童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          吉田松陰・下

■ユニークな教育方法

<本文から>
こういう多彩な門人たちを指導する松陰の教育方法は、じつにユニークなものがあった。以下に、その目立つ方法を掲げてみる。
・松陰は、門人に対して「あなた方とわたしの関係は、師弟ではない。学友だ。わたしもあなた方とともに学ぶ立場に立つ」
 と告げた。
したがって、松陰は門人に対することばづかいは常に「あなた」と呼んだ。そして、自分のことは「ぼく」といった。このぼくは、「学僕」すなわち「学問のしもべ」の意味だろう。
・講義をおこなうときに、かれは見台(教科書をのせる木製の台)を使わなかった。
・また、ふつうの塾で師が座る場所を、特定しなかった。かれは教科書を手にしたまま、そのときの状況によって、弟子と弟子との間に入り込んで、一緒に勉強した。したがって、はじめて訪ねてきた人は、どこに師がいるのかわからず、弟子と弟子との間にはさまっている松陰を、弟子のひとりだろうと推測した。
・かれは門人の出身、年齢、学力の程度はいっさい考えなかった。すべて平等に扱った。
・使うテキストも、松陰のほうから「これを使いなさい」と指定しなかった。門人のほうが「この本について教えてください」という自主性を重んじた。だから、吉田栄太郎のように「この本をテキストにしなさい」と松陰にすすめられても、「いやです」と断って、自分で「この本について教えてください」と選んだ。しかし、吉田栄太郎が選んだテキストは、『日本外史』『武教全集』『長門櫃』『農業全集』『周南文集』(略)などであった。相当多方面にわたっている。
・授業時間に、いわゆる時間割を組まなかった。いつでも、弟子の都合に合わせて講義をおこなった。したがって、訪ねてくる弟子に合わせて授業時間を設けるから、朝早くはじめたり、あるいは深夜におよぶこともある。ときには、徹夜でおこなうこともあった。足軽の息子伊藤利助(博文)などは、日中は勤務でぜんぜん暇が取れないので、夜にわずかな時間をみつけてやってきた。高杉晋作は、萩の城下町に住んでいたので、家が遠い。また親たちが、
「吉田松陰は危険な思想家だから、あんな塾へ行ってはならない」
 と松下村塾へ通うことを厳禁していたので、深夜かれは家を抜け出して通ってきた。
・教育内容では、現実にに起こっている社会例題を常に討議の対象にした。そのため松陰は自分の情報メモ帖をつくりこれに「飛耳長目録(帳)」と名づけていた。いまのことばを使えば「いつも耳をピンと立て目を横に大きく開いて現実をみつめよう」ということだろう。これを塾の中に似いておいて、弟子たちが勝手に利用することをすすめた。同時に、いろいろなテキストを使っていてもそのときそのときに起こった社会問題を掲げ、「なぜ、こういう問題が起こってくるのか、政治とはかかわりがないのか、それは政治がいいから起こつたのか、悪いから起こったのか」というような考究方式で、討論を活発化した。
・王陽明の学説を学んだことがある。このとき、松陰は王陽明が「自然との対話」を重くみていることを知った。そこでかれも、弟子たちとともに塾を出て、土を耕し野菜を植えたりした。また、近くの山々を歩きまわっては、身体を鍛えることにも努力した。
・門人の学習成果の評価に、かれは三つの等を設けた。上等・中等・下等とし、上等は 「進徳・専心」とし、中等は「励精・修業」とし、下等は「怠惰・放縦」とした。
・松下村塾は私塾だったが、かれはこの塾における教育成果の公共性を主張し、藩役所に対しても「藩外留学費の支給」などを求めている。藩外留学費の支給を求めるということは、とりもなおさず「多くの若者を、どんどん藩外に出して、見聞を広めさせてやって欲しい」ということだ。

