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          海音寺潮五郎-赤穂義士

■赤穂浪士の義挙は気塊充満の「武士気質」時代と、形式美の絶頂に立つ「武士道」時代との中間

<本文から>
 新しく出来たこの「武士道」において、もっとも重んぜられたのは忠だが、武士道の忠はきわめて特殊なもので、直属の主人に対するだけのものだ。「坂東武士は主を知って、主に主を知らず」という古い言葉があるが、これが武士道の忠だ。
 有名な「葉隠」を読んでも、一意、鍋島家にたいする忠誠のみを説いている。鍋島家の上には将軍があり、将軍の上には皇室があるわけだが、その忠誠は鍋島家で行きどまりになっている。武士が主の主にたいする忠義を心がけるようでは、封建君主の立場はなくなるからだ。社会の秩序が崩れてしまうからだ。
 忠のつぎには孝が重んぜられた。「武士道」において、この忠と孝とは、車の両輪のごとく、最も重んぜられたのであるが、完全な武士足るにはそれだけでは不足だとせられた。夫婦の間の和、兄弟にたいする愛、朋友の間の信義、事にのぞんでの勇、敵にたいする憐懸、風雅の嗜み等々、あらゆる徳目に心をくばって、一挙手一投足もゆるがせにしてはならないことが要求されたのである。行為規範の体系としては、このように理想的であることはきわめて望ましいことではあるが、実践する上においては、あまりにも完全に完全にと求めて行くと、どうしても気塊のぬけたものになりがちだ。
 「葉隠」などは、こういう武士道の反動として古風の激しさを再興せんとしたものだ。
 「行動の判断に迷う場合には、死ぬ方をえらべ。しからば、人にばかといわれても、臆病のそしりはまぬかれることができる。犬死になりはしないかなどと考えるのは、上方風の足の地についていない武士道である」
 とはっきりと「葉隠」はいっている。
 あまりにも完全を求めすぎた武士道が、実用に遠ざかってきたことがわかるのである。うべなるかな!武士道が形式的に完成しきった元禄以後、武士道美談として胸うつ話は、赤穂浪士の義挙以外一つか二つしかないというさびしさだ。
 赤穂浪士の義挙は気塊充満の「武士気質」時代と、形式美の絶頂に立つ「武士道」時代との中間に立って、両者の長所をかねているもので、花も実もあるということばはここにも適当している。
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■浅野家の悲劇の中に本質的に内在していた矛盾がある

<本文から>
 しかし、ばかばかしいまでに体面と儀礼を重んずることによって幕府の権威を立て、社会の秩序を維持している時代だ、美点とぎれている浅野家のこのことが、かえって家滅亡の因となったのは、皮肉きわまるなりゆきであった。
 せんずるところ−浅野家が金銭に細かい家であり長矩が凡庸な人であり、しかも、殿様気質の短気であったということと、吉良の倣慢な性質とが、儀礼と体面がらめの時代という雷雲のなかで、相棒って散らした火花が、松の廊下の事件である。
 僕は浅野家の悲劇の中に、江戸時代の大名に本質的に内在していた矛盾を見ざるを得ない。一体、江戸時代の大名の家は、その組織は軍事を建前として、軍隊組織になっていたが、その機能は軍事だけではなかった。同時に国家としての機能もあったのだ。だから、戦争が頻々とあった時代には、大きな軍備を持っていたことは、大いに利益になったが、太平打ちつづく時代となると、軍備は無用の長物となった。大きすぎる軍備と来てはなおさらのことだ。国家としての機能に書落しか与えなくなった。
 しかし、軍事が建前だから、軍備の充実完備は望ましいこととされた。浅野家の悲劇は、この矛盾のあらわれだったのだ。
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■財政問題処理における内蔵助の手腕−領民への思いやり

