童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          義経を討て

■義経軍から嘲笑された梶原景時は憎悪を燃やす

<本文から>
「おれは源氏軍の軍監だ。それに、頼朝公から義経殿の行動を監視するように命ぜられている」
 という意識があった。したがってかれの考えでは、
 「義経軍はあくまでも分遣隊であり、本軍はおれの率いる軍勢だ」
 と思っている。しかし前にも書いたように、義経軍の部下たちは、義経に対する絶対的な忠誠心を持っており、その意味では、
 「心の結束」
 が強い。常に打って一丸となって行動を共にする。その団結カは際立っていた。その代わり、自分たちと同じような行動をとらない軍勢に対しては批判的だ。梶原景時はそういう視線に晒された。義経の部下たちは景時を嘲笑った。
 「平家物語」には、
 「法会に間に合わぬ花、六日のあやめ、けんかすんでの棒ちぎり(喧嘩道具)」
 と嘲笑された。いずれも、
 「遅れた間抜けな存在」
 という意味である。権勢欲が強いということはそれだけ誇りが高い。自ら頼む気持ちが強い。景時はその典型的な人物だ。この嘲笑を黙って受けたが、腹の中は煮えくり返った。そしてその怨念の対象がすべて義経に集中した。
 「おのれ義経め」
 と憎悪の炎を燃やした。
 (いつか必ずこの報復をしてやる)
 と心に誓った。こういう人物にとって、憎悪すべき対象を常に設定しておくことは、それだけ自分のやる気を燃え立たせる動機になる。梶原景時は、
 「他人を憎むことによって自己存在の証しを立てる」
 という人柄だった。したがって、人を愛するとか、哀れむとかというもののふの哀れなどかけらもない。義経の部下たちに嘲笑された景時は逆に義経に食って掛かった。

■バトル戦である壇ノ浦の海戦の勝因

<本文から>
  「この潮流を利用しよう」
 と思い立った。司令官としての義経のキャラ(性格)はウォー(戦争全体)を展望するよりも、バトル(局地戦)の指揮官として卓抜な敵方を発揮するといっていい。かれが今まで平家を打ち破った一の谷にしても屋島にしても、すべて"バトル戦"であって、合戦全体ではない。ところが義経の場合には、このバトル戦に勝つことによって実は合戦全体を左右している。そこがかれが、
 「軍事の天才」
 といわれる所以だろう。したがって、平家との決戦場になった壇ノ浦の海戦も、義経にすれば"バトル戦"である。つまり義経は、
 「遭遇したバトル戦に全力を傾注する」
 という作戦を執る。そしてそのためには、
 「地理・地形・天候・敵の状況(能力)・こちら例の戦力(能力)」
 などを徹底的に事前に調べる。これは中国の古い兵法にいう、
 「彼(敵)を知り己を知れば百戦殆からず」
 という戦法だろう。つまり敵に勝つためには、敵のことばかり知ってもだめだ。
 「それに対応できるかどうかこっちの戦力を十二分に確かめる必要がある」
 ということだ。そうなると壇ノ浦の決戦に臨んで、近海に拠点を置く水軍の頭目たちから、
「関門海峡における潮流の実態」
を事前に彼が熱心に開いたのもよくわかる。ある時期の数値なので確定的ではないが、研究機関が調査した関門海峡を流れる潮の量は、西へ流れるときは四億六百万トン、そして東へ流れるときは三億四千七首万トンだったといわれる。西へ流れる量の方が多い。ということはそれだけ流速が速いということだ。義経のときもそういう状況だったらしい。そこで義経は作戦を立てた。
 ○決戦時には源氏軍は西へ流れる潮流に乗る
 ○しかしだからといって、潮流の東流れが西流れに変わるまで、どこかの岸辺に待機するわけではない。東流れのときも敵を追う
 ○しかしこれは潮流に逆らって戦うわけだから味方は不利だ
 ○しかしこの不利のときをこらえて過ごさなければ、敵はこちらの作戦を見抜いてしまう。したがって、この東流れのときにいかに踏ん張るかが、戦いに勝てるか勝てないかの分かれ目になる
 ○反撃の機会は、流れの向きが変わるときだ。このときは流速ゼロになり、潮の流れが止まる。ここを反撃の最大の機会とする
 ○潮が西へ流れはじめたときは一気に敵を追う。そして殲滅する

