|
<本文から> 蓮月は世間から、"屋越しの蓮月さん"と呼ばれていた。屋越しというのは引越のことだ。蓮月は始終引越をしていた。蓮月の住居に対する好みは家の大きさは問題ではない。しかし、戸や障子や細かいところに神経が鋭く、全体の調和を乱すような欠陥部分があると、すぐ、
「ここはいやです」
といった。
彼女は、伊賀上野藤堂藩の城代家老藤堂新七郎という人物が父親で、母親は三本木の職業女性だったという。これから蓮月焼を届けにいく幾松と同じ場所で同じ商売をしていた。
しかし藤堂新七郎も世間をはばかり、知恩院の寺侍だった大田垣伴左衛門光古に貰ってもらった。幼名を誠と名付けられた謂は、大田垣光古を父親と信じて育った。八歳の時に丹波亀山城に行儀見習に出た。知恩院の譜代という役になった養父の光古は、誠が十四歳になった時に、岡(田結荘)天造という著者を養子にし、これを元服させて望古と名乗らせた。そして、亀山城にいた誠に、
「戻ってきて、望古を婿とするように」
と命じた。もともと他人の香芝よって自分の生が成り立つとあきらめていた誠だ。養父のいいなりになった。文化四年(一八〇七)、十七歳の時に亀山城から戻った誠は望古と結婚した。翌年長男が生まれたがすぐ死んだ。文化七年に長女が生まれたが、これも二年後に死んだ。不幸のはじまりである。
やがて文化十二年にまた男の子を生んだが、なぜかこの子を自分の所で育てずに、大坂で医業をいとなんでいた夫の兄田結荘天民に預けた。天民は誠の生んだ子を自分の子として育てた。その直後、次女が死んだ。
そして夫の望古も、この年八月二十六日に死んでしまった。なぜか望古は誠の家でなく大坂の兄の家で死んでいる。
誠にとって、望古との夫婦生活はまったくついていなかった。
文政と年号が変ってからの二年に二十九歳になった誠は、改めて婿を迎えた。今度は彦根藩家中の石川という武士の三男で、重二郎という男だった。養父は重二郎の名を古肥と改めさせ、知思院の寺侍にした。しかし誠が三十歳になった文政三年(一八二〇)に、この新しい婿も死んでしまった。
誠はもう男との縁をあきらめ、
「出家します」
と養父に告げた。養父もそれ以上誠に不幸を強いるわけにはいかないので、
「ではわたしも出家しよう」
といって、知恩院の大僧正によって剃髪式を受け、揃って出家した。文政六年六月二十八日のことである。誠の法名は蓮月、そして養父の光古は西心といった。しかし西心はそのまま知恩院の山内にある真葛庵の住職となり、大田垣家の家督は彦根藩士の風見太三郎に譲った。太三郎は古敦と名乗り、養父が務めてきた知恩院の譜代の職を引き継いだ。
やがて天保三年(一八三二)八月十五日に養父の光古が死んだ。七十八歳だった。これを機に蓮月は真葛庵を出た。長い知恩院生活だったが未練はない。岡崎村に移って歌の指導をはじめたが、ドッと弟子がきた。それは四十二歳になっても蓮月の美貌がまだ衰えず、非常に美しい女性だったので、男たちのほとんどが、
「わたしの妻になってくれ」
あるいは、
「一晩どうだろう?」
と誘うような露骨な欲望を持っていたためである。蓮月は腹を立てた。あまりうるさいので、終いには釘で自分の歯を欠き血だらけの表情で、
「これでも通っておいでか?」
と、まるで般若のような表情で男たちを睨みつけた。男たちは閉口して逃げ去った。そして、その後はあまり訪ねてこなくなった。蓮月の引越はそういう事情もあった。
彼女は引越すたびに、松平という大工に造作を直させた。松平の妻が憶えているだけでも、
「蓬月さまは少くとも三十四回は引越をなさいました。もっとたくさんだったと思いますが、わたしが憶えている回数だけでもそれほどあります」
と後年語ったという。
蓮月にとって引越はそのまま心の遍歴でもあった。積み重なった不幸を自分で処理するためには、つねにいたたまれない思いが突き上げていたのだ。 |
|