童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          和魂和才 世界を越えた江戸の偉人たち

■地元住民側にいた三浦梅園

<本文から>
 あるとき、付近の農民が結託して一揆を起こしかけたことがある。それは、藩の税の取り方が不公平で、また重税だったからだ。梅園は一揆例の主張を正しいと思った。しかし、武器をとって農民が立ち上がることには反対だった。そこで一揆の代表のところに出かけていき、話をきいた。梅園一流の、
 「相手の立場に立ってものを考える」
 ということの実行だ。一揆側の主張をきいたあと、梅園は城へ出かけていく。そして今度は役人側のいうこともきいた。
 「一揆の論理と、役人の論理との間に妥協点はないか」
 ということを必死で探した。みつかった。
 梅園は、
 「これなら、両者は納得するだろう」
 という妥協策を考えだし、双方に告げた。城倒も一揆側も納得し、問題は円満に解決された。
 城も農民も、
 「三浦先生はさすがだ」
 と感嘆した。城のほうでは、
 「ぜひ、そのお知恵を藩政に役立たせてもらいたい」
 とまた召し抱えを望んだ。しかし梅園は笑って首を横に振って、こういった。
 「わたしは、いつも地元住民側にいますから、あまりお城の役には立てないと思いますよ」
 このことばはすぐ里にひろまる。里人たちはよろこんだ。
 「三浦先生は、われわれの味方だ」
 という感を強くした。しかし城のほうも梅園を憎まない。というのも、梅園が存在しているかぎり、里人たちも城のいうことをよくきいてくれたからである。

 窮理の学問を追求するだけあって、梅園は、
 「自分の死ぬ時期」
 を未然に知った。このことを家族に告げて準備をさせた。
「死ぬときは、自分を正しく南に向かわせてほしい。姿勢を崩さないようにしてもらいたい」
 と頼んだ。その日は新しい衣服に着替え、息子に自分の著書を全部改めさせた。そして南を向いてしっかりと座ったまま息絶えた。寛政元年(一七八九)三月十四日のことである。六十七歳であった。最後まで、
 「自分らしさ」
 を失わずに、地域とともに生き抜き、そして、
 「自分らしく」
 死んだユニークな学者であった。

■ケプラーの第三法則を発見していた麻田剛立

<本文から>
 やがて寛政五年(一七九三)頃に、間重富という門人が、家が裕福だったために、「暦象考成後編」という書物を手に入れてきた。これはやはり中国の清朝の乾隆帝の時代につくられたもので、発端は、中国にやってきたドイツ人の宣教師ケーグラーが編集したものだった。しかしこの後編は、前に剛立が勉強していた上下編とは違って、円ではなく、
 「楕円運動で天文現象を考える」
 という視座をもっていた。述べられているところが、太陽と月の活動に限られていて、同時に、
 「地動説」
 の説明はいっさいなかった。せっかく、天体を楕円運動によって理解しようという考え方を知ったものの、剛立はいままでの円運動の考え方を捨てようとはしなかった。
 かれは天文常数についても、
 「消長法」
 ということを唱えた。これは中国の宋や元の暦で使われている方法だ。つまり、
 「天文常数のほとんどが、年月がたつにしたがって変化する」
 というものだ。剛立はこれによって、
 「各種の常数はすべて変化する」
  とし、
 「十年ごとに新しい数値を設定しよう」
 と主張した。
 剛立はまた、
 「ケプラーの第三法則」
 を発見した。これは、
 「任意の三惑星の公転周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する」
 というもので、
 「調和法則」
 とも呼ばれていた。剛立がなぜこんなものを発見できたのか、そのいきさつについては知られてない。ただ、間重富とともに、
 「麻田門下の逸材」
 といわれた大坂城の役人高橋至時が、のちにフランスの天文学者ラランスの著書を読んで、
 「ここで唱えられている記述は、すでにわが師麻田先生がおっしゃっていたのと同じことだ」
 と書いている。日本の暦の改正は、寛政四年(一七九二)に、すでに松平定信の命令によって幕府天文方の山路才助がおこなっていた。しかし山路の新暦は、前に書いた、
 『崇禎暦書』
 による。やはり誤差が大きい。が、麻田剛立一門がすでに紹介していた、
 『暦象考成後編(つまり、楕円運動によって天体の活動を理解する法)』
 は、その頃の幕府の天文方役人の知識や経験では理解できなかった。幕府天文方は、ついにギブアップした。そして、
 「正しい暦をつくるのには、『暦象考成後編』の理解者でなければなりません」
 と進言したのである。この頃おそらく、松平定信はかねてすぐれた意見書をだしていた中井竹山の推薦によって、剛立の存在を知ったのに違いない。剛立のところに松平定信の使者がいった。

