童門冬二著書
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    「中興の祖」の研究−組織をよみがえらせるリーダーの条件

■徳川吉宗−今ある蝕観を活用する

<本文から>
  改革の実行者は得てして、
 「大幅な組織改善と人事異動」
 を行いたがる。しかし吉宗は決してそんなことはしなかった。彼が将軍になったとき、江戸市中で現在で言う学識経験者たちが集まってこんな話をした。
 「今度将軍になられた吉宗公は、名君だろうか暗君だろうか」
 この問いに対し、ある学者がこう答えた。
 「吉宗公が名君か暗君かは、吉宗公が和歌山城からお連れになった腹心をどう扱うかによる。もしも和歌山城から連れてきた腹心たちを幕府の要職に就けるために、大規模な組織改革を行ったり人事異動を行ったら被は暗君だ。しかし幕府の現在の組織や人事をそのままご活用になり、和歌山城から連れてきた腹心たちもそれほど高いポストに就けなければ名君だ」
 では吉宗はどうしたか。彼は幕府の組織と人事にほとんど手をつけなかった。そのまま活用したのである。わずかに行った人事異動は二つある。一つは前に書いた伊勢山田奉行の大岡越前守忠相を江戸町奉行に登用したことである。もう一つは、大奥で多少のリストラを行ったことだ。彼は江戸城に入るとすぐ人事担当の役人に、
 「大奥にいる女性の名簿を作れ。それも美しい女性の名簿がほしい」
 と告げた。おそらく人事部長は腹の中で、
 (エッチな将軍だ。入城早々今夜から美人を順にお相手をつとめさせる気だな)
と感じた。しかし将軍の命令なので名簿を作って差し出した。ところが吉宗は見向きもしない。
 「見る必要はない。その名簿に書かれた者は暇を出し親元に帰せ」
 と言った。役人はびっくりした。
 「なぜでございますか」
 と聞いた。吉宗は笑ってこう答えた。
 「美しければ嫁入り先にも困るまい。そうでない者は少し時間がかかろう。それまでゆっくり務めてもらえ」
 「…!」
 役人は唖然とした。しかし同時に、
 (今度の上様は油断がならない)
 と感じた。美しければ嫁入り先にも困らず、そうでない者には少し時間がかかるというのは相当下情に通じた人間の言うことだ。吉宗は和歌山藩主であったときにすでにそういう下情に十分通じていたのである。人事担当の役人は緊張した。それは、
 (これからもこのような指示が次々と出るに違いない)
 と直感したからだ。 
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■上杉鷹山−誓詞を春日社に奉納を誰にも話さなかった人柄

<本文から>
書き忘れたが、前に鷹山が藩主になったときに奉納した誓詞は、実に慶応元(一八六五)年三月十七日に発見された。これは春日社のあった林泉寺が火災に遭って、神社に類焼しかけたので急いで社内にあった神器を取り出したところ、その中から発見したといわれる。鷹山が奉納してから実に九十九年後のことであった。ということは、鷹山は自分がこういう誓詞を春日社に奉納したことを誰にも話さなかったのである。この一事でも彼の人柄が偲ばれる。
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■上杉鷹山−藩富を増すに努力

<本文から>
鷹山はさらに、
 ・大倹約は言うまでもないが、倹約倹約と言っていたのでは城の武士はもちろんのこと領内の民も気持ちが暗くなってしまう
 ・気持ちを明るくするためには、やはり産業を振興し生産力を高めて、藩としての富を得ることにも意を用いなければならない
 ・そのために、富を生むような産品にどういうものがあるのか、これも確認する必要があるなどと話した。実をいえば鷹山の生家である日向高鍋藩秋月家の現当主は種茂といって彼の実兄だ。秋月家は昔は筑前(福岡県)甘木にいたが、豊臣秀吉の九州征伐のときに島津家に味方したので、高鍋に移されたのである。当時は財部といった。そういうせいもあってか、代々、
 「藩富を増す」
 ということに努力してきた。すなわち藩では初代の種長がまず牧畜を奨励し、藩内の野別府岩山(児湯郡)で実施した。四代目の種政も牧畜に熱心で、特に他領への売出しを禁じて馬匹の養成に力を入れたという。さらに茶・ウルシ・椿・ハゼ・杉・檜などを盛んに植えさせ、山林事業を振興した。そしてこれに運上(雑税)を掛けた。また茶の栽培を奨励し、
 「茶を庭に植えるものに対しては運上を免除する」
 と告げた。茶だけでなくウルシ・椿・ハゼなど庭に植えるものについては運上を免除した。
 六代目の種美(鷹山の父)も牧畜に熱を入れ、百石以上の藩士に対しては必ず馬を飼うように命じた。農民で牛馬を持っていないものに対しては六貫目を貸与して十年後で返納させ牛馬を飼うことを奨励した。ただし、
 「他国に売り出してはならない」
 と国外への販売を禁止した。七代目の種茂(鷹山の兄)は先祖が続けてきたこれらの産業振興に加えて、尾張(愛知県)から朝鮮人参を輸入してこれを領内に植えさせた。そして、
 「漢方薬の国産化を図れ」
 と命じた。鷹山の後になるが十代目の種股は、
 「砂糖の製造」
 をはじめ、そのためにサトウキビを九州の南西諸島から輸入して実験栽培を行った。
 ざっと見ただけだがこういうように高鍋藩秋月家は代々、
 「産業振興」
 を政策の大きな目玉として代々引き継いできた。したがって江戸にいた少年鷹山も、当然これらの先祖の政策の根本にあるものを理解していたはずだ。
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■上杉鷹山−火種運動を起こそう

