信犯だ。
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■井上馨は維新運動が一段落し貪官汚吏の代表者となった

<本文から>
 ついに十二月二十日、全員無罪放免とするほかはなかった。
 この事件も歯切の悪いものと世間には受取られ、裏面に馨が存在していたのではないかと今日でも考えられている。
 疑わしいふしはずいぶんあるのである。中野悟一が大阪へ帰ってから突然自殺したという事実がある。
 また、藤田組を告発したもと手代の木村真三郎は誕生口罪として懲役七十日の処刑を言い渡されたが、満期放免後、「疑惑未だ解けざるかどあり」と言い立てて其の筋に訴えていることが明治十三年七月二十四日の曙新聞に出ている。
 ぼくが井上馨を悪人列伝にとり上げたのは、維新政府の藩閥を土台とする貪官汚吏の代表者としてである。彼ほどのことはなくても、当時の高官連には実にこんな人物が多かった。
 西郷南洲がもう一度維新をやり直す必要があると言っていたのは、そのためであったと、ぼくは思っている。国会開設の運動、自由民権の運動がおこったのも、ここにその最も大きな原因がある。
 馨の生涯を眺める時、文久二年から元治元年までの三年間が最も美しい。張り切った男性の美がある。頭も切れるし、意気も昂揚し、心事も清潔だ。この期間の彼は天才児であり、英雄であるといってよい。それほどの彼が維新運動が一段落し、新政府の大官となると、こうもきたなくなってくる。人間は生涯天才であり、英雄であり、清潔であることはむずかしいものと見える。
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