童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           勇断 前田家三百年の経営学

■前田利家−信長・秀吉から冷遇、天下思想を理解できず

<本文から>
「財政通」
 なのだ。しかしソロバン勘定の達者なかれが、果たしてどこまで、この、「信長の天下思想」
 を理解していただろうか。それは、政治プロパーの理想家と、数字重視の財政家(現実主義者)とは、根幹での発送が全く違うからである。信長が前田利家を、最後まで北陸の地に釘付けにしたまま、
「天下人として行う中央政治の補佐役」
として重用しなかったのには、それなりの理由があるのではなかろうか。つまり、
「利家の能力の限界」
というか、自分との資質の差を見抜いていたような気がする。そしてこの、
「冷遇」
 は、そのまま信長が死んだあとの大下人、豊臣秀吉の時代にも引き継がれる。秀吉は確かに晩年において、
「五大老の一人」
 並びに、
「相続人秀頼の博役」
として利家を利川する。しかしそれは、徳川家康という油断のならない存在にに対す
る押さえとして利家を利用したのであって、信長以来秀吉に引き継がれてきた、「あゆち思想の日本国内への普及」という事業の理念を、利家が完全に理解していたと評価したわけではあるまい。

■前田利家−自分に生きる道を探る、マイナスをプラスに

<本文から>
若い頃からの友人である利家に対しても、
「おまえさんは、北陸の押さえとしてずっとそこにいてもらいたい」
ということだ。裏返せば、
「中央政権には関与しなくていい」
ということである。そうなると前田利家の考え方も、次第に独自なものに変わらざるをえない。それは、信長や秀吉から冷遇された、
「屈辱感や劣等感をどうプラスに変えるか」
ということだ。冷遇というのは、受け身の受け止め方だ。しかし利家はこれを、
「打って出る前向きのパワーに変えよう」
と思った。それは、この段階にいたって、かれもようやく
「それ以外、自分に生きる道はない」
と考えたからである。この、
「マイナス要因を、プラスに転換させる」
ということがそのまま、
「百万石文化の創造」
に結びついて行く。そこまで利家がそえたかどうかはわからないが、信長・秀吉の政治行動を見ていて、
「俺には到底あの考えに追いついて行けるだけの能力がない」
と、どこかの段階で利家は認識したことだろう。その方面での自分の能力の限界をさとったのだ。そうなると、
「自分の能力で展開できる事業というのは一体なにか」
ということに思い致す。それが、利家の、
「北陸における文化国の建設」
であった。もっといえば、
「俺なりのかぶき精神・ばさら精神を、この北陸において実現しよう」
ということである。この辺から、前田利家の
「天下からの分離」
がはじまる。今の言葉を使えば、
「北陸での気方自治主義の実現」
 である。

■前田利家−北陸文化立国は中央の理解者がいないと不可能

<本文から>
 前田利家はつくづくと、
(今後は、秀吉の力を無視しては、何ごともなし得ない)
ということを感じた。織田信長からいわれた、
「あゆち思想を、北陸で実現する」
ということについても同じだ。現在でいえば、
「中央集権の枠の中でしか、地方自治は保てない」
ということだ。利家は改めて、
「人間関係の大切さ」
を向けるようになった。それは、
「北国に、ひとつの文化立国を行う上でも、中央に理解者と、協力者を沢山増やさな
ければ、実現は不可能だ」

■利家の原体験を生かす、弱い立場、苦しい立場に置かれた方々に声を掛ける

<本文から>
 一夜、利家はこのことをまつに語った。まつは頷いた。
「ようやく、そこにお気付きになりましたか」
と笑った。まつは、
「そのようなお仲間をお増やしになるのには、やはり弱い立場、苦しい立場に置かれ
た方々に、お声を掛けるのがよろしうございまし⊥う」
 といった。それは若き日の利家が、同朋衆の十阿称を殺した時の浪人生活の苦しさを、まつも、「利家の原体験」
として忘れなかったからである。あの時利家が一番心を慰められたのは、やはり自分に同情し、一日も早く信長の怒りを解いてくれるように尽力してくれた柴田勝家らわずかな先輩たちであった。その柴田勝家も滅びた。前田利家は、木下籐吉郎時代から秀吉とは昵懇だ。秀吉の性格も知り尽くしている。天下人となった秀吉は、その政権を維持するためには、今までのような調子のよさだけでは保てない。やはり、非情な手も打つに違いない。
(そういう時に、弱い立場・苦しい立場に立った者を擁護することが、今後の俺の仕事の一つになるかもしれない) 利家はそう思った。この考えに立って、かれが擁護した大名に豊後の大友宗麟や、陸奥の南部信直、あるいは同じ伊達政宗などがいる。

■前田利家の遺言状

<本文から>
●自分の病気はもう回復できない。近々死ぬだろう。死んだら長持入れて金沢へ送り、野田山に葬って欲しい。
●自分が死んだら、二男の利政を金沢へ戻し、金沢城の居留守役にせよ。利長・利政兄弟のもとで、軍勢は一万六千人ほどあるはずだ、そのうち、八千は大阪に詰めさせ、残りの八千は金沢に置いて利政の命令で動かせ。時の勢いで大阪で面倒が生じ、秀頼様に謀反を起こそうとするものが出た場合は、利政は八千の軍勢を連れて上洛し、利長と一つとなって力を尽くすように。その時金沢城の留守は、篠原出羽守一孝と利長の腹心の者一人を添えるように。
●自分が隠居料としてもらっていた加賀石川と河北および越中氷見郡の土地は、利長に与える。能登の一万五千石は、利政へ残したらどうだろうか。
●判金千枚、脇差三振、刀五腰に札を着けて置いたから、利政に渡して欲しい。その外は帳面に書いてある。残らず利長へ譲る。
●金沢に置いてある金銀諸道具は、全部帳面に書いておいた。利長におく。しかし、自分が死んでから三年間は、利長は加賀へ戻ってはならない。まあ、そのうちに徳川家康たちとの対立も薄らぐだろう 。
●武道ばかりに熱中するのはよくない。文武二道の武士は少ないが、分別がいいものだ。こういう武士をいろいろな情報を集めて探し出し、新参でもいいから情けをかけて召し抱えるべきだ。

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