童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          山田方谷 河井継之助が学んだ藩政改革の師

■財政再建の手法の理想

<本文から>
 山田方谷の門人のなかで、もっとも名の高いのが三島中洲という人物だが、この三島中洲が、方谷の一連の改革論や、その方法についてこんなことをいっている。
 「方谷先生は時に応じ機に臨んで、変通自在で滞るところがなかった。したがって、常規でははかることのできない面があった。さらに藩務や幕政についての計画は、慎重で外部に漏らすことがなかった。そこでたとえてみれば先生は、雲のなかの龍が自在に出没するようなもので普通人には捉えがたい。しかし至誠側他の四文字をもってその晴を点ずるならば、先生の精神がよく理解できるはずだ」
一般人からみれば、山田方谷のやり方は、
「たかが財政再建のために、なんであんなむずかしい理屈をこねるのだ?」
 と顰蹙を買っていたに違いない。しかし方谷は頑固だった。かれの理財論では、財政再建の手法についても、つぎのような理想が含まれている。
 ●財産を有利に運用しょうとする方策は、今日ほど赦密になったことはない。ところが反対に、今日ほどこの国が金に困り、貧しい状況に置かれている時もない。
 ●理財の密なることは、第一に税目が非常に多いことだ。とにかく税の取れる対象にはなんにでもかけて、徹底的にしぼり取っている。
 ●そして一方、役人の俸禄やその他の支出は徹底的に減らそうとしている。
 ●にもかかわらず、そういうことを数十年やってもこの国はますます貧乏になるばかりだ。蔵のなかは空っぽで、借金は山のようにある。
 こういう状況に意識を立てたうえで、かれはつぎに、
「では、なぜこういうことになったのだろうか」
 とその原因をつぎのように告げる。
 ●天下のこと(政治や行政)は、事の外に立つことが大事で、事の内に屈してはならない。つまり、そうしなければ大局的な立場に立って全貌を見わたすことができない。
 ●理財も同じだ。財の外に立って全貌を見わたすことが大切だ。ところがいまの藩の理財方法は財の内に屈して、振りまわされている。これでは、全体を見きわめ効果的な対策を立てることができない。
 そして、「財の外に立つ」ということをこう告げた。
 ●政治の姿勢を正し、人の心を引き締め文教を興し武備をはり、治国の大方針を確立することが先決だ。
 ●財源がないからといってこの治国の大方針を顧みなければ、結局は理財の道もふさがってしまう。
 ●そこで英明な主君と賢明な宰相とが、手を携えてこのことを反省し、理財の外に立って道理を明らかにし、人心を正すことが大切だ。現在の藩の財政難の大きな原因は二つある。ひとつは賄賂が横行していることである。二つめは、藩民の生活が贅沢になっていることである。この二つは、困窮している藩財政に背くことだ。しかしなぜこの二つが横行しているかといえば、いくら努力をしても藩財政が好転しないためだ。
 なぜ藩の財政が好転しないかといえば、やはり理財の外に立って理財を考えるという治国の大方針が欠落しているためである。
 ●この際、道理を明らかにして人心を正し、賄賂を禁じて官吏を清廉潔白にし、人民を労って民政を厚くし、古賢の教えを貴んで文教を興し、士気を奮い起こして武備をはれば、綱紀はととのい政令は明らかになり、治国の大方針は確立できるはずだ。そうすれば理財の道もまたおのずから通じる。英明で達識の人でなければ到底このことはできない。
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■商人への借金を誠意で解決した

<本文から>
 山田方谷は大坂へ出かけた。そして金を借りた商人たちを集め、率直に自分の考えを述べた。商人たちはびっくりして顔をみあわせた。それは、
 「備中松山藩は表高は五万石だが、実収は二万石しかないのだ」
 と方谷がいい放ったからである。こんなことを表沙汰にした大名家はない。つまり、大名家にとって徳川幕府というのは絶対な存在だ。したがってその幕府が不合理にもせよ、検地によって、
 「おまえの家はこれだけの収入がある」
 と定めた以上は、その定めに対して文句をいわず、拳々服暦(大切に守ること)するのが務めだと思ってきたからである。それをこの家老は、
 「幕府の収入査定は誤りで、われわれの査定ではこれしかない」
 といい放ったのである。大坂商人たちは気骨人が多い。山田方谷の率直な態度に感動した。そして、
 (このご家老は勇気がある)
  と思った。そのことが、
 「備中松山藩の借金を、多少先へ延ばしたところでわれわれの家が潰れるわけでもない。認めよう」
 という空気になった。そこで代表が、
 「お話はよくわかりました。率直なお申し出に感動いたしました。どうぞ、お家の再建までわれわれの方は十年賦、あるいは五十年賦で結構でございますから、ご努力ください」
 と眼を輝かせて応じた。方谷は手をついて、
 「かたじけない。ご恩はけっして忘れない」
 と丁寧にお辞儀をした。商人たちは恐縮し、
 「ご家老様、どうぞお手をお上げください。あなたのようにご率直なお話を頂戴できれば、さらにご融資も考えましょう」
 と、みんなで方谷を励ました。これは、方谷がつねに口にしてきた、
 「誠は天の道。それを実行するのが人の道」
 という「誠」を、改革第一段階として自ら実行し、それが成功したということであった。
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■信用を得た藩札は「撫育方」の貸銀所を通して藩内に流通した