<本文から>
 額面通りの支払いをすれば、もちろん足りない。こんな際には四分替えに支払うのが普通で、五分替えに払えれば上等だといわれているのであるが、内蔵助はなるべく率をよくして払ってやりたいと苦心して、六分替えと決定した。手一ぱいのところで
 これで、藩札の処理−つまり領民の生活の不安は除くことができたわけだが、藩士への手当金の問題がのこる。内蔵助はこれにかかった。
 藩庫はもう空虚である。薄から町人共にかしつけた金や、年貢の軒数があるが、こんな際に徴収にかかっても集るかどうか疑問だ。そこで、広島の本家へ借用の使者を出した。金高は銀三百貫、金に換算して約四千五百両。
 「御本家で貸してくださらないようだったら、三次にまわれ」
 使者出発の際、内蔵助はこうさしずしておいた。三次というのは、備後の三次で、やはり浅野家の一族で、内匠頭夫人あぐりの実家である。
 使者は広島へ行ったが、広島では、主君が出府中だから一存では計いかねる、一応、江戸表へうかがった上で返答するという。そこで、三次へむかったが、ここもすぐには貸してくれない。ただ、お願いしただけで、使者はむなしくかえってきた。貸すというのは名義ばかりで、とても返してもらえるあてのない金だとはいえ、赤穂の国難における一族諸藩の態度は、ひとりこのことにかぎらず、はなはだ面白くないものがある。使者に立った者も、大石もさぞ腹が立ったことであろう。
 しかし、よくしたもので、−おそらく、内蔵助が六分替え即時払いという英断に出たことが領民らを感激させたためと思われるが、浜方の貸付や、未進租税をとり立ててみると、意外に集りがよくて、大体足りることになったので、内蔵助は大野九郎兵衛と連署の手紙で、広島へ、大体足りることになったからと、借用ことわりを申しおくっている。そのなかにこうある。
 「もはや、金子借領つかまつるまじく候」
 憤憑の色見るべきである。
 この財政問題処理における内蔵助の手腕のあざやかさは水際立ったもので、多年韜晦の彼が今はすっかり覆面をぬいだことを示している。特に我々を打つのは領民の生活にたいする彼の温い思いやりである。札座のことは、大学からもさしずしてきているとはいえ、実際にあたってこれを処理したのは彼なのである。六分替えという空前の高率で支払う七とにしただけでなく、変報到達の翌日には有金全部を投げ出して、もう支払いを開始して、その不安を除くことにつとめている。
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■大事をあやまる時は、斬って捨てようと考えることもできる内蔵助

<本文から>
 城受取りの目付衆が赤穂へ到着する日で、これを出迎えるために、中村の橋まで出かける内蔵助とばったりあった。三人は一礼して過ぎた。内蔵助も目礼して過ぎたが、目付衆を旅館に案内して会所へかえってから、物頭役の小山源五右衛門を呼んで、こういった。
 「今日堀部等三人と中村で行きおうた。あれらも今はわしの意見に従うとは申し出ているが、思いきったるけなげな者共だけに、心の底ではまだ不平に思っているらしいところも見える。ひょっとして、今日途中にお目付方を要して、直々に存じよりなど申し上げようと考えているのではないかと疑われる。もし、さようなことでもあったなら、ぜひにおよばぬ。料簡のいたしようがある。貴殿、ちょっと行ってきいてきてたもらぬか」
 「さようなことはあるまいとは思いますが、思いきったる者共だけに、なんとも申せません。まいってきいてまいりましょう」
 小山は三人の旅宿へきて、このことをただした。
 「内蔵助殿仰せにしたがい申すべしと御約束いたしました以上は、決してさような自儘なことはいたしません。今日は同志の衆中の宅へ御挨拶にまいったのでございます」
 福本日南氏は「元禄快挙真相録」にこの話をのべて「自分はここにいたって何物かがわが五内を震撼し来るものあるを覚える」と書いているが、まさしくそうである。内蔵助は実におそろしい人であった。彼がこの三人の壮士等をいかにたのもしく、いかに愛していたかは、「武庸筆記」にのっている。彼等が江戸にひきあげるに際して内蔵助からつかわした手紙を見てもわかる。
  一両日の中、御発足御下向の由。このたびはるばる御堂りの儀、御深切の御志感じ入り存じ候。諸事繁多の時節柄故、しみじみと御意を得ず、お残り多く存じ候。以上
 四月二十日 大石内蔵助
 この手紙を、内蔵助は、連名にしないで別々に一過ずつ書いてつかわしている。これほど頼もしがり、これほど愛している三人ではあるが、統制をみだし、大事をあやまるとすれば、ぜひに及ばず、斬って捨てようと考えることもできる内蔵助だったのである。
 温平たる風辛の底につつんだ、秋霜烈日の内蔵助の決断力のすさまじさを見るべきである。
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■一見、ふらふらに見える内蔵助の行動言説に、意志の強固さと政治的手腕とを見るべき

