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<本文から> 「財政通」
なのだ。しかしソロバン勘定の達者なかれが、果たしてどこまで、この、「信長の天下思想」
を理解していただろうか。それは、政治プロパーの理想家と、数字重視の財政家(現実主義者)とは、根幹での発送が全く違うからである。信長が前田利家を、最後まで北陸の地に釘付けにしたまま、
「天下人として行う中央政治の補佐役」
として重用しなかったのには、それなりの理由があるのではなかろうか。つまり、
「利家の能力の限界」
というか、自分との資質の差を見抜いていたような気がする。そしてこの、
「冷遇」
は、そのまま信長が死んだあとの大下人、豊臣秀吉の時代にも引き継がれる。秀吉は確かに晩年において、
「五大老の一人」
並びに、
「相続人秀頼の博役」
として利家を利川する。しかしそれは、徳川家康という油断のならない存在にに対す
る押さえとして利家を利用したのであって、信長以来秀吉に引き継がれてきた、「あゆち思想の日本国内への普及」という事業の理念を、利家が完全に理解していたと評価したわけではあるまい。
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