小早川秀秋(1582〜1602)

小早川秀秋  豊臣秀吉の正室ねね(北の政所)の甥に生まれて秀吉の養子となり、十歳で丹羽国亀山城10万石を与えられる。気位が高く、激しやすい性格だったと伝えられる。
 文禄二年(1593)秀吉に実子、秀頼が生まれると小早川隆景の養嗣子に出され、隆景の隠居後、35万7千余石を領する筑前国名島城の城主になる。位官も中納言に昇進した。
 慶長二年(1597)慶長の役(朝鮮出兵)では釜山方面の大将を務めるが、戦後、釜山を離れて蔚山城の救援に奮戦した軽挙を石田三成らに咎められ、所領は十二万石に減封、一時的に越前北庄に遷せられた。
 慶長三年(1598)が秀吉没後、徳川家康の計らいにより旧領へ復帰した。こうした経緯から、家康との関係が深まった。
 慶長五年(1600)、関ヶ原では当初、西軍に属して松尾山に陣を敷いたが、合戦の途中で寝返り、東軍に勝利をもたらした。戦後、家康による論功行賞で、備前・備中・美作五一万石に封じられはしたが、関ケ関から 三年と経たない慶長七年(1602)十月十八日、突然の死を遂げた。
 死因は、一般に天然痘による病死とされているが、ほかにも諸説あり、落馬による絶命や、農民に股間を蹴られて即死といった、いずれも不名誉なものばかりである。21歳の若さであった。

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