童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
横井小楠と由利公正の新民富論 明治国家のグランドデザインを描いた二人の英傑

■藩政治の前に日本、そして世界の政治を考えべき

<本文から>
「越前藩の政治はどうあるべきでしょうか?」
「それは単に越前藩のことだけを考えても回答は出ない。まず日本全国を統治するにはどうしたらいいかという発想から、越前藩のことを考えるべきだ。
 日本全国をどう統治すればいいかということは、今度は世界万国の統治はどうあらねばならないか、という考え方に行き着かなければならない。
 逆に言えば、世界万国の政治を考えることによって、日本全国の政治を考えることができる。そしてこの流れの一環として、越前藩の政治はどうあらねばならないかと考えるべきだ」
「越前藩の家臣としての私は、まずどのような考えに立つべきでしょうか?」
「およそ国を治めるというのは、すなわち民を治めることだ。武士は民を治めるための道具にすぎない。その道具である武士は、演が武士と共に仁と徳の道を守るような方向付けを与えることが必要である。
 しかし、これは意外と難しい。というのは、聖人(孔子のこと)も″衣食足りて礼節を知る″といわれている。衣食が不足していては、礼を守ることもできない。ということは、政治の道具である武士が、民を富ませ、その衣食を足らせるような方策を講じなければ、民に『仁と徳を守れ』というようなことを求めても、これは単なる精神教育や押し付けに終わってしまう。
 従って、民が仁と徳をわきまえるためには、まずその衣食を十分に足らせることが必要だ。
武士は、そういう方途を講ずるべきだ」
 小楠の回答は普通の武士とは違っている。当時もまだ、「士農工商」の身分制が明らかだった。
 士農工商というのは、儒教から来た考え方で、
◆武士は、政治や行政を行う存在
◆農民は、日本国民の食料その他の生産に従事する存在
◆工、すなわち技術者は、農民が使う工具や、国民の生活用具を生産する存在
◆商人は、自らは何も生産せずに、他人の生産したものをただ動かすだけで利益を得る存在
 というように考えられた。従って、この考え方では、「自ら何も生産しない商人は、社会の最劣位に置くべきである」と一番下に位置付けられてしまったのである。
 しかし、小楠はそうは考えない。彼は心の中で恐らく、「士農工商というのは、身分制ではなく職業の区分だ」と考えてた。

■人間行動のすべては、公の精神で行わなければならない

<本文から>
  それは小楠に一つの主張があったからだ。主張というのは、「人間行動のすべては、公の精神で行わなければならない。少しでも私の精神を入れたら、その行動はすべて正しくなくなる」というものだ。
 公正はこの、「公と私による区分」を、金科玉条にしていた。つまり、「自分の行動のモノサシ」にしていた。だから何かやろうと思ったときはすぐ、「この行動は公か私か」と自分に開く。胸の奥底かち、「公だ」という答えが返って来たときは、自信を持ってその考えを実行に移す。しかし、胸の中の声が、「それは私だ」というものであったら、公正は考え込む。
 そして、「この行動を公のものにするにはどうしたらいいか」と、行動そのものの動機を修正する。胸の中の声が、「エライ。そのように修正すれば、それは公だ」と言ってくれれば、ニッコリ笑って行動する。
 従って、小楠の教えた、「動機が公であるか、私であるかだ」ということは、彼自身が深くかかわり合っている藩政にも適用できた。そして今度の旅で小楠は、長州藩の産業政策を親しく見学させてもらった。小楠は、「身内(実弟)の葬儀があるので、君と別れて熊本に帰る」と言って、別行動を取った。

■由利の五箇条の誓文は小楠の公私の考えが成文化

<本文から>
  由利公正は、この小楠の思想に徹底的な影響を受けた。彼は後に初代の東京府知事になるが、彼の頭の中にあったのは、常に小楠の、「公と私」という考え方であり、「公とは、すなわち民を幸福にする政治のことをいう」という考え方である。
 明治新政府は樹立と同時に有名な、「五箇条の誓文」を発布する。よく知られているが、
 内容を掲げ直す。
一、広ク会議ヲ輿シ万機公論二決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛二経給ヲ行フベシ
一、官武一途庶民−壷ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ随習ヲ破り天地ノ公道二基クベシ
一、智識ヲ世界二求メ大二皇基ヲ振起スベシ
 この原文は公正が書いた。公正の原文は次のようなものだ。
一、庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す
一、土民心を一にし、盛に経倫を行うを要す
一、知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし
一、真土期限を以て賢才に譲るべし
一、万機公論に決し、私に論ずるなかれ
 前に書いた五箇条の筈文の中にも、あるいは公正が考えた原案の中にも「公」と「私」という言葉が出でくる。前者では「天地の公道」という表現によって、小楠の主張していた、「公」がはっきり位置付けられている。公正の原案にも、「公論」と「私」という言葉が最後の条項に入っている。これは明らかに公正が、小楠の思想を成文化したものだ。