■相手に合わせて考える教育方針

<本文から>
 松下村塾における吉田松陰の教育方針は、
「相手に合わせて考える」
ということだ。門人一人ひとりの、人柄や能力をみきわめ、
「良いところを引き出し伸ばそう。悪いところは目をつぶる」
というものだ。しかしだからといって、ただ相手に合わせていただけではない。基本的には理念があった。おうまでもなく、かれ自身が書いた、
『松下村塾記』
である。この『松下村塾記』に書かれた、
「なぜ松下村塾をいとなむのか」
ということは、突きつめていえば、
「松下村塾を、日本変革さらに世界改革の発火点とする」
ということだ。
「その日本改革者、あるいは世界改革者を世に出す」
ということである。また、物的には、
「自分が松下村塾をいとなむ松下村が、長州藩改革・日本改革・世界改革の拠点になる」
ということだ。現代風にいえば、
「松下村から、長州藩全体、日本全体、そして世界に向かって情報を発信する」
ということだ。単なる情報ではなく、
「国事を憂える人びとの参考になるようなものの考え方」
を告げるということだ。このことは、松陰の頭の中にはそのころの幕藩体制を支えていた、
「藩」
という意識は消えている。藩というには大名家のことだが、もともとは「かこい」あるいは「垣根」の意味がある。江戸時代は、藩と藩との間にはきびしい境が設けられていて、関所があり船番所があって、人の出入りやものの出入りがきびしく規制された。だから藩はそれぞれの行政区域を、
「くに」
と呼んだ。

■ワルの若者3人に対しての態度

<本文から>
 「市之進くん、悪かった。習字を続けたまえ。溝三郎くんと音三郎くんも、市之進くんの習字が終わるまでつき合ってあげたまえ。終わったら、庭へ出て掃除をしてくれたまえ」
そういった。溝三郎と音三郎は思わず顔をみあわせた。市之進だけが、字を書き続けながらにやりとわらった。その笑みには、
「おれが勝った」
という誇りの色があった。しかし、年長の音三郎は違った受け止め方をしていた。松陰の態度にびっくりしたのである。ふつうなら、
「おまえたちは、おれのいうことがきけないのか!」
 と怒鳴って、三人を庭へ引きずり出すだろう。ところが松陰はそんなことはしない。
 「自分のほうが悪かった」
 と謝非したのである。松陰が去った後、音三郎がポツンといった。
「市之進よ」
「なんだ」
「吉田光生は変わってるな」
「そうだとも、でも、おれは先生に勝ったぞ」
「そうかな」
この音三郎のことばに、市之進は習字の手を止めて顔を上げた。
「なんだ、そのいい方は」
「おれには、おまえが勝ったとは思えない」
「どうしてだ。先生は、おれに謝ったじゃないか」
「たしかに謝ったが、しかしよく考えてみれば、謝った先生のほうが勝ちじゃないのかな」
「どうしてだ? 先生が謝ったんだから、弟子のおれのほうがエライんだ」
「そんなことはないよ」
市之進が筆をおいた。音三郎の様子がおかしくなってきたからである。こんな音三郎ははじめてみた。
「音三郎」
「なんだ?」
「おまえもうあの吉田先生にかぶれてしまったのか?」
「そうじゃない。そうじゃないが、おれは吉田先生のいまの態度に、栄太郎兄貴とは違ったものを感じた」

■松陰は最後の最後まで、私というものがなかった。公に殉じた。

<本文から>
 「わたしはいま三十にして実をつけこの世を去る。それが単なる籾殻なのか、あるいは成熟した米粒であるかはわからないが、同志がわたしの志を継いでくれるなら、それはわたしが蒔いた種が絶えずに、穀物が年々実っていくといっていいだろう。そうなれば、わたしも残った者に収穫をもたらしたということで、恥じる気持ちがなくなる。同志よ、このことをよく考えてもらいた
 この一文を読むと、フランスの文学者アンドレ・ジイドの『一粒の麦もし死なずば』という小説を思い出す。ジイドのこの言薬はもちろん型番から取ったものだ。聖書には、
 「一粒の麦もし死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」
と書いてある。松陰がこの型番の言葉を知っていたとは思えない。しかしいっている意味は同じだ。
 「麦が自分一個にこだわって死ななければ、それはただ一粒の麦にすぎない。しかし土の中で死ねば、他の多くの実を生ずる」
 ということである。吉田松陰は死を迎えるに当たって、わずか三十年の生涯を振り返り、
「自分は最期に、一粒の麦として死にたい。そうすれば、志を同じくする者が、たくさんの実を結んでくれるだろう」
 と考えたのである。
 松陰は最後の最後まで、私というものがなかった。公に殉じた。そして公に殉ずる誠意さえ尽くせば、かならず周囲の者の理解が得られると考えていた。それは自分に反対する者、対立する者でさえもいつかは、
 「そうだったのか」
と、矛を折り、協力ヘの道をいっしょに歩いてくれると信じていた。
 この無垢な人間信抑、あるいは公欲追求の念は、比熱ないほど美しい。だからこそ吉田松陰の魂が、いまだにわれわれの汚れた心を洗い続けてくれるのだ。