<本文から>
 渡された正貨の山を方谷に渡した。方谷は思わず目頭を熱くし、大きくうなずいた。
 「ありがたい。なんといううれしい申し出だろう。たしかに新しく藩札を発行するつもりだったが、おまえたちが信用してくれるかどうかまだ自信がなかった。だからいま古い藩札をこうして焼き払い、おまえたちの信用を得たいというのが私の願いだった。が、一日中ここに座っていたがどうもまだその手応えがはっきりしたものとして掴みきれない。それがおまえたちの申し出によって、けっして古い藩札の今日の焼き捨てが無駄でないことがわかった。ありがとう。早速おまえたちの申し出を尊重して、好意に応えよう」
 方谷は床凡から立ち上がった。一日中立ちこめる煙と炎に、方谷の眼は涙がポロポロ出るようになっていた。が、立ち上がった方谷の眠から出た涙は、けっして煙と炎がもたらしたものではなかった。自分の気持ちを正確に受け止めてくれた、藩民たちの心根がうれしかったのである。
 こうして、備中松山藩が発行する藩札に対する信頼度は一挙に高まった。山田方谷の誠意が危機を克服させたのである。
 このことは他国にも噂となって伝わっていった。
 「備中桧山藩の潜札は、日本国内でいちばん信用できる」
 という評判が確立した。方谷は、
 「これでいい。これからは大いに産業奨励に力を注げる」
 と奮い立った。
 信用を得た藩札は「撫育方」の貸銀所を通して、どんどん藩内に流通した。これが資金として活用され、藩民たちが格段の努力をしてつぎつぎと新しい特産品を生んだ。その大筋はすでに方谷が指示書を出してあった。とくに、北方の山岳地帯における諸産品がつぎつぎと高梁川を高瀬舟で下って、玉島港に積み出された。
 これらの産品を買いあげる時に、藩政府は藩札を使った。しかし、前とは違って新しい藩札は生産者たちに絶対的を信用を得ていたので、生産者は喜んで藩札を受け取った。売却する時は、正貨で取引をする。そのためたちまち藩庫は豊かになった。借金がどんどん返され、また藩士たちの給与のペースダウンも元に戻され、全額が支払われるようになった。藩財政は完全に回復された。
 「備中松山藩に山田方谷あり」
 という噂は全国に広まった。とくに学者として、美しい政治理念を掲げながらその実行に力を尽くした藩政改革の噂は、尾ヒレがついて各地方に伝わっていった。
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■河井継之助が方谷を訪ねて来た

<本文から>
 河井継之助が方谷を訪ねて来たのは、方谷が備中松山藩の藩政改革に成功し、財政を再建させたという話をきいたからだ。したがって、継之助の最初の動機は、
 「山田方谷の経営改革手法」
 を実地に学び取りたいということであった。これに対し、方谷は継之助にこう語っている。
 「わが主人板倉勝静様は桑名の松平家のご出身だ。桑名の松平家は奥州白河で名君といわれ、″楽翁″という号をおもちになった松平定信棟の漁れだ。板倉勝静様は以前定信様の言葉としてきいたことがあるとおっしゃって、こんなお.話をなさった」
 そう前置きしてこう語った。
 ●改革というのは絶対に急いではいけない。最低十五年はかかるだろう。
 ●なぜ十五年かかるかといえば、十五年の間には古い者は死ぬ。そして新しい若者が成長する。この期間が最低に見積もっても十五年かかるということだ。世代交代が行われないかぎり絶対に政治改革などできない。
 ●だから政治改革を志す者は、改革には年月がかかるのだということをしっかり腹のなかに置いて仕事を進めなければならない。
 ●改革の仕事は十本ぐらいの柱を立てるのがよい。そして一本ずつ着実に実現してゆくことだ。改革には根気がいる。血気にはやる者はよく脱藩などして改革を進めようとする。しかしそんなことはダメだ。あくまでも藩に残って自分の志す改革を港内からはじめることだ。
 ●自分は陽明学者だ。しかし陽明学を学んでいるからといって、王陽明その人の言行をすべて是認しているわけではない。王陽明はたしかに王国に仕える有能な家臣だったが、時に血気にはやって失敗もしている。それを他山の石として反面教師にしなければならない。自分の学問の師だからといってなんでも丸ごと受け止めるのは間違いだ。
 こういうことを話した後、方谷は継之助にこういった。
「だからきみが私のもとで勉強するとしても、なにも私のいうことを全部鵜呑みにする必要はない。私から学ぶところがあれば学び、学んでならないことは学ばないほうがいい。そのへんはきみ自身で判断したまえ」
 初っばなからかまされた継之助は感動した。
 (やはりこの先生は噂どおりの人だ)
 と思った。とくに方谷がいった、
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■徳川幕府温存への執念

