『甲陽軍鑑』の記述では重要な役目を果たしているが、以前はその実在さえ疑われていた山本勘肋。しかし近年の研究により存在が確認されるようになった。生年は明応二年(1493)、同九年、永正三年(1506)の三説があるが、どれも確証はない。駿河国山本村(現富士宮市)で生まれ、今川家に仕えようとしたが果たせず、天文十二年(一五四三)甲斐の武田信玄に仕える。
『甲陽軍鑑』には″軍配鍛錬の者″とあり、敵の城からあがる煙や霧、あるいは雲の動きなどによって城中の士気を判断するのを得意としていたという。また、当時の日記に勘助が鍬立てを行ったとある。鍬立てとは起工式・地鎮祭のことである。つまり勘助は、煙や霧、雲によって占いをしたり地鎮祭を取り仕切る陰陽師の側面の強い″軍師”だったことがわかる。
永禄四年(1561)九月の第四回川中島の合戦では、「啄木鳥の戦法」を信玄に進言したことで知られているが、それは軍師から参謀への転身を意味していたともいえe。だが勘助は、その合戦で討死してしまった。 |