■松陰の死に久坂と高杉が志を継ぐ、晋作への師の慈愛あふれる言葉

<本文から>
  安政六年十月二十七日の朝、吉田松陰は評定所へ呼び出された。覚悟していた通り、死罪が宣告された。松陰は、
 「慎んでお受けいたします」
と静かに頭を下げた。そして評定所のくぐり戸を出るときあたりから、朗々と詩を吟じはじめたという。その声をきいた人びとは、
 「じつに落着いていて、われわれの胸に響いた」
と述懐している。首を斬られる瞬間も、すこしも慌てなかった。処刑者は″首斬り浅右衛門”と呼ばれた人物だったが、このときの光景を、
「静かに自分を振り向き、お願いしますと丁重な言葉を掛けた。その姿には、じつに胸打たれるものがあった・・・」
 と話している。吉田松陰は従容として死んでいった。師の死を最も正確に受け止めたのが、久坂玄瑞である。玄瑞は松陰の遺言を、
「ぼくの死を悲しまないでもらいたい。ぼくの死を悲しむよりは、ぼくの志を知ってほしい。ぼくの志を知るよりも、ぼくの志を継いでほしい。ほくの志を継いで、しかも大いにぼくの志を大きく伸ばしてもらいたい」
というように受け止めた。そこで玄瑞はただ悲しみに浸って師を忍ぶということはしなかった。かれは積極的に、残った門人たちに呼び掛けた。
「先生の非命を悲しむことは意味がない。先生の志を落とさぬことが大事です」
 こう告げる玄瑞は、門人別に松陰が残していった注意事項を今度は自分が代わって告げはじめる。そうなると他の門人たちからも、久坂玄瑞に対する期待が高まった。入江杉蔵などは、
「先生はすでに去ってしまわれました。これからはあなただけが頼りです。あなたに望むところ大です」
 杉蔵にすれば、吉田松陰がこの世を去った後は、久坂玄瑞こそ吉田松陰に代わる帥だという思い込みがあった。
 こういう杉蔵に対し、久坂玄瑞は、いまの杉蔵がなにを勉強すべきかを、書物別に親切に告げる。事実上松下村塾の残された門人のリーダーとなった玄瑞は、高杉晋作に対しても忠告する。
「きみのいうことは非常に勇ましいが、もっと経済の勉強をすべきではないか。経済の勉強をすることが、国政変革に大いに役立つと思う」
 などということもいっている。こういうやりとりをおこなう久坂玄瑞の胸の中には、いいようのない憤りと悲しみがあった。玄瑞は、師の刑死に対する怒りや悲しみを、残った門人たちを励ますことによって一所懸命抑え込んでいたのである。久坂玄瑞と高杉晋作は、松下村塾における双璧と呼ばれた。かつて吉田松陰は高杉晋作にこういうことをいった。
「昔ぼくは、きみたちの同志の中では玄瑞の才能を第一とみていた。その後きみがきて同志になった。しかしきみは識見はあるが学問が十分にすすんでいない。ただ自由奔放にものを考え行動する傾向があった。そこでほくは玄瑞の才と学を推奨して、きみを抑えるようにした。きみははなはだ不満のようだったが、しかし持ち前の負けじ魂で人いに学業をすすめ、議論も優れるようになった。塾生もみんな認めた。一方の玄瑞もそのころから自分は晋作の識見には到底及ばないといって、晋作に兄事するようになった。しかし晋作も率直に自分の才は到底玄瑞に及ばないといっていた。ふたりはお互いに学び合った。ほくはこのふたりの関係をみていて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識も気から発したものだ。ふたりがお互いに得るようになればぼくはもうなにも心配することはないといった。今後晋作の識見をもって玄瑞の才をおこなっていくことが望ましい。そうなれば何事でもできないことはないだろう。晋作よ、世の中に才のある人は多い。しかし玄瑞の才だけはどんなことがあっても捨ててはならない」
 こんな心のこもった言葉を師からもらう弟子がいただろうか。久坂玄瑞と高杉晋作は、手を取り合って師松陰の志を大いに発展させるべく、いよいよ決意を固くするのであった。

