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<本文から> あるとき、付近の農民が結託して一揆を起こしかけたことがある。それは、藩の税の取り方が不公平で、また重税だったからだ。梅園は一揆例の主張を正しいと思った。しかし、武器をとって農民が立ち上がることには反対だった。そこで一揆の代表のところに出かけていき、話をきいた。梅園一流の、
「相手の立場に立ってものを考える」
ということの実行だ。一揆側の主張をきいたあと、梅園は城へ出かけていく。そして今度は役人側のいうこともきいた。
「一揆の論理と、役人の論理との間に妥協点はないか」
ということを必死で探した。みつかった。
梅園は、
「これなら、両者は納得するだろう」
という妥協策を考えだし、双方に告げた。城倒も一揆側も納得し、問題は円満に解決された。
城も農民も、
「三浦先生はさすがだ」
と感嘆した。城のほうでは、
「ぜひ、そのお知恵を藩政に役立たせてもらいたい」
とまた召し抱えを望んだ。しかし梅園は笑って首を横に振って、こういった。
「わたしは、いつも地元住民側にいますから、あまりお城の役には立てないと思いますよ」
このことばはすぐ里にひろまる。里人たちはよろこんだ。
「三浦先生は、われわれの味方だ」
という感を強くした。しかし城のほうも梅園を憎まない。というのも、梅園が存在しているかぎり、里人たちも城のいうことをよくきいてくれたからである。
◆
窮理の学問を追求するだけあって、梅園は、
「自分の死ぬ時期」
を未然に知った。このことを家族に告げて準備をさせた。
「死ぬときは、自分を正しく南に向かわせてほしい。姿勢を崩さないようにしてもらいたい」
と頼んだ。その日は新しい衣服に着替え、息子に自分の著書を全部改めさせた。そして南を向いてしっかりと座ったまま息絶えた。寛政元年(一七八九)三月十四日のことである。六十七歳であった。最後まで、
「自分らしさ」
を失わずに、地域とともに生き抜き、そして、
「自分らしく」
死んだユニークな学者であった。 |
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