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<本文から> 備中松山藩主板倉勝併静が老中という親会社の役員に出向したために、留守中は家老の山田方谷がすべてを取り仕切らなければならなかった。しかし方谷はその任を全うした。彼の頭のなかにはつねに、
「名君と良臣」
という考え方があった。名君というのは主人であり、良臣というのは家臣である。名君が資質的に初めから名君である場合もあるがそうでない場合もある。その時の良臣は、
「名君でない主人を、名君に仕立てあげる」
という責務も負う。この時にもっとも良臣に求められるのが、
「諌争」
だといわれる。諌争というのは主人の悪いところを諌め、納得しない場合は議論をしてでも、納得させるということだ。しかし主人が資質的に名君である場合は良臣の諌めを受け止めるが、そうでない場合は嫌がる。そして自分を諌めたり争ったりするような良臣は次第に遠ざける。こういうのは暗君だ。
しかし、いずれにしても山田方谷のこういう考え方はやはり儒学からきた、
「臣下としての分限」
をわきまえるということだ。やる気のある良臣だったら、
「こんな暗君ではこの国は治まらない。自分が代わったほうがましだ」
と思いかねない。しかし山田方谷も、また後に方谷のところに弟子入りして越後団長岡藩の家老になる河井継之助も、この、
「家臣としての分限」
をよく心得ていた。かれ等二人はけっして自分の権限を越えて主人の権限内に侵入しようなどとは考えなかった。したがって良臣にはある意味で相当な忍耐強さが必要になる。気の短い人間には務まらない。
地方大名が中央へ出て老中になり国政を運営するということは、たしかに上部団体の役員になってその団体の仕事を担うという面もあるが、天保の改革を推進した水野忠邦の場合は、かれ自身の、「青雲の志」を実現するといういわば権力欲だった。
が、幕末期の板倉勝静が老中になった時は、もうその権限もポロポロになり萎て、ろくな力はない。むしろ乏しくなった力をいかに長もちさせるかということのほうに努力の主体がおかれた。となると、これはもう名誉職とか権力職とかではなく一種の義務職になる。辛い。山田方谷には板倉膠静の辛い立場がよくわかった。 |
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