童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          柳生宗矩の人生訓

■″やりたいこと″を″やらねばならないこと″に

<本文から>
柳生宗矩の生き方から、今わたしたちが学ぶとすれば、次のようなことだ。
・宗矩は、自分のやりたいことを最後までやり抜いた。
・しかし、宗矩のやりたいことは、時代状況が真っ向から否定するものだった。
・そのために宗矩は、そのやりたいことが、時代状況と融和できるような方法を考え出した。
・つまり宗矩は、自分のやりたいことが時代状況に反するからといって、それを無理にやり通すために時の体制(徳川幕藩体制)から飛び出し、孤高の道を歩むということはしなかった。
・逆にその体制の中に飛び込んで、その一角に、はっきり自分の生存の場を位置付けた。
・さらに、自分のやりたいことを、体制が"やらねばならないこと"にまで昇華させた。
・つまり、私的な志を、公的な義務にまで推し進めたのである。
・そのためには、キレイゴトばかりいわずに、進んで汚れ役にも身を投じた。体制内の汚れ仕事も引き受けた。
・しかしそのやりたいことに理念を設定したので、汚れ仕事で宗矩が、悪名を付されることはなかった。
・むしろ、彼の唱えたやりたいことと理念の設定は、その頃の武士たちの一本の道標に
・したがって、柳生宗矩は、いわば"泥田に咲く美しい一茎の蓮華の花"といっていい。。
 人間には誰でも、
 「自分が本当にやりたいこと」
というのがある。しかしこれを実現するためには、三つの条件が必要だ。それは、
 「天の時(運)・地の利(状況・条件)・人の和(人間関係)」
である。この三つが整わなければ、どんなに自分がやりたいと思っても、実現不可能だ。そのために、
 「こんな状況では、とても自分のやりたいことはできない」
という事実がわかると、多くの人が、
 「是か非か」
の道を辿る。是というのは、
 「体制を全面的に認め、丸投げ式に自分の志を祈って、その中で、不本意ながらも生きていく」
といういわば、
 「体制に対する全面的屈服」
のことだ。非というのは、逆に、
 「体制そのものを否定し、そこから飛び出て、はみ出し者として生き抜く」
 つまり孤高狷介の道を辿るということである。
 柳生宗矩はどちらの道も歩まなかった。彼は、
 「第三の道」
を辿った。つまり是でもなければ非でもない道を歩いたのである。それは、
 「ある部分においては、新体制の状況・条件を認め、しかし一方においては、否定部分も保ち続ける」
ということだ。彼は体制から飛び出して孤高の道を歩くということをせず、
 「体制内に身を投じて、その一角に自分の生きる場を設定し、それを死守しながら、やりたいことをやり抜いていった」
のである。
 一方、宮本武蔵は、柳生宗矩のように、
「体制内において、自分のやりたいことを貫く」
という生き方は選ばなかった。徳川幕藩体制に身を置かずに、一匹狼として、浪人生活を続けながら自分のやりたいことをやり抜いたのである。この点が、柳生宗矩とは全く違う。
 では、柳生宗矩の"やりたいこと"とは何か。
 剣術である。具体的にいえば、大和国(奈良県)柳生の里において、父石舟斎から叩き込まれた、「柳生新陰流」という剣法の保持である。しかしなぜ、柳生宗矩がやりたかった「柳生新陰流」の保持が危うくなったかといえば、時代状況が一八〇度転換してしまったからだ。新しい徳川幕藩体制では、
 「武士と武術は不要」
 という根本原則が打ち立てられたのである。

■柳生新陰流を剣禅一致(如)の剣法にして生きのびた

<本文から>
 柳生宗矩は、この高密度管理社会内において、
 「自分の志を生かす方法」
を考え出し、しかも、
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
 という言葉を文字通り実践した。つまり本来なら、自分のやりたいことを否定する徳川幕藩体制の中に飛び込んで、その一角に、
 「柳生新陰流の生存する場」
を、はっきりと据えた。それどころではない。彼は、
 「将軍の兵法指南役」
 というポストを得て、家康・秀忠・家光の三代にわたって、剣術の指南役になったのである。将軍もまた軍事政府の代表だから、当然武士の心得としての「文武両道に励む」という努力を率先して行なわなければならなかった。
 しかし、この過程における柳生宗矩の努力は目覚ましい。それが、前に書いた、
 「自分のやりたいことを、体制がやらねばならない義務にまで昇華させた」
 のである。平和な時代に全く必要のない剣術を、
「平和でも絶対に必要な存在」
 にまで昇華あるいは止揚(アウフへーベン)させたのは、あげて宗矩の独創的な発想による。つまり彼は、柳生新陰流を、
「絶対必要なもの」
 つまり、
「剣禅一致(如)の剣法」
 にしたのである。
「剣と禅を一致させる」
 ということは、
「殺人刀を活人剣に変える」
 ということだ。それだけではない。宗矩は、この活人剣を、
 「治国平天下の剣」
 と主張した。

