童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          慶喜を動かした男小説知の巨人・横井小楠

■有道の国と無道の国

<本文から>
・日本の内外で、日本は鎖国しているといっているが、そんなことはない。現実に、オランダと中国とだけはずっと国交貿易を続けているではないか。したがって、日本は一部で開国をしているのだ。
・世界には、有道の国と無道の国がある。日本は、有道の国とは積極的に国交貿易を行なうべきである。しかし、軽道の国とは絶対に和を結んではならない。それは目前の利を追求する堕落である。
・有道の国というのは、中国古代の尭・舜・由三代の王道政治を実現している国だ。無道の国というのは、この天地の大義に背いている国のことだ。たとえば、アメリカは、日本側が外交は長崎で行なうからそっちへ行ってほしいといったにもかかわらず、江戸湾に侵入した。そして砲門を向けて洞喝外交を行なった。これはけっして有道の国とはいえない。したがって本来ならこういう国と和を結び、国交貿易を行なうべきではない。    
・無道の国があくまでも天地の大義に反して、国交易を求めたならば、この理を説いて謝罪させるべきである。もし、アメリカが自分の非を悔いて反省し、日本に謝罪したならば、その事実を世界に向かって公表すべきだ。その上で、是側がアメリカが有道の国と認めるならば、進んで国交貿易を行なうべきである。
・この度、新しく開国を求めてきたロシアが、有道の国であるか無道の国であるか、私ははっきり知らない。しかし、アメリカとゴタゴタを起こしている今、たとえロシアが有道の国であっても、すぐ和を結ぶべきではない。それは国際的に見れば、日本はアメリカと村抗するためにロシアの力を借りるのだと思われてしまうからだ。しばら く控えたほうがいいだろう。
・だいたい、外夷に対するには、大きく分けて四つの方法がある。
一 日本は長年太平を続けて来たので、安易な生活に慣れている。相手が強いのではともかなわないと考えてすぐ和を結んでしまおうとする方法。これが最も下等な方法だ。
二 鎖国の掟に拘って、あくまでも外国を拒絶し、戦争をしようとするのは次の下等策だ。これは天地自然の道理に反するから、戦えば必ず敗れる。
三 夷秋の無礼を答めて戦争をしたいのだが、二百五十年の太平で士気が衰え、とてもかなわない。そこで仮に和を結んで、その間に時間稼ぎをして国力を養い、軍備を整えて改めて戦争をしようという考えがある。これはいかにも実情にかなったように思えるけれども、実際には天地の大義に反している。また実際にそんなことが行なえるかどうかも疑問だ。いったん政府が外国と和を結んでしまえば、日本人はもうそれでいいといって、国力
増進にも手を抜くことになるだろう。
 こういう三案に対して、では本当に正しい外国との応接法はないのか。それが四番日の方法である。
四 現在は戦争は必ず起こるという考えのもとに、幕府諸藩とも人材を登用することが喫緊事だ。人材が登用されれば、たちまち政治は改まり、天下の人心も大義に目覚めて士気は一新される。怠惰に溺れていた弱兵も、短い間に強兵に変わるはずだ。戦争の勝敗は、武器の優劣だけで決まるものではない。正義を担っているかどうか、士気が盛んかどうか、これが何よりの決め手になる。士気が高まっていれば、武器も自ずから整う。