<本文から>
 鷹山の改革は出鼻を挫かれた。スタートからつまずいた。しかし鷹山は怯まない。翌日彼は大広間に全藩士を集めた。広間に入れない者は庭先に立った。鷹山は自分の趣旨を告げた。つまり、
 「説明責任」
 を果たす努力を行ったのである。これは鷹山の別な意図を試す意味もあった。つまり鷹山にすれば、重臣たちは、手続きの上で自分たちの面目を重んじて反対している。しかし中下級武士も全部がそうなのだろうかという疑問を持ったからである。彼は自分の改革案に自信があった。したがって、
 「全藩士に周知徹底すれば、必ず賛同者がいるはずだ」
 と踏んでいた。入城早々に出鼻を挫かれた鷹山は、一時期は意気消沈したがいつまでもそんな後ろ向きの精神状況にはない。彼は何よりも細井平洲から教えられた、
 「為政者は民の父母でなければならない」
 ということを信じきっていた。板谷峠でタバコ盆の底から火種を発見したのもそれ故であ
る。鷹山はあのとき、
 「火種運動を起こそう」
 と思い立ったが、それは同時に、
 「まず自分から火種運動を起こさなければだめだ」
 と考えたのである。だからタバコ盆の火をそのまま″心の火種″として自分の胸に灯した。彼の胸の中では黒かった炭が赤々と燃えている。それを鷹山はしっかりと掴んだ。
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■細川重賢−苦労した経験から人間関係を非常に大事に思っていた

<本文から>
「島田嘉津次という男もなかなかの気骨人でございます。頑固さにかけては掘平太左衛門に引けはとりませぬ」
 といった。重賢は、
 「わかった。その島田にも一度会いたい」
 と言った。江戸で冷や飯食いを長年続けていたので、実を言えば重賢は熊本城にいたことはない。したがって上杉鷹山と同じように彼もまた、
 「主人と家臣の関係、すなわち人間関係」
 の面においてはゼロだといっていい。重賢は苦労した経験から人間関係を非常に大事に思っていた。だから、
 「改革は決して焦ってはならない。時間を掛けて一歩一歩着実に進めることが大切だ。その代わり、一歩前へ歩いたことは絶対に後戻りはしない」
 という考えを固めていた。この辺は上杉鷹山とは違う。上杉鷹山は幼年から帝王学を学び、子供のときから、
 「やがては米沢藩主になる立場」
 を徹底的に叩き込まれた。彼は言ってみれば、
 「ゆくゆくは藩主になる」
 立場にいた。重賢は違う。彼の場合には、
 「まかり間違っても、自分が藩主になることはない」
 と諦めていた。当時大名家の次男止巧以下は、どこかの大名から養子の口がかかってくるか、あるいは冷や飯食いのまま生涯を埋もれたまま過ごすかのどちらかだ。場合によっては寺に入って僧になる道もある。しかし重賢はどの道も選ばずにただ江戸の藩邸の一隅で書物ばかり読み続けてきた。したがってそういう噂は熊本城にも伝わっていただろうから、熊本城の藩士たちが全員拍手をして迎えたわけではない。掘平太左衛門という大物の変わり者に会うのは後回しにして、重賢はまず竹原の推薦する島田嘉津次に会った。重賢は島田に聞いた。
 「お前のことはこの竹原から聞いた。今後よろしく頼む」
 「恐れ入ります」
 島田は感動して頭を下げた。
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■細川重賢−まず下級武士から給与の全額支給を行う