■千載−遇のチャンスをものにする

<本文から>
石舟斎が工夫した柳生新陰流の極意は、いうまでもなく、
「活人剣」
である。宗矩はいった。
「これからの太平の世の中では、人を殺す剣術は必要ございません。人を活かす剣が必要でございます。そしてそれは、治国平天下の道に通じます。柳生新陰流は、その真髄を蔵しております。父上、徳川様からのお話は、柳生新陰流にとって千載一遇の機会ではありませんか」
「おまえのいうことはよくわかる。しかし、だからといって、徳川殿がわれわれを召し抱えてくれるということにはならぬぞ」
「それはわかりません」
宗矩は不敵に笑った。石舟斎は思わず、おや? と思った。いつまでも子供だと思っていた宗矩が、いつのまにか妙な面で大人びた様相を示したからである。石舟斎がこの時感じたの、
(宗矩は、なかなかの野心家だ)
ということだ。徳川家康は、ただ、
「柳生新陰流の無刀取りを見たい」
といって来ただけで、別に、
「その上で、召し抱えたい」
といっているわけでも何でもない。にもかかわらず、息子の宗矩は、
「徳川様こそ、柳生一族が仕えて悔いない主人でございます」
などと決め込んでいる。ずうずうしい。しかし、そのふてぶてしさは石舟斎の胸を打った。
(この息子に比べれば、自分はなんと後ろ向きになって生きていることか)
と、かつての自分の覇気や情熱が思い起こされたからである。そして同時に、その覇気や情熱がまだ心の一隅にしっかりと根を下ろして、日が当たるのを待っているのを感じた。石舟斎は宗矩を見返した。
「わかった。栗山殿にはそうお答えしよう」

■関ヶ原で情報を家康に送り続けた

<本文から>
 江戸城にじつと座り込んだまま、腰を上げない家康に、この間、次々とホットな情報せ告げ続けたのが柳生宗矩である。それを家康の脇にいてきく本多正信が判断し、家康に知恵をつけた。たまりかねた東軍の大名たちが、使者を寄越した。
「徳川殿は、いつ石田とお戦いになるのか」
という催促状である。これに対し家康は使いを送って、
「こちらは、いつ各々方が石田と戦うかを待っているのだ」
と逆襲した。これによって、福島正則や黒田長政、細川忠輿などの、反石田三成派が一斉に戦端を切った。関ケ原合戦の前哨戦の幕が切って落とされたのである。ここではじめて家康は腰を上げ、
「上方へ行く」
と、東海道を上りはじめた。このことを知った宗矩は、八月二十四日に三河国(愛知県)池鯉鮒(現知立)で家康を迎えた。家康は上機嫌だった。
「宗矩、ご苦労だった。でかしたぞ」
と褒めた。何がでかしたのかは、家康と宗矩だけが知っていた。宗矩は、父石舟斎や甥の利厳らと合同して展開した調略活動によって、大坂方の正しい情報を多量に家康にもたらした。それだけではない。周囲の家族たちが、
「どっちに味方すべきか」
と例によって蠢くのを押さえ、
「軽挙妄動するな。いざというときは徳川毅の味方をしろ」
と牽制し続けた。これが成功した。というのは地域の豪族たちも、やはり、
「権威尊重」
の気風がある。
「柳生宗矩が、豊臣家の五大老の筆頭・徳川家康殿の兵法指南役に登用された」
という噂は、燎原の火のごとく周囲に広まっていた。兵法をもって生きている豪族たちにとっては、まさに青天の霹靂であると同時に、垂涎のまとであった。そのことは、
「場合によっては、俺も大名の指南役になれるかもしれない」
という希望を一様に持たせた。これが地域を活気づかせた。そのために柳生宗矩が説く、
「軽挙妄動せずに、いざという時は徳川殿の味方をしろ」
という論法が説得力を持ったのである。同時に宗矩は、石舟斎や甥の利厳たちと共に、長年いがみ合っていた、
「伊賀者と甲賀者の和睦」
を成し遂げた。

■日の当たる場所における行動によって自分の勢威を確立する

<本文から>
 彼の頭の中には様々な思いが乱れ飛んだ。柳生新陰流の極意・剣禅一致、そして剣政一致などである。特に、
「剣政一致の極意が、この新将軍のご発言によっていよいよカを増す、生きる」
と感じた。
前に、柳生宗矩が自分の存在意義を示す方法として、
「大名たちに恐怖心を与えて、自分の存在を認識させる」
と書いたが、宗矩自身は、家光の時代になって次第にそういう考えに自ら疑問を持つようになった。つまり、
「勢威(ステイタス)は、日の当たる場所における行動によって示さなければならない」
ということだ。
「物陰や、舞台裏にあって、陰湿な行動の積み重ねによる正義はい真の正義ではない」
という反省である。それは、家老に無惨にも首を取られた坂崎出羽守事件にも教訓を得ていた。あのとき坂崎出羽守が見事に腹を切っていれば、
「さすが、坂崎は戦国武士の生き残りだ。意地を通した」
と褒め讃えられたことだろう。しかし、うっかり酒を飲んで寝てしまったために、坂崎出羽守は死に際でその面目を失った。惜しい。宗矩は何度もそのことを繰り返して思い起こした。
そして、
「日の当たる場所における行動によって、自分の勢威を確立しよう」
という思いの底には、まだまだ戦国気風の残っているこの時代において、
「武士の人間としての意地も、立派に勢威を構築する」
と考えていた。もちろんそれは賭だ。誰もがやり、誰にでもできることだったら勢威は確 立されない。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