<本文から> 「結局の一挙をおうけあいくださるのみならず、さほどまで仰せられる以上、おことばにしたがい申そう」ということになった。
 つまり、これで、上方の意見は一決の形をとったわけである。それで、吉田忠左衛門、近松勘六は、寺坂吉右衛門を従えて、二十一日京都を出発して江戸にむかって、三月五日江戸着、八日に堀部や奥田と会って、説得にかかった。堀部も奥田も不平ではあるが、上方衆全体の意志だとあっては承知するほかはなかった。
 しかし、江戸のふたりも、上方のふたりも、本心からの納得でなかったことは、その後の彼等の往復の文書を見ればわかる。彼等はさかんにめぼしい同志を物色して、即行を説いているのである。けれども、大ていの者が、
 「内蔵助殿に背くにしのびない」
 といってことわったので、ものにならなかったのである。内蔵助の徳望がそうさせなかったわけである。
 読者のなかには、江戸会議から山科会議にいたるまでの内蔵助の行動言説を見て、内蔵助の行動は確乎としたところを欠いている、あるいは、あまりにも手腕がなさすぎるではないかと非難する人があろう。
 いかにも、内蔵助の行動は確乎としたところを欠いていたかも知れない。しかし、それは不動の心をまもるための、彼の余儀ない手段だったのだ。彼の本心は、あくまでお家再興と吉良家への処罰を同時に実現することにあったのだが、党内の紛糾は、内蔵助にたいして、それを譲歩せよとのぞんでやまなかった。もし、内蔵助がその要求を拒絶したら、一党はすでに江戸会議において分裂したに相違ないのである。そこで、内蔵助は譲歩したことにしておいて、その本心をまもりつづけたのである。方便であった、と彼のいう所以である。この間における、この一見、ふらふらに見える内蔵助の行動言説の間に、彼の意志の強固さと政治的手腕とを見るべきであると思う。
 また、かくまで党内を紛糾させたことを表面からだけ見れば、いかにも彼には手腕がなかったように見える。しかし、あの紛糾は、内蔵助の本心が敵討一本槍でないかぎり、どうしてもおこらずにはすまない紛糾なのである。内蔵助の手腕と徳望とがあったればこそ、あの程度ですんだのである。
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■内蔵助のやり方が見事だったから綱吉を圧倒しきって感激させた

<本文から>
 吉田忠左衛門と富森助右衛門が仙石邸へ訴え出た時伯者守は登城前であったが、快くふたりを引見して、しさいに訴えを聞き、
 「両人ともさぞ空腹であろう。湯漬をまいれ」
 と、家来に命じて、屋敷を出て、月番老中稲葉丹後守の屋敷に行って相談の上、登城して、他の老中衆、若年寄衆にことのあらましをつげた。間もなく、寺社奉行から泉岳寺からの報告もくる。
 幕閣の浪士等にたいする感情はまことに好意にみちたものだった。一人として逃げかくれしないで、おとなしく泉岳寺にひかえて公命を待っているという彼等の神妙な態度も好感をいだかせたにちがいないし、また昨年の不公平な裁判がこれで訂正されたという安堵感もあったにちがいないが、なによりも、浪士等の忠烈がその心を動かしたのである。
 「御当代にいたり、かかる忠節の士を出したること、昌代のしるしと存ずる」
 と、老中筆頭の阿部豊後守政武がほめると、皆、これに同意するありざまだった。うちそろって、将軍の前に出て、報告すると、綱吉も感激ひとかたでなく、
「あっぱれなる者共よな」
 と、感嘆した。豊後守はここぞとばかり、
 「この一挙は前代未聞のことでござりますれば、一時大名あずけとして十分の御詮議をとげさせられた上、御処分あってしかるべしと存じまする」
 といった。昨年の松の廊下の裁判の軽率さを皮肉られたような気がしたろうが、感激にゆすぶられている綱吉は、きげんよくこれをゆるした。
 いったいこうして人を殺害したものを大名あずけにするというのは、陪臣のあつかいをしていないのである。大名、旗本のあつかいをしているわけなのだ。閣老や将軍が、いかに感動していたかがわかるのである。
 ここで、綱吉が感激するのはおかしいような気がする。事件の種はほかならない彼がまいたのである。綱吉のやりかたは、自分で火をつけてあおり立てておいて、それをみごとに消したからといってほめているようなもので、まるで無茶苦茶である。松の廊下事件をさばいたような理づめな考えかたで行けば浪士等の行為ははなはだ不時なものとしなければならない。内匠頭を殺したのは公儀の裁判なのだから、彼等の行為は、公儀の裁判にたいして異議を申し立て、暴力を以てこれをおのれの欲するかたちにねじまげたのである。不屈者共が!と嚇怒しなければならないところである。だのに、他愛もなくまいっている。
 これは、いったいどういうわけか?
 ほかでもない。浪士等のやりかたがあまりにもみごとだったからだ。情をつくし、理をつくして、一点の非のうちどころもない内蔵助のやりかたが、綱吉の執拗な理窟を圧倒しきって、ただ感嘆のほかはなからしめたのだ。思えば、忍苦にみちた戦いではあったが、内蔵助はついに勝ったのである。小藩五万石の田舎家老が天下の大将軍に勝ったのである。
 浪士らは、その夜、仙石家へ連れて行かれ、そこから四家の大名に預けられた。十七人を熊本の細川家、十人を伊予松山の松平家、十人を長州長府の毛利家、九人を三州岡崎の水野家へというふりあてであった。
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