■高い理想の実現のためには経済力を大いに養わなければならない

<本文から>
  従って小楠が公正に教えたのは、「どんなに高い理想を掲げようと、その実現のためには経済力を大いに養わなければならない」ということだ。しかしその経済力を養うというのは、単に金を儲ければいいということではない。
 何のために儲けるかといえば、「民を幸福にするためだ」ということである。公正は、徹底的にこの考えを押し貫いた。だからこそ、彼が四方八方駆けずり回って資金を調達し、越前商会をつくつて交易を始めた後に、その波及効果が老婆のお礼の言葉によって示されたのである。つまり老婆を悲しませていたならず者の息子が、社会全体の生活環境の向上によって、いつの間にかバタチをやめてしまったということだ。真面目に働くようになつたのは、何といっても社会環境の改善による。
 公正が行った経済政策はそういう効果を生んでいた。だからこそ公正はうれしかったのだ。つまり、「小楠先生の教えがそのまま越前で実行できた」という誇りが持てたからだ。
 こうして公正は、経済政策の成功によって奉行に昇進した。彼が、経済政策から一歩政治活動へ踏み込むきっかけになる。

■由利は東京府知事として小楠の教えを実践

<本文から>
  明治二(一入六九)年には大阪府知事御用取扱になり、明治三年には三岡を由利に改めた。そして明治四年
七月には東京府知事を拝命した。民政に深い関心を持つ彼は、東京府政において次のようなことを実行した。
 ●役人の入れ替え
 ●代書人の創設
 ●巡査の創設
 ●町会所の創設
 などである。当時の東京は、百万人の人口を抱える世界最大の都市である。しかし公正には、些別藩福井において民政の経験が豊富だった。いってみれば、「地方自治体での経験を生かして、国政に応用する」ということだ。考えてみれば、明治政府の高官たちもすべて藩の下級武士だった。そしてこもごも、厳しい財政事情や民政の大切さを経験してきている。だからこそ、明治政府という国政を行うような場で高官になっても、十分に間に合ったのである。公正の政治信条は、「王道の実現」だ。小楠から徹底的にたたき込まれた信念である。しかし彼の王道は、単なる観念論ではなかった。「経済」に深く結び付いていた。
 小楠は、「経済というのは、経世済民のことだ。すなわち、乱れた世を整わせ、苦しんでいる民を救うことだ」と告げた。経済というとすぐ金勘定だと思いがちな人々に村し、「経済というのは経世済民の略語であって、そろばん勘定の背後には、王道政治がなければダメだ」と主張していた。公正はこの教えを守った。その実験を新しく首都になった東京府政において実行したのである。

■坂本の小楠評、幕臣も長州の高杉や桂まで影響を受ける

<本文から>
  坂本能馬が、熊本郊外の沼山津にひきこもった小楠を訪ねたことがある。
 しきりに酒を汲みかわした後、同時代に生きる人物たちの評論が始まった。
 「西郷はどうだ」
 「大久保はどうだ」
 という具合にである。酔っぱらった小楠は、「俺はどうだ?」
 と開いた。
 坂本はニヤリと笑うと、「先生は、まあ、二階にいらっしやつて、きれいな女どもに酌でもさして、酒をあがりながら、西郷や大久保たちのやる芝居を見物なさるほうがいいです。大久保たちが行き詰まったら、そこでちょいと指図してやってくださるとありがたいですな」という意味のことを言ったという。
 いい意味でも悪い意味でも、坂本は小楠という人間をよく見ている。
 「二階から指図してほしい」というのは、普通にいう、「二階にあげてハシゴをはずす」という敬遠の意味ではあるまい。大所高所から時勢を展望する人間が必要だし、その意図を抱いて歩きまわる人間が必要だし(坂本のような)、対極からその意図に呼応するような人間も必要だし(勝海舟のような)、そして、組織パワーを背景に小楠の意図を実現していく人間たちもいる(西郷・大久保のような)。
 そう考えてみると、維新における小楠の存在意義は大変なものなのだなと、改めて思う。
  勝がこう言った。
 「おれは、今まで天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井と西郷だ」
  そしてさらに、
 「もし、横井の言を用いる人が世にあったら、それこそ由々しい大事」と言っている。
 小楠の孫弟子である坂本は、人から、「お前は乱臣賎子になる可能性がある」といわれている。小楠の影響を受けた人間は、みんな、″乱臣賊子”に見えたらしい。
 幕臣の良識派大久保忠寛ももちろん小楠の共鳴者だつたし、最後の将軍徳川慶喜の「大政奉還」の草案を書いた永井主水正もそうである。
 幕臣側だけではない。二見、小楠とは全く対時するような長州藩の高杉晋作や桂小五郎までそうである。
 高杉は小楠から、「割拠(徳川政府からの独立・自治)」の思想を学び、小楠を長州に招こうとさえした。これは実現しなかったが、割拠のほうは実行した。
 桂は、藩過激派が全軍あげて御所に突入したときも、彼は反対で、対馬や芸州との”藩連合”の実現に走りまわっていた。彼もまた小楠に会い、影響されていた。
■時代よい暗殺が遅れてやってきて殺された
「新政府で、小楠はもう使いものにはならなかったのだと思う。新政府の方向や、日常の行動原則は、小楠の理念からはるかはなれていた。
 にもかかわらず彼は殺された。
 なぜ、殺されたのか?
 坂本龍馬の死にもつながる問題である。妙な言い方だが、「暗殺のほうが遅れてやってきた」のである。つまり、小楠や坂本は、殺されるときに殺されず、殺されなくていいときに殺された。
 そういう″ズレた執念″が、この社会には存在する。確実に存在する。自分は変わっても他人は変わらない。いや、変わらない他人がいるのである。

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