■高杉は師の遺体をもって将軍専用の橋を渡った。師の敵を討つ決意をしていた。

<本文から>
  吉田松陰は安政六年(一八五九)十月二十七日、死罪の宣告をされ、伝馬町の牢獄内で首を落とされる。遺骸は、そのころ処刑された国事犯が埋められる小塚原に埋められた。国事犯なので遺体引き取りや墓を立てることは許されなかった。
 そこで文久三年(一八六三)一月五日になって、京都朝廷から、
「いままでの国事犯を全部許す」
 という大赦令が出たのをきっかけに、高杉晋作は、久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)たちといっしょに、小塚原の刑場に行く。そして白骨と化した師の適体を掘り起こし、若林村(東京都世田谷区若林町)の毛利家の飛地に改葬する。これが現在の松陰神社である。
 このとき、小塚原から師の遺体を桶に入れて上野山下辺を適った。ここには三枚橋(三橋)といわれる三つの橋があって、真ん中の橋は通行禁止になっている。将軍が上野の寛永寺にお参りするときだけに通れる御成道だ。ところが高杉はこのとき、桶をかついだ伊藤俊輔たちに、
「真ん中の橋を通れ」
と命じた。監視の役人がバラバラ駆けつけてきた。
「貴様たち、一体どういうつもりだ?」
と怒った。 そして、
「真ん中の橋を通ってはならない。左右の橋を通れ」
と命じた。ところが高杉は猛然といい返した。
「恐れ多くも天例のご命令によって、このたび大赦を受けた師吉田松陰の遺体を捧げて若林村に赴くところだ。幕府の役人がなにをいうか! 貴様たちは天朝の命に背く気か!」
 と怒鳴りつけた。そのすさまじい勢いに幕府役人たちはあっけにとられ、口をあいたまま堂々と通りすぎてゆく高杉一行の姿を見送ったという。それほど高杉晋作の師の死に対する怒りはすさまじかった。このときかれはすでに、
(師の敵を討つ。かならず徳川幕府を倒してやる!)
 と心に決めていた。

■幕末政治運動にかかわった松下村塾門下生

<本文から>
  久坂玄瑞 蛤御門の変で自刃
 高杉晋作 奇兵隊総督、病没
 吉田稔麿 池田屋事件で重傷、自刃
 入江九一 騎兵隊参謀、蛤御門の変で戦死
 寺島忠三郎 奇兵隊参謀、蛤御門の変で重傷、自刃
 有吉熊次郎 八幡隊隊長、蛤御門の変で重傷、自刃
 松浦松洞 尊攘運動に従事、自刃
 赤根武人 奇兵三代総督、処刑
 阿座上正蔵 蛤御門の変で重傷、自刃
 駒井政五郎 御楯隊小隊司令、北海道で戦死
 時山直八 奇兵隊参謀、北越戦争で戦死
 大谷茂樹 回天軍総督、俗論派に処刑される
 馬島甫仙 奇兵隊初期、自殺
 高須滝之允 四境戦争に従軍、事故死
 高橋貫之進 遊撃隊参謀、病死
 飯田正伯 国事に従う、獄死
 前原一誠 干城隊副総督、萩の乱で刑死
 弘 忠貞 八幡隊書記、蛤御門の変で重傷、自刃
 杉山松介 国事に従事、池田屋事件で重傷、自刃
 玉木彦介 絵堂の戦で戦死
 正木退蔵 干城隊隊士、外交官
 増野徳氏 久坂らと国事に奔走(維新後は医業)
 佐々木亀之助 上関義勇隊・南園隊総督、四境戦争に従軍
 岡部繁之助 干城隊頭取助役、四境戦争に従軍、工部省出仕
 岡部富太郎 攘夷戦、四境戊辰戦争に従軍
 小野為八 鴻城隊司令、山口県出仕
 岡 彦太郎 報国団創設、内閣書記官
 山根孝伸 四境戦争に従軍、医師
 山県有朋 奇兵隊軍艦、内閣総理大臣
 伊藤博文 討幕運動に従事、内閣総理大臣
 品川弥二郎 御楯隊隊長、内務大臣
 野村和作 鴻城隊隊長、内務大臣
 冷泉雅二郎 御楯隊小隊長、判事
 馬島春海 奇兵隊書記、教師
 尾寺新之允 奇兵隊士、伊勢大神宮大宮司
 松本   御楯隊士、元老院議官
 天野清三郎 奇兵隊士、工部省出仕
 福原又四郎 干城隊参謀、山口県出仕
 岡 仙吉 奇兵隊士
 河北義次郎 御楯隊軍艦、外交官
 滝 弥太郎 騎兵隊二代総督、佐波郡長
 山田顕義 整武隊総督、司法大臣

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