■農民を救済するための世界最初の産業協同組合を設立した大原幽学

<本文から>
 つまり一年三百六十五日として、
 「年間計画の三百六十五分の一をどう組み立てようか」
 ということを、みんなで相談しようということだ。したがって、幽学がこの村にきて最初に農民たちに頼んだ、
 「一人ひとりの生活設計」
 も、ほんとうならこの年間計画から逆算したものであってほしかった。しかし、いきなりそんなことをいっても農民に受け入れられないと思ったので、幽学は、
 「まず情を通じよう」
 といって酒を一緒に飲み、かれら全員が、
 「本音社会」
 に立ち戻ることを求めた。その上で今度は、
 「今在一年の生き方と、農業のおこない方を示し、その一日分を、どのように働くか」
 を逆算させたのである。同時にかれは、
 「荒んだ農民の心の癒し」
 を考えた。その手段としてかれは、
 「孝」
 を提唱した。しかし、かれの説は、単に親に対するものだけではない。
 「家族全員に対する孝、隣人に対する孝、村に対する孝、国(この場合は領国)に対する孝、そして天に対する孝というふうに広げていけば、孝というのは狭い意味ではなくなる。天に対する孝に到達すれば、村もほんとうに住みよい豊かなものになるだろう」
 という一種のユートビア思想であった。もちろんかれも、名主の伊兵衝からきいて、村人たちの精神の荒廃は知っている。とくに若者が、ともすれば飯岡や笹川などの繁華街へ出かけ、博打で金をすり、ついには所有地を手放してしまうようなこともじゅうぶんわきまえていた。しかし幽学は長年の遍歴生活で、
 「人間が欲望に取りつかれて完全にはまっているときに、やるなといっても無理だ。本人は血迷っているのだから、止めても止まらない」
 と思っていた。だからかれの対策は、
 「いまはまっている賭樽以外に、生きる喜びを示せば、それによって悪いおこないも改まる」
 というものだ。そして博打に代わる喜びを、
 「農民の初心・原点である、農業に興味をもつことからはじめよう」
 と考えた。それが"宵相談"であった。
 さらにかれは、土地を手放したものの、他国へ行かずに小作人として、土地もちの仕事を手伝いながら、わずかな労賃をもらっている、いわゆる"潰百姓″の救済を思い立った。
 「潰百姓を救いたい」
 と、かれは自分の計画を話した。それは、
・土地所有者は、その一部を提供する
・提供された土地は、村人全員の共同管理とする
・共同管理とは、単なる所有権の管理ということではなく、共同耕作をするということ
・共同耕作は無償でおこなう
・共同管理する農地の農作物を売り払って得た利益は潰百姓救済の基金として積み立てる
・共同管理下においた基金を、村人たちの相談によって潰百姓に貸し付ける
・一連の管理事務は、名主と選ばれた代表によっておこなわれる
 というものである。これをかれは、
「先祖株組合」
と名づけた。繰り返しになるが、これが、
「世界最初の産業協同組合」
と呼ばれるものだ。

