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<本文から> 新しく出来たこの「武士道」において、もっとも重んぜられたのは忠だが、武士道の忠はきわめて特殊なもので、直属の主人に対するだけのものだ。「坂東武士は主を知って、主に主を知らず」という古い言葉があるが、これが武士道の忠だ。
有名な「葉隠」を読んでも、一意、鍋島家にたいする忠誠のみを説いている。鍋島家の上には将軍があり、将軍の上には皇室があるわけだが、その忠誠は鍋島家で行きどまりになっている。武士が主の主にたいする忠義を心がけるようでは、封建君主の立場はなくなるからだ。社会の秩序が崩れてしまうからだ。
忠のつぎには孝が重んぜられた。「武士道」において、この忠と孝とは、車の両輪のごとく、最も重んぜられたのであるが、完全な武士足るにはそれだけでは不足だとせられた。夫婦の間の和、兄弟にたいする愛、朋友の間の信義、事にのぞんでの勇、敵にたいする憐懸、風雅の嗜み等々、あらゆる徳目に心をくばって、一挙手一投足もゆるがせにしてはならないことが要求されたのである。行為規範の体系としては、このように理想的であることはきわめて望ましいことではあるが、実践する上においては、あまりにも完全に完全にと求めて行くと、どうしても気塊のぬけたものになりがちだ。
「葉隠」などは、こういう武士道の反動として古風の激しさを再興せんとしたものだ。
「行動の判断に迷う場合には、死ぬ方をえらべ。しからば、人にばかといわれても、臆病のそしりはまぬかれることができる。犬死になりはしないかなどと考えるのは、上方風の足の地についていない武士道である」
とはっきりと「葉隠」はいっている。
あまりにも完全を求めすぎた武士道が、実用に遠ざかってきたことがわかるのである。うべなるかな!武士道が形式的に完成しきった元禄以後、武士道美談として胸うつ話は、赤穂浪士の義挙以外一つか二つしかないというさびしさだ。
赤穂浪士の義挙は気塊充満の「武士気質」時代と、形式美の絶頂に立つ「武士道」時代との中間に立って、両者の長所をかねているもので、花も実もあるということばはここにも適当している。 |
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