■頼朝は前線の将兵に対する忸怩たる気持ちがあった

<本文から>
 こういった調子のものだ。梶原景時は単に口先だけの男ではない。軍功も立てた。一の谷の合戦の時も、範頼の軍に属していたが、大いに奮戦し敵の平一門である重衡を捕虜にしている。そこで頼朝は土肥実平とともに、景時を播磨(兵庫県)美作・備前・備中(いずれも岡山県)・備後(広島県)の守護に命じ、前に書いたように、
 「中国地方における源氏の拠点創設」
 に努力させた。頼朝が何よりも景時を気に入っていたのは、範頼とともに、
 「マメな状況報告」
 を怠らなかったことである。義経にはそれが全然ない。かれは結果だけを知らせる。義経は軍事の天才であり根っからの軍人であって政治家ではない。だから、
 「大将は過程の報告を細かくすべきではない。勝ったときにそのことだけを告げればそれでよい」
 と割り切っていた。しかし頼朝にはこれが気に食わない。というのは頼朝自身おそらく、
 「前線にいる将兵に対する忸怩たる気持ち」
 があったためだ。つまり総司令官の自分は鎌倉にいて動かない。安全なところにいて、前線の将兵に対し、
 「ああやれ、こうやれ」
 と命令を発しているだけだ。頼朝も武人なのだから、そんな行動を決していいとは思っていな い。しかし北条時政をはじめ東国各地域の猛将たちが寄ってたかって、
 「君は前線にお出になってはならぬ。まだまだ東国の状況は油断ができない。どっかと鎌倉に腰を据えて、東国の鎮静化を図るべきだ」
 というので表向きはその助言に従ったことにしている。しかし一人になれば、
 「実際の合戦場にいる連中はおれのことをどう思っているだろうか」
 と思うのは当然だ。そのくらいの良心は頼朝にもある。したがってかれは平家が滅亡するまでは気が気ではなかった。毎晩、こういう思いに責め立てられる。
 「おれは卑怯者ではないのか」
 とさえ思い込む。こういう弱点を持っているので、範頼や景時のようにマメに戦況報告を送ってくれば、嬉しい。かれらが頼朝に対する不満を持つどころか、逆に、
 「鎌倉の君には間断なく報告を行わなければならない」
 という忠誠心を示してくれることに大いに満足するのだ。前線の将兵への後ろめたさが消える。
 ところが義経は全然やらない。だから頼朝が義経を憎む心の中には、この、
 「前線将兵に対する後ろめたさ」
 があったことは確かである。

■義経の悲運は"家臣の立場に立つべき"という鎌倉幕府最高幹部の統一意思
<本文から>
 つまり物事を合理的に考え、感情を入れない。冷静な判断をする。その判断の一つに、
 「たとえ兄弟であっても、棟梁に対し家臣の立場に立つべきである」
 という考えがあった。具体的にいえば、
「源頼朝ひとりが武家の棟梁なのであって、範頼や義経は兄弟ではあっても、棟梁に対して家臣としての忠誠を尽くさなければならない」
 ということである。この基準からいうと範頼はピタリと適合し、義経はまったく反していた。したがって頼朝の感情的なものを一切排除しても、京都派の下級公家連中から見れば、
 「義経段の行動は少し目に余る」
 ということになる。したがって今までこの時代の歴史を知る人の多くが、
「頼朝の偏った感情によって義経は窮境に追い込まれ、悲劇的な人物になってしまった」
 と見られているが必ずしもそうではない。義経の悲運はいわば、
 「鎌倉幕府草創期の、最高幹部の統一意思(合意)」
 だったのである。そしてその主唱者はおそらく大江広元だっただろう。梶原景時に返事を書いた後、頼朝は急いで西国にいる範頼に飛脚を出している。
 ○失われた宝剣を必ず捜し出すこと
 ○このまま冬の時期まで九州方面の処理に当たること
 ○おまえ(範頼)と義経には、おまえは九州の政務を管領し、義経は四国を支配するように命 じたのに、義経は壇ノ浦の合戦後は九州の管領の仕事まで手を出している。また、支配下に置いた東国武士に対してもわたしを通さずにいろいろと成敗を行っていると聞く
 ○こういう義経のわがままは許し難いので、すでに義経は罪人として処置することにしたと、しきりに義経のことを罪人、罪人といっている。肉親の愛情はまったく感じられない。筆者の勘繰りだがこういう頼朝の扱いを見ていると、
 「頼朝は義経のことを本当に弟だと思っていたのだろうか?」
 と背筋が寒くなるような疑問を持たざるを得ない。黄瀬川で対面したときにはあれほど喜んだのが嘘のようだ。しかし黄瀬川の対面にしても、あるいは"やらせ"だったのかもしれない。あの状況で、
 「はるばる奥州の平泉から弟の義経殿が馳せ参じた」
 と開けば数の少なかった源氏軍はどれだけ戦意を高めたかわからない。目の前には平家の大軍が待ち構えていた。