■責任を共同に負う日田方式 広瀬久兵衛

<本文から>
  広瀬久兵衛たちが集まってつくつた日田の掛屋組合は、こういう小さな藩の財政再建策に大いに寄与した。方法として共通していたのは、
 「地域では藩札を活用し、藩庫には正貨を蓄積するように努める」
 というものであった。これには、ある程度財政的に余裕のある掛屋が活用された。久兵衛たちは組合をつくつて、いわば、
 「合同意志によって、各大名家の財政再建策を引き受ける」
 という方法をとった。ところが、単独で大名家の財政を引き受けた商人で、うまくいかない場合があった。そのために、倒産する商家も相次いだ。久兵衛にいわせれば、
 「それは、事前調査が甘いからだ」
 ということになる。
 「おれはそんな目にあいたくないから、再建を頼まれたときには、まず事前調査を徹底的におこなってから、引き受ける、引き受けないを決める」
 という厳しい態度をとり続けたのである。
 伝えによれば、広瀬久兵衛の府内藩とのつきあいは、実に四十年にもおよんだという。藩の財政再建にそれだけの年月がかかったというだけではなく、久兵衛は、
 「蝋のほかにも、いろいろと他国に輸出できる産品があるはずだ」
 と、藩の潜在する産品の発掘に努力し、その品目を拡げていったためだといわれている。
もうひとつ重大なことがある。広瀬久兵衛が各藩(大名家)の財政再建をおこなうとき、共通する方式として、
 「藩札の発行によって、藩が正貨を得られるようにする」
というのは大きな柱だ。ところが、広瀬久兵衛が、その基金としたのは、実をいえば、広瀬家の私有財産ではなく、
 「日田金」
 だったことである。日田金というのは、久兵衛のような、いわゆる掛屋と呼ばれる特別な商人たちが、
 「掛屋として得た利益を、共同積み立てしよう」
 という趣旨で積み立てられた"共同資金"のことだ。だとすれば、この共同資金である"日田金"は、勝手に使うことはできない。当然、関係者たちで会議を開き、
 「こういう事業をやりたいが、日田金から流用してもいいだろうか」
 と申し出て、その是非が論議された。だから、広瀬久兵衛が、
 「府内藩の財政再建のために、日田金を一部拝借したい」
 と申し出た件も、当然、日田商人たちによって会議が開かれ、
 「是か非か」
 と論議された。しかし、広瀬久兵衛には絶大な信用があり、兄は有名な学者の淡窓だ。
 「広瀬さんのやることなら間違いない」
 と即決された。したがって、ことばは悪いが、広瀬久兵衛が府内藩の財政再建に使った藩札発行の保証金は、必ずしも、
 「身銭を切った」
 ものだけではない。日田金のかなりの額が投入されている。
 しかし、そうなると、広瀬久兵衛の責任はさらに重くなる自分の財産だつたら、たとえ欠損になっても自分が泣けばすむ。が、日田金は一種の公金だ。その日田金に対して、返済不可能となった場合には、当然、広瀬久兵衛は全面的な責任を負う。このように、広瀬久兵衛の、府内藩における財政再建計画の一本一本の柱には、
 「二重三重にも張りめぐらされた久兵衛自身の責任の給」
 があった。これは意識してやったことかもしれない。そうだとすれば、これは、
 「府内藩の財政再建に、すべてを賭けよう」
 という久兵衛の決意のあらわれだとみていいだろう。自分の財力を小出しにして、
 「鼻歌まじりで財政再建」
 をおこなったわけではない。そうなると久兵衛のこのときの姿勢は完全に、
 「府内藩のなかに自分の身を溶け込ませている」
 ということになる。だからこそ、
 「そうであればあるほど、府内城のお役人のほうも、そういう厳しい気持ちをもってほしい」
 ということになる。幸いに、府内藩の改革は成功した。久兵衛は、蝋のほかにも青ムシロや菜種油の開発もすすめた。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