童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          吉田松陰の言葉

■ピュアな精神の持主

<本文から>
 だからといって松陰が晩生だったというわけではない。赤ん坊のような純粋な魂を彼は意識して保ち続けた。
 「そうすることが自分の生き方だ」
 と深く信じていたからである。しかしその姿勢は激しく厳しい。松下村塾にいた門人の中で、高杉晋作や坂玄瑞・入江九一などは同じように、
 「ピュアな精神の持主」
 だったといっていい。しかしこのピュアな精神の持主でさえ、師の松陰から破門されてしまう。そのときの理由が、
 「君たちは功を立てようとしている。僕は志を立てる人間が好きだ。君たちは汚れている」
 と激しく非難するのである。こういう論に対しほとんどの人間が反論しない。できない。それはやはり言い手である松陰の魂が至純の誠意を示すからだ。したがって側にいる者も遠くにいる者も、
「松陰の言うことなら仕方がない」
 という気持になってしまうのである。
 松陰の志はあくまでも、
 「日本国のため、日本国民のため」
 という命題を掲げていた。これには圧倒されて、多少松陰のいうことが強引であり、無理な事を言うと思っても抵抗できない。つまり、
 「言われてみればそのとおりだ」
 と感ずるからである。松陰は、
 「机上の学者」
 ではない。あくまでも「学んだことは必ず行え」と告げた。
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■朝に道を聞けば、夕べに死んでも後悔はしない

<本文から>
 つまり、医者にもかからず、薬も飲まず、家人のすすめる食料にも手を出さをいようなことは、
 「天命に反する行為」
だというのである。そしてこの後半の方に、次のような解説がある。
 「僕は安改元(一八五四)年に渋木君(金子重輔の変名)と共に下田獄に入れられた。わずか半坪ほどしかない牢の中で二人は寝起きを共にした。しかし毎日何もすることがない。そこで番人に頼んで本を差し入れてもらった。本というのは『赤穂義臣伝』『三河後風土記』『真田三代記』などの読み物だった。これを一緒に声を出して読んだ。そのころの僕たちは、
 『絶対に助からない。二度と日の光を拝むことはできない』
と考えていた。完全に絶望状況にあった。だから僕は渋木君にこういった。
 『こういう状況での読書こそ、真の読書なのだ』
 というのは、中国の古い歴史に漢の夏侯勝と黄覇の例があったからである。あるとき、二人は牢に入れられた。夏侯勝は学者だ。そこで黄覇が、
 『学問を教えてほしい』
 と頼んだ。ところが学者の夏侯勝の方が、
 『われわれはいずれ死罪に処せられる。それなのに、いま学問を学んでも何の役にも立たない。断る』
といった。すると黄覇は、
 『朝に道を聞けば、夕べに死んでも後悔はしない』
といった。夏侯勝はびっくりした。そして恥じた。学者ではない黄覇のいうことに真理を感じたからである。そこで夏侯勝は気持ちを変えて、黄覇に学問を教えた。
 二人は三年間牢内にいた。そして、突然大赦を告げられ、二人は再び職を得た。僕は渋木君にこの話をして、
 『別に大赦に浴しようと思っているわけではないが、古代中国にはこういう話があったのだ』
といって、さらに読書を続けた。そして、僕たち二人は切腹させられることもなく、
 『国もとで謹慎』
という思わぬ寛大な処分を受けた。渋木君と二人でしみじみと、漠の夏侯勝と黄覇の話を改めて語りあったものだ」
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■賢者は民と典(偕)に楽しむ

<本文から>
 ここでは、
 「人間の楽しみ」
 という本義を明らかにしている。この辺の松陰の解釈は一歩鋭い。周の文王(武王の父)の楽しみ方は、別に宮廷内の庭の台地や鳥獣を楽しんだわけではない。民衆がそれを造ることを楽しむのを見て楽しんだのである。つまり民衆が、
「文王のための御苑造りは楽しい」
 と、仕事に喜びを感じている光景に、胸を打たれていた。民の方も、別に庭の台地や鳥獣を楽しんでいたわけではない。文王が自分たちを見て喜んでおられる姿を見て、
 「文王が楽しんでおいでだ」
 と楽しみを共有したのだ。したがって、文王は民衆の楽しみを楽しみとし、民衆は王の楽しみを楽しみとした。互いに楽しむこういうつながりを、
「偕に楽しむ」
 という。それに比べると夏の傑王は違った。宮廷内の庭の台地や鳥獣そのものを楽しんだのであって、別に民衆と楽しみをともにしたわけではない。こういう楽しみ方を、
 「独り楽しむ」
という。だから人間の楽しみ方は、この独り楽しむ″グループと偕に楽しむ″グループとに大きく分けられる。
 幕末に攘夷の総本山といわれた水戸藩主徳川斉昭が造った庭園を「借楽園」というが、この庭園名の出典はこの「偕に楽しむ」から来ている。
 しかしこの章について、松陰は次のような付言をしている。
 「そうはいうものの、いまの僕は諸君とともに野山の獄に繋がれていて、こういう楽しみを得るということは全く望みがない。そこで僕にできることは、諸君とともに人の人たる道を研究し、それによって投獄の苦しみを忘れてしまうことだ。もしもそういう境地に至ることができれば、それこそ真の楽しみになるだろう。どうか諸君も、僕とともに本当の楽しみを楽しもうではないか」
 といっている。楽しみをテーマにしながらも、やはり松陰は自分のいま置かれた立場というものを決して忘れてはいない。野山獄内の、冷たい湿っぽさが鼻の先に漂って来るような気がする。
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■仁政の実現はよき士の競いあいにある

