伊達家譜代の家臣片倉家出身で、伊達輝宗の小姓となる。やがて輝宗の子梵天丸(のちの政宗)の養育係となる。年齢差は十歳であり、武芸の師範役であった。
天正十二年(1584)、輝宗が引退し、家督を政宗が継ぐと、小十郎は補佐役として伊達家のなかで重きをなしてくる。ときに政宗18歳。小十郎28歳。
政宗が家督を継ぐと、佐竹、芦名、岩城、石川、畠山、白川といった近隣大名が攻撃を仕かけてきたが、政宗は天正十三年の人取橋の戦い、同十六年の窪田の戦いなどでこれを撃破して伊達家の勢力を伸ばしていく。同十七年には摺上原の戦いで名門声名氏を滅ぼし、会津一帯を領国に組み込んだ。
しかし、秀吉はこれを快く思わず、翌十八年の小田原征伐に際しては、政宗にも出陣を要請してくる。家中には反秀吉の機運もあったが、秀吉の実力を知る小十郎は参陣を勧めた。関ケ原の合戦でも東軍側について上杉景勝を攻撃、これにより伊達家は奥州の大藩として生き残ることができたのである。 |