朝倉義景(1533〜1573)

朝倉義景   天文十七年(1548)16歳のときに父孝景を継いで越前の名門朝倉氏の当主となった。永禄八年に十二代将軍義輝が殺害され、弟の義昭が援助を求めて流れてきたが上洛を躊躇した。義昭は織田信長を頼り、義景を見捨てて美濃へ去る。
 織田信長が上洛を達成すると義景にも上洛を要請したが拒否。これを契機に信長は朝倉攻めをしかけた。しかし浅井長政が反信長の兵を挙げ助ける。これにも義景は動かず従兄弟の景健らを派遣しただけだった。結局は越前の名門朝倉家も、元亀元年(1970)、姉川の戦いで敗れてからは、勢いを失った。
 天正元年(1573)、盟友浅井長政が信長の攻撃を受けると、小谷城の救援に向かったが、信長方に寝返りする家臣が続出して、なす術もなく本拠一乗谷城へ逃げ戻った。しかし、信長の追撃の前に、敗走をくり返し、ついには一族の朝倉景鏡の裏切りにより、包囲されて自害した。

関連の本関連の本・・・
●戦国城塞傳 (著者/津本 陽)
●戦国城塞傳 (著者/津本 陽)

戦国時代 メニューへ


−トップページに戻る−