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<本文から> 柳生宗矩の生き方から、今わたしたちが学ぶとすれば、次のようなことだ。
・宗矩は、自分のやりたいことを最後までやり抜いた。
・しかし、宗矩のやりたいことは、時代状況が真っ向から否定するものだった。
・そのために宗矩は、そのやりたいことが、時代状況と融和できるような方法を考え出した。
・つまり宗矩は、自分のやりたいことが時代状況に反するからといって、それを無理にやり通すために時の体制(徳川幕藩体制)から飛び出し、孤高の道を歩むということはしなかった。
・逆にその体制の中に飛び込んで、その一角に、はっきり自分の生存の場を位置付けた。
・さらに、自分のやりたいことを、体制が"やらねばならないこと"にまで昇華させた。
・つまり、私的な志を、公的な義務にまで推し進めたのである。
・そのためには、キレイゴトばかりいわずに、進んで汚れ役にも身を投じた。体制内の汚れ仕事も引き受けた。
・しかしそのやりたいことに理念を設定したので、汚れ仕事で宗矩が、悪名を付されることはなかった。
・むしろ、彼の唱えたやりたいことと理念の設定は、その頃の武士たちの一本の道標に
・したがって、柳生宗矩は、いわば"泥田に咲く美しい一茎の蓮華の花"といっていい。。
人間には誰でも、
「自分が本当にやりたいこと」
というのがある。しかしこれを実現するためには、三つの条件が必要だ。それは、
「天の時(運)・地の利(状況・条件)・人の和(人間関係)」
である。この三つが整わなければ、どんなに自分がやりたいと思っても、実現不可能だ。そのために、
「こんな状況では、とても自分のやりたいことはできない」
という事実がわかると、多くの人が、
「是か非か」
の道を辿る。是というのは、
「体制を全面的に認め、丸投げ式に自分の志を祈って、その中で、不本意ながらも生きていく」
といういわば、
「体制に対する全面的屈服」
のことだ。非というのは、逆に、
「体制そのものを否定し、そこから飛び出て、はみ出し者として生き抜く」
つまり孤高狷介の道を辿るということである。
柳生宗矩はどちらの道も歩まなかった。彼は、
「第三の道」
を辿った。つまり是でもなければ非でもない道を歩いたのである。それは、
「ある部分においては、新体制の状況・条件を認め、しかし一方においては、否定部分も保ち続ける」
ということだ。彼は体制から飛び出して孤高の道を歩くということをせず、
「体制内に身を投じて、その一角に自分の生きる場を設定し、それを死守しながら、やりたいことをやり抜いていった」
のである。
一方、宮本武蔵は、柳生宗矩のように、
「体制内において、自分のやりたいことを貫く」
という生き方は選ばなかった。徳川幕藩体制に身を置かずに、一匹狼として、浪人生活を続けながら自分のやりたいことをやり抜いたのである。この点が、柳生宗矩とは全く違う。
では、柳生宗矩の"やりたいこと"とは何か。
剣術である。具体的にいえば、大和国(奈良県)柳生の里において、父石舟斎から叩き込まれた、「柳生新陰流」という剣法の保持である。しかしなぜ、柳生宗矩がやりたかった「柳生新陰流」の保持が危うくなったかといえば、時代状況が一八〇度転換してしまったからだ。新しい徳川幕藩体制では、
「武士と武術は不要」
という根本原則が打ち立てられたのである。 |
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