■法皇と義経との無垢な人間対人間

<本文から>
 「この上は、鎌倉の頼朝を討つ以外ない。それには院の郡削が必要だ」
 といった。義経の心は動いた。十月十一日と十三日の二度にわたり、義経は後白河法皇に相談している。しかし十一日の時には、主として本人のぼやきと愚痴話が主であって、メインの話題である、
 「源頼朝への追討の宣旨」
 を戴きたいという話は、最後に付け加えただけだった。
 この夜、後白河法皇は珍しく義経に酒を勧めた。例の今様の会も開かなかった。つまり一対一で話し込んだのである。後白河法皇は酔った。義経も酔った。そして法皇は言った。
 「今宵は、わたしの愚痴も聞かせよう」
 そう告げた法皇は、
 「わたしは順調に今の位置に達したわけではない。若い頃から屈折だらけだ。そしてその度に深い屈辱を味わった。いってみれば、今までの半生は屈辱の連続だといってもよい。しかしそれはわたしの能力のなさに基づくものではない。外的な条件によるいわば一種の"不条理"である。この不条理との戦いで、疲れ果てた。しかしわたしは勇を鼓して、この不条理と向き合って来た。不条理というのは単に力ずくで潰そうとしても潰れない。意外にカが強い。やがてわたしはこの不条理と折り合うことを覚えた」
 ここで言葉を切って法皇は義経の顔を見た。
 (この若者はわたしの話を理解しただろうか)
 と確かめたかったからだ。義経は酔ってはいたが、意識ははっきりしていた。だから珍しく法皇がそんなことを言い出したことに心の中で驚いていた。義経は瞬きもせずに法皇の額を凝視し、次は法皇がどんな話をするのかじっと待ち構えていた。法皇は安心した。
 (この若者は、わたしの話をきちんと開いている)
 と感じたからである。この夜法皇は五十九歳、義経は二十七歳である。義経は法皇の半分以下の年齢だ。したがって法皇にとって義経は息子も同じである。そんな情感がこの夜生まれていた。それは義経が自分をさらけ出して泣きついて来た姿は、まさに小鳥が親鳥に対し、身悶えしながら自分の悲しみや苦しみを訴えているように思えたからである。親鳥としての法皇は、この小鳥をしっかりと受け止めた。
 (この若者には、そうするだけの価値がある)
 と法皇は感じていた。後に頼朝から、
 「日本一の大天狗」
 といわれるような政略性は、この夜に限って微塵もなかった。その意味では、この夜の後白河法皇と源義経とは、
 「無垢な人間対人間」
 として、深い心の結びつきを味わったのである。
 寿永(一一八四)年は四月十六日に元歴と改元した。これは平家滅亡を祝っての改元だろう。そして、その元暦二(一一八五)年の八月十四日に文治と改元した。この改元の理由はよくわからない。しかし、源義経たち平家討滅に功績のあった源氏一門がそれぞれ任官する前々日のことである。この頃の法皇は京都・奈良の諸社寺を歴訪している。詣でたのは廷暦寺・呈是・石清水八幡宮・加茂社・蓮華王院・法勝寺・東大寺などである。そして圧倒的に日吉社が多い。そして法皇の居館は八条院御所や六条殿などであったようだ。六条室町に住む義経の屋敷からは近い。そんな心安さもあったのだろう。今でいえば、
 「どんなに酔おうと、昇ってでも帰れる」
 という俗語が通用する近距離だ。法皇がこの夜義経に話した「挫折続きの前半生」の中身は、
 ○法皇が即位したのは二十九歳の時で、それまではまったく皇位とは緑の遠い存在として生きていたこと
 ○それが突然自分に皇位がまわって来たが、あくまでも"つなぎの天声"であって、周りでは真剣に法皇を天皇として尊敬しようなどとは思っていなかったこと
 ○その証しとして、自分のあとも周囲のカによって皇太子が定められ、必ずしも法皇の意思による皇太子は立てられなかった
 ○しかも在位三年で退位した。二条天皇に譲位した
 応保元(一一六一)年九月の三日には法皇の叔父憲仁親王が生まれた。どこまで法皇の意志が働いていたか分からないが、平頼盛・平時忠たちがこの皇子を皇太子とすることを図ったというので、解官された。さらに直後に法皇の近臣である藤原信隆や成親も解官された。それだけではなく、翌年には平時忠たちは流罪に遭った。つまり法皇の近親たちが次々に狙い打ちにされて、朝廷から放り出されてしまったのである。
 「多くの事情は、御所内の内紛や勢力争いが原因だ。わたしにとって最も苦手なことだった」
 法皇は過去を振り返って義経にそう告げた。その姿には、普段、
 「大政略家だ」
 といわれる法皇の面影は微塵もない。義経も、
 (法皇様も、本当は純粋なお人柄なのだ)
 としみじみ思った。