<本文から>
 方谷の考え方は横井小楠の「共和政治」に真っ向から対立する。横井小楠の考え方は、
 ●長年万年与党だけで成立していた徳川幕府をいったん解体する。
 ●新しい共和システムでは、徳川将軍家もいったん傲篠を朝廷に返上して一大名になる。
 ●そのうえで一大名になつた徳川家も含めて、全国の志ある有能な大名と、その家臣、あるいは一般の有識者等を動員して、挙国一致連合政権をつくり出す。
 ●この連合政権には京都の公家も参加する。
 というようなものである。しかし山田方谷が河井継之助に告げたのは、あくまでも、
 「徳川将軍家と徳川幕府を温存して、その体質改善をはかる」
 ということである。徳川将軍家に政権を返上させて一大名の座に落とすなどという考えはない。これはやはり山田方谷が譜代大名の雄である板倉家の家臣であったことに大きな理由がある。その意味では、あるいは横井小楠のほうが進んだ考え方をしていて、山田方谷のほうに逆に一定の限界があったということもいえる。
 方谷の改革案はつぎのようなものだった。
 ●徳川幕府を解体させたり崩壊させたりはしない。あくまでも将軍と幕府を存続させたまま内部改革を行ってゆく。
 ●その改革の過程で、外様大名を参加させることは別に差し支えない。この案は別に方谷の独創ではなく、ずいぶん前に老中だった阿部正弘も同じことを考えた。
 ●譜代大名と外様大名のせめぎ合いによって、徳川幕府が二百六十余年の間にためてきた垢もこそぎ落とされるだろう。新しい風が吹いてくるに違いない。
 ●しかし改革を継続するためには、一面で世代交代を考える必要がある。十五年も経てば古い保守派も死んでしまうだろう。そして新しい世代が譜代大名側にも外様大名側にも育ってくる。これが結合すればさらに新しいパワーが生まれる。
 ●そういう新しいパワーがどういう政体をつくり出し、どういう政治を行うかは予測がつかない。しかし将来の楽.しみとして大いに期待したい。
 ●そのためにも改革は急いではならない。
 ●そう考えると、横井小楠がこの際大名の参勤交代を廃止したり、あるいは江戸にいる大名の妻子をいきなり国許に帰すというのはかなり短兵急だ。
 ●これによってかならず大きな混乱が起こる。
 ●それは政治的混乱だけではなく経済的混乱も起こる。とくに江戸においてそれが顕著になるだろう。なぜなら江戸というのは消費都市で、大名の参勤交代や家族が住むことによってかなりの金が落とされている。これが断たれれば江戸は火の消えたようになる。江戸市民の間に経済恐慌が起こりかれらの生活は困窮する。そしてそれは諸国にも悪影響を与える。
 ●そういうふうにこの間題は政治的にだけでなく、経済的にも江戸の市民をはじめ、諸国の市民の生活も考えなければならない。
 ●もし実行した時に起こる混乱を、いまの幕府首脳部は乗り切れるだけの自信があるのだろうか。そのみきわめもつけないでいきなり乱暴な改革を行うことには賛成しかねる。
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■横井小楠と違い

<本文から>
 横井小楠と違うのは、小楠のほうは、
 「日本に共和制を導入すれば、細かいモヤモヤや過去の垢などいっぺんにこそぎ落とされる」
 という考え方であった。そしてそれなりの道筋を立て、いってみれば、
 「いま生きている人間のなかで、人材さえ登用すれば実行できる」、
  という強い信念であり自信であった。一方の山田方谷はそうではなく、
 「改革というのはすべて先の先まで見通せるものではない。アクシデントが起こっていつなにが起こるかわからない。しかし、そういうアクシデント骨乗り越えてくれるのはつぎの世代だ。つぎの世代のやることまで古い世代が決めつけて、ああしろこうしろというのはけっしていいことではない。若い世代がどういうことをするかはいま予測がつかない。
 しかし予測がつかないということは大いに期待できる楽しみや喜びもあるのだ。その予知できない現象に、大いに望みをつなごう」
 ということである。これは山田方谷と横井小楠の、
 「後進に対する考え方」
の差でもあったろう。横井小楠は、勝海舟が恐れていたように、
 「いま日本でもっとも恐ろしい男のひとり」
であったから、頭脳明晰で先の先まで見通し、
 「こうすればこうなる」
 という、優れた碁打ちのような見取図をもっていたにちがいない。しかし方谷は違った。
 かれはもっと人間の可能性に対して謙虚だった。
▲UP

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