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<本文から> 「松陰は、人を悪導した場合には、その反応を、自分のこととしてすべて逃げずに受け止めていこう」
という態度があったことをしみじみと感じた。そして、
「それこそが、吉田松陰のすぐれた指導者としての本領ではなかったのだろうか」
と思いはじめている。これもまたわたしにおける、
「吉田松陰の再発見」
である。
たとえ他人を悪導したという事実が自分ではわかっていても、
「忘れ去りたい」
と思ったのは、一種の思い上がりだ。思い上がりだというのは、人を悪導した側が、その結果とは別に、
「自分が教えたことは決してまちがっていない。相手が取りちがえて理解したのだ。したがって相手が悪い」
というふうに決めつけることが根拠になる。これが思い上がりでなくてなんであろうか。
吉田松陰はそんなことは絶対に考えなかった。
「相手が、取りちがえたり誤解したりして、自分のいったことをまったく見当ちがいな受け止めかたをしたのは、やはり発信したこっち側が悪いのだ」
と考える。
電波の話になぞらえれば、放送局から発信された電波が、途中で天候異変などにあって周波数がぶれたりしたときに、
「自分が発した電波が、あきらかにまちがった周波数に変わってしまった」
と反省するようなものだ。そしてその電波が、
「しかし、受け入れてくれる受信機のほうにサーモスクットが装置されているから、そこに行って正しい周波数に変わればよい」
とは考えない。吉田松陰は、自分がまちがっていると悟った瞬間に、
「なんとかして、相手に届く前に自分の力で正しい周波数に直したい」
と考えるのである。この、
「純粋な良心」
は、松陰の生得のものであり、天が与えたものだ。
あくまでも自分を試め続ける松陰の純粋な態度に、人びとは胸を打たれる。どんな悪い根性をもった人間もかならずそうなる。松陰という人物に接触しただけで、こつち側の魂が洗われてしまう。
おそらく、萩の野山獄山における囚人たちもそうであったにちがいない。 |
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