■義経を追捕する口実で藤原氏を滅ぼす

<本文から>
 義経の逃避行については、多くの修験者や悪僧が協力していた。この情報によって、頼朝にとってまた大きな標的ができた。平泉の藤原秀衡である。前に一種の打診的な書状を出し、秀衡はすぐそれに協力して手元から馬や黄金を送ってきた。頼朝はそれをネコババすることなく、京都にきちんと代送した。
 「が、結局は秀衡は義経を匿まったのだ」
 という予感が当たり、今は確信した。そうなると、
 「平泉を征伐しなければならぬ」
 ということになる。
 「格好の機会でございますぞ。鎌倉政権が天下統一するよい口実になります」
 策士の大江広元たちはそう告げて手を打って喜んだ。義経を追捕するというのは表面の口実であって、どさくさ紛れに義経を匿まった藤原氏を滅ぼしてしまえば、東北地方も頼朝政権の膝下に組み込まれるということになる。いわば、一石二鳥の益が得られる。二兎を追って、一兎も得られないのではなく、二兎とも得られるということだ。

■頼朝自ら先頭に立って義経討伐へ

<本文から>
 そう呟くと、にわかに義経に対する哀れさが込みあげてきた。法皇は、
「しかし、それでよいのだ。そなたは最後までで美しく舞い続けた蝸牛だったのだ。兄の頼朝はそなたを馬の子や牛の子のように踏み潰しでしまったが、わたしはそんなことはしない。滅びたそなたを最後まで華の園で遊ばせようぞ」
 そう告げた。そして信仰心の高まっていた法皇は、一人自分の胸に言い聞かせるようにこう呟いた。
 佛は常に在せども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、広かに夢に見えたまふ
 呟き終わって法皇は大きく息を漏らした。
 平家追討の総大将でありながら、最後まで前線に立つことのなかった源頼朝は、弟の義経討伐のためには自ら先頭に立って奥羽地方に入った。そして義経を殺した泰衡を褒めた。泰衡は褒められて過分の恩賞に預かると思ったのに当てが外れた。泰衡はその家来の河田次郎に殺されてしまった。頼朝は奥州戦後処分を行い、御家人の葛西清重を陸奥の稔奉行に任じ、さらに伊沢家景を陸奥留守職に任命した。奥州支配のためのいわば「鎌倉幕府の支店長」を設けたのである。義経が滅亡したせいかどうか分からないが、文治六年は四月十一日に改元された。新しい年号は建久である。その七月に頼朝は勝長寿院で、万灯会を催し、この時は平氏の冥福を祈った。そして十月に初めて上洛した。後白河法皇に謁見した。法皇は、頼朝に、
 「天下平定の功を質す」
 といって、権大納言と右近衛大将の職を与えた。頼朝は一旦は有り難く受けたが、鎌倉に帰るとすぐ、
 「両職ともご辞退申し上げます」
 とそのポストを返上した。長年自分を振り回してきたくせに、今さらなんだという気があったことは確かだろう。

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