■国是三論−富国・強兵・士道

<本文から>
 藩主茂昭に提出して。この大綱は、「国是三論」と銘打たれ、三つの柱から成り立っていた。
・富国
・強兵
・士道
 である。それぞれ平四郎の考えが述べてあった。
・富国論−藩庁は士民が遊手徒食することのないように心掛け、生産を奨励して、何よりもかれらを富ませることが急務だ。そして、効果があがって藩庁の財政が豊かになった時は、その富を私することなく、系閥を省き、税率を安くし、人の道を教えることが大切だ。そうなれば、天徳にのっとり、聖教により、万国の情況を察し、利用更生大いに経給の道を開いて政教を一新し、富国強兵ひとえに外国の侮りを防ぐのが目的である。
・強兵論−航海が開け、四海皆隣国となった今は、世界を相手に戦争することがあることを覚悟しなければならない。そうなるともう海軍以外に強兵の術はない。もし幕府が海軍をつくるのなら、欧米諸国といえども恐れるに足りない。しかしまだ現在の幕府にはそれだけの明がない。そこで来るべき日にそなえて、越前藩では青少年を訓練することが必要だ。それには丁度越前藩は日本海に面しているのだから、ここから船を出して他国に往来して実地に外国の事情を見聞させることが大事である。あるいは、嵐逆巻く怒涛の海で、一つ船に来った乗組員たちが心を合わせて艱難と戦い、互いに助け合い励まし合うような訓練を続ければ、やがて荒海でも平地で暮らすのと同じようになるだろう。そして、幕府が海軍をつくつた時は、越前藩が真っ先にお役に立つに違いない。
・士道論−文武の道というように、もともと、文と武は武士の職分だった。ところが、現在は文と武がばらばらになってしまったために、共に技術論になってしまっている。だから文のほうは文芸といい、武の方は武術という。さらに、学者は武を卑しんで、武は荒削りで粗暴で使い物にならないという。逆に武人の方も学者を冷笑して、学者は高慢でしかも柔弱だ、どんなご用にも立てないと嘲笑っている。お互いに自己陶酔の偏見にとらわれている。これは、双方とも文武本来の精神を見忘れていると言わざるをえない。文武の修行は、古くは心に起こつて術に試みるというのが正しい。ところが現在では術にすがって心を収めようとしている。本末転倒だ。こんなことをやっていたのでは、治教に益がないことは言うまでもない。治教はあくまでも尭・舜・鈎の三代の徳を目標としなければならない。人君は、慈愛、恭倹、公明正大の心を持ち、倫理によって至誠で家臣を率い、人民を治めなければならない。執政大夫は、この人君の精神を体して、敷難に耐え、誠心誠意身をもって衆に先立ち、人君の精神を実行しなければならない。小役人もまた、人君の意を受けて忠誠を捧げ、減しほうこう
私奉公して下を治める。これが本当の文、そして武の治教である0そうなれば、こういう環境から人材が次々と出てくるはずだ。

■参勤交代廃止

<本文から>
 話をすると大久保は参勤交代廃止には真っ向から反対した。
「参勤交代は徳川幕府の祖法であって、大名統制管理の上で欠くことができない。これを廃止すれば徳川幕府は瓦解してしまう」
「それは徳川家の私の心でございます。おそれいりますが、公の心になってもう一度お考え直しください」
 平四郎は自説を繰り返した。くどくは言わない。こつちの言いたいことだけを言い募ると、感情的に相手は反撥する。大久保のほうは、はじめから大名の参勤交代は廃止できないと決めてかかっているからだ。そういう時にこつちが萬にかかって言い募ると、相手はいよいよ反対の気持ちを固くする。それよりも言葉を少なくして相手に考える余裕を与えたほうが得策だ。平四郎はそういう作戦をとった。大久保忠寛は、松平慶永が話のわかる男だと言ったわりには話がわからない。頑固一徹で、
「絶対に大名の参勤交代は廃止するわけにはいかない」
 と頑張る。平四郎は作戦を変えた。こんなことを開いた。
「では伺います。大久保様のおっしゃるように、幕府方が大名やその妻子を国に帰すまいとしても、いまの幕府にそれを引き止めるだけの力がおありですか?」
「なに」
わ大久保は目をグイと上げた。平四郎の言い方が無礼だったからだ。まるで幕府の実力を推し量るような言い方だ。しかし平四郎はじっと澄んだ目で大久保を見返していた。その日の底に真蟄な光があった。こういう局面ではもう「何を言っているか」という内容論ではなくなってくる。「相手が誰か」ということ、「誰が言っているのか」ということになる。つまり、言っている中味よりも言っている人間のほうが問題になるのだ。つまり、
言っている相手が信じられるか信じられないかが、勝負どころになる。この時の大久保は横井平四郎を信じた。

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