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<本文から> こういう多彩な門人たちを指導する松陰の教育方法は、じつにユニークなものがあった。以下に、その目立つ方法を掲げてみる。
・松陰は、門人に対して「あなた方とわたしの関係は、師弟ではない。学友だ。わたしもあなた方とともに学ぶ立場に立つ」
と告げた。
したがって、松陰は門人に対することばづかいは常に「あなた」と呼んだ。そして、自分のことは「ぼく」といった。このぼくは、「学僕」すなわち「学問のしもべ」の意味だろう。
・講義をおこなうときに、かれは見台(教科書をのせる木製の台)を使わなかった。
・また、ふつうの塾で師が座る場所を、特定しなかった。かれは教科書を手にしたまま、そのときの状況によって、弟子と弟子との間に入り込んで、一緒に勉強した。したがって、はじめて訪ねてきた人は、どこに師がいるのかわからず、弟子と弟子との間にはさまっている松陰を、弟子のひとりだろうと推測した。
・かれは門人の出身、年齢、学力の程度はいっさい考えなかった。すべて平等に扱った。
・使うテキストも、松陰のほうから「これを使いなさい」と指定しなかった。門人のほうが「この本について教えてください」という自主性を重んじた。だから、吉田栄太郎のように「この本をテキストにしなさい」と松陰にすすめられても、「いやです」と断って、自分で「この本について教えてください」と選んだ。しかし、吉田栄太郎が選んだテキストは、『日本外史』『武教全集』『長門櫃』『農業全集』『周南文集』(略)などであった。相当多方面にわたっている。
・授業時間に、いわゆる時間割を組まなかった。いつでも、弟子の都合に合わせて講義をおこなった。したがって、訪ねてくる弟子に合わせて授業時間を設けるから、朝早くはじめたり、あるいは深夜におよぶこともある。ときには、徹夜でおこなうこともあった。足軽の息子伊藤利助(博文)などは、日中は勤務でぜんぜん暇が取れないので、夜にわずかな時間をみつけてやってきた。高杉晋作は、萩の城下町に住んでいたので、家が遠い。また親たちが、
「吉田松陰は危険な思想家だから、あんな塾へ行ってはならない」
と松下村塾へ通うことを厳禁していたので、深夜かれは家を抜け出して通ってきた。
・教育内容では、現実にに起こっている社会例題を常に討議の対象にした。そのため松陰は自分の情報メモ帖をつくりこれに「飛耳長目録(帳)」と名づけていた。いまのことばを使えば「いつも耳をピンと立て目を横に大きく開いて現実をみつめよう」ということだろう。これを塾の中に似いておいて、弟子たちが勝手に利用することをすすめた。同時に、いろいろなテキストを使っていてもそのときそのときに起こった社会問題を掲げ、「なぜ、こういう問題が起こってくるのか、政治とはかかわりがないのか、それは政治がいいから起こつたのか、悪いから起こったのか」というような考究方式で、討論を活発化した。
・王陽明の学説を学んだことがある。このとき、松陰は王陽明が「自然との対話」を重くみていることを知った。そこでかれも、弟子たちとともに塾を出て、土を耕し野菜を植えたりした。また、近くの山々を歩きまわっては、身体を鍛えることにも努力した。
・門人の学習成果の評価に、かれは三つの等を設けた。上等・中等・下等とし、上等は 「進徳・専心」とし、中等は「励精・修業」とし、下等は「怠惰・放縦」とした。
・松下村塾は私塾だったが、かれはこの塾における教育成果の公共性を主張し、藩役所に対しても「藩外留学費の支給」などを求めている。藩外留学費の支給を求めるということは、とりもなおさず「多くの若者を、どんどん藩外に出して、見聞を広めさせてやって欲しい」ということだ。 |
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