<本文から>
 松陰は、
 「萩に天下の有能な人材を集めて、日本における仁政実現の模範となろう」
と告げた。そのために、中国古代で考えられた、
 「仁政実現のための五つの条件」
を掲げた。簡単にいえば、天下の有能な士・農民・技術者(工)・商人などが、先を争って、
 「萩へ行きたい、行こう」
という気持ちを起こさせることである。そのことがいってみれば、萩という城下町が、
 「日本国の中で、だれもが行きたいと願う条件を備えている。またその条件をさらに増幅するために、自分たちの参加の場がある」
 と考えることだ。前に触れた、
 「地方分権の推進は、首都機能の移転などという消極策よりも、むしろ首都機能が進んでその地域に行きたいと思うような魅力を自ら生産することだ」
と書いた。このことと一致する。ただ棚から落ちるぼたもちを待っているだけではなく、
 「自己努力によって、多くの機能を招き寄せるようなパワーを自ら生もう」
 ということだ。吉田松陰の考えも全く同じである。松陰はしかしその中でも、
 「まず、士(政治を担当する能力者)が、競いあって萩にやって来ることが先決だ」
 といっている。しかしこのことは、藩政のトップに立つ首脳部が、まずそういう考えを持たなければならない。
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■聖人ほど他人から学ぶ

<本文から>
 舜王は大聖人だった。彼はまだ身分が低い頃、農民・技術者・漁夫と一緒に生活していた。しかしそのときから、
 「必ず他人によいところがあれば、それを取り入れてすぐに実行する」
 ということを実践していた。それはやがて彼が王となる天下というものが、至って大きくまた非常に奥深いものなので、一人の知恵ではとうていこれを極めることができないことを知っていたためだ。さらに舜が「人と善を為す」すなわち、人々と一緒に善を行なったということになると、これはまさに仁の至上なるものであって、我々のように至らぬものたちがとうてい聖人の大徳に及ぶことはできないが、志を立てて聖人に学ぼうと決心した以上、舜が大聖人であるからといって、その大徳に恐れることはないのである。だから自分の小さな知恵や能力を挟まずに、広い心を持って他人の知恵や能力を取り入れ、その上に人の善心を勧め助けて、ともに道に向かって進むべきなのだ。もっといえば、世の中には、人を誘って道に進もうとする人物は極めて少ない。ひどい人間になると、互いの知恵と知恵や能力と能力をぶつけあって、喧嘩するようになる。これはこの上なく哀しいことである。われわれは深くこの点に留意すべきだろう。
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■孔子やキリストと違い閥がなく、松下村塾生は最後まで師を敬愛した

<本文から>
 もう一つ松陰について感動することがある。それは、古代中国の大思想家であった孔子には何千人という弟子がいた。しかし、孔子の死後学説が種々分かれ、門人たちもそれぞれ派閥をつくつた。また、日本で俳聖といわれた元禄時代の松尾芭蕉にも、千人を超える弟子がいた。が、芭蕉が死んでしまうと、各派が、それぞれ句風を主張して、やはり閥をつくつた。あるいは、キリストの場合も同じかもしれない。最後の晩餐をともにした十二人の司徒のなかでも、ユダのように裏切る者さえも出た。そうなると、すぐれた人物の門人たちが最後まで、それまで尊崇してきた師に対して変わらぬ敬愛の心を持ち続けるというのは至難のわざである。ところが松陰の場合は違う。松下村塾に学んだ人物たちのほとんどが、吉田松陰を最後まで師として尊崇した。この松陰への尊崇心が、起爆剤となり、互いに連動して、明治維新を実現させたのである。これは何度も繰り返すが、松陰自身が、
 「自分は師ではない。君たちと共に学ぶ学友だ」
 と、
 「教える者の立場」
 を放擬し、
 「共に学ぶ学徒」
の位置を保ち続けたところに大きな原因があるだろう。晩年の松陰にはだから、常いに高いところから弟子たちに教えの水を流すというだけでなく、逆に弟子たちの水の逆流によって、自分が救われたいと考えたことさえあったはずだ。そういうときの松陰の弟子に対する教えは、場合によっては、
 「求愛」
の哀しい響きさえ持っている。そこが松陰の松陰たる所以なのである。
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