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<本文から>
だからといって松陰が晩生だったというわけではない。赤ん坊のような純粋な魂を彼は意識して保ち続けた。
「そうすることが自分の生き方だ」
と深く信じていたからである。しかしその姿勢は激しく厳しい。松下村塾にいた門人の中で、高杉晋作や坂玄瑞・入江九一などは同じように、
「ピュアな精神の持主」
だったといっていい。しかしこのピュアな精神の持主でさえ、師の松陰から破門されてしまう。そのときの理由が、
「君たちは功を立てようとしている。僕は志を立てる人間が好きだ。君たちは汚れている」
と激しく非難するのである。こういう論に対しほとんどの人間が反論しない。できない。それはやはり言い手である松陰の魂が至純の誠意を示すからだ。したがって側にいる者も遠くにいる者も、
「松陰の言うことなら仕方がない」
という気持になってしまうのである。
松陰の志はあくまでも、
「日本国のため、日本国民のため」
という命題を掲げていた。これには圧倒されて、多少松陰のいうことが強引であり、無理な事を言うと思っても抵抗できない。つまり、
「言われてみればそのとおりだ」
と感ずるからである。松陰は、
「机上の学者」
ではない。あくまでも「学んだことは必ず行え」と告げた。 |
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