<本文から>
「欠点を承知の上で掘平太左衛門を大奉行に任命する」
という決断と思い切った人事方針に藩士たちは胸を打たれたのである。ほとんどの藩士が、
 (この殿様はなかなかやるぞ)
 と感じた。上杉鷹山が自分の改革に反対する七人の重臣に対し思い切った断を下したときと同じ反応が、この日の熊本城内の大広間に起こった。大広間における重賢の大奉行任命は成功した。全員が賛成したわけではないが、重賢は手応えを感じた。特に下級武士たちの反応が良かった。下級武士たちはそれまで中間管理職に妨げられて自分たちの思うことがトップマネジメントに届かないという思いを持っていた。しかも長年″借り上げ″と称し、給与の全額支給が打ち切られていた。
 「貧すれば鈍す」
 という言葉があるが、人間の精神状態はまさにそのとおりだ。環境が悪ければ気持ちも荒む。生活苦が、短い期間ならいいが、長期間にわたれば次第にそれに慣れ、精神が弛緩してしまう。下級武士たちはわずかな給与を貰うと、それを城下町の飲み屋で使うようになっていた。集まってもろくな話は出ない。上層部への悪口と、今置かれている境遇への愚痴だ。生産性は全くない。ところが新しい殿様の重賢は、
 「まず下級武士から給与の全額支給を行う」
 と宣言し、そのとおり実行した。これは下級武士たちにとって思わぬ喜びだった。貰う分が少なければそれを飲み屋で使ってしまう。家族にすれば大迷惑である。ところが全額支給になると下級武士たちは酒を飲むことをやめ、いそいそと家に戻って行く。家族は大喜びをする。当然、
 「新しいお殿様は本当にお情け深い方。私たちの身になって考えてくださる」
 と重賢の評判はいい。そういう温もりが戻り始めた生活環境なので、下級武士たちも今まで思っていたことを封書にしてどんどん重賢の下に出した。したがって重賢の改革案は下級武士の意見と、人気のある学者・片岡栄陵の合意によるものである。決して重賢一人が考え出したわけではない。重賢自身江戸の藩邸の片隅にいて、日の当たらない境遇にいながらも藩そのものの運行は兄たちから聞いていた。しかし実感を持って感じていたわけではない。やはり″生の情報"に基づく″実態に見合った対策″が必要だ。それが下級武士たちの意見書と片岡朱陵という変わった学者の意見によって一応作り得た。しかし下級武士たちに対する給与の回復や、待遇改善も短期間では効果は出ない。数年続いたからこそ下級武士たちの気持ちもある程度落ち着いたのである。
 重賢は大奉行に掘平太左衛門を任命すると、
「郡奉行を六人制とする。一人の奉行について二人の補佐役を置く。そしてこれら郡奉行ならびに補佐役の統括は大奉行が行う」
 と発表した。したがって大奉行に任命された堀平太左衛門の職責は、単に城内の赤字克服だけではなく、藩政全体の統括者になったということだ。家老職が本来やるべき仕事を全部堀平太左衛門が権限を持ったということである。この段階になると家老たちももう何も言わなかった。むっとしたまま知らん顔をして宙を睨んでいた。
 「どうぞご勝手におやりください」
 とすねた態度を保ち続けた。重賢はそんな家老たちを横目で見ながら、
 (厳しい旅路に踏み出した以上、引き返すことはできない)
 と思っていた。しかし重役たちは面と向かって重賢に抗議するような事はしなかった。この辺は米沢藩上杉家における七人の重役が結束して鷹山に抗議書を突きつけたのとは違う。それはやはり重賢がまがりなりにも細川家の直系だったからである。その差は大きい。どんなに突き詰めても重賢の場合は、
 「やはり細川家の血筋であらせられる」
 というところに行き着く。江戸時代の価値基準はこの ″血の流れ"に重きを置いていたから、その点重賢のほうが鷹山より有利だった。
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■毛利重就−赤字補填よりも未来への投脊

<本文から>
 坂時存の残した意見書に基づいて、獅子の廊下に置かれた″御前仕組方″は熱っぽい意見を交わし、
「新田の開発を第一とし、また支藩が支配している南港もいずれ本藩の手に移し管理する」
 と決定した。新田開発と同時に検地も積極的に行なわれた。この検地は単に隠し田を発見するというだけではなかった。新たに藩士や農民が開墾した土地についても特別な手が打たれた。
・武士が開墾した土地は、四〇パーセントを開墾者に与える。六〇パーセントは藩の所有とする。すなわち課税の対象とする
・農民が開墾した土地は、開墾に要した費用を弁償し、賞金を与える。が、開墾地はそのまま課税対象地とする
 ・手の着けられない荒廃地は土地台帳から削除し、免租地とする
・反対に土地台帳に荒廃地と記入されていても、これを復旧した土地は改めて課税するこの結果新しく打ち出された増高は六万三千三百七十三石になり、荒廃地として土地台帳から消された分が二万一千七宙六十四石余あった。しかし差し引いても四万一千六百八石余の増収分が生じた。この新田開発による増収分に対して坂時存は強硬な意見を残していた。それは、
 「増収分はあくまでの新事業を行なうための費用とすべきであって一般会計の赤字補填に当てるべきではない」
 ということである。これには御前仕組方でも意見が分かれた。やはり、
 「もともと新田開発で生じた増高は、一般会計の赤字補填に当てるためではなかったのか」
という常識論があった。しかし重就は断を下した。
 「坂時存の意見に従う。新しく生じた増高は一般会計の赤字の補填にはまわさない」
と宣言した。そして益金の運用を確定するために、
 「別途会計(特別会計)を設ける」
と命じた。そしてこの特別会計を扱う役所を、
 「撫育方」
 と称した。この名称は重就自身が選んだ。そして筆をふるって三文字を書き、当職の毛利広定に与えた。言葉の意味は、
 「新財源の開発によって、別途の資金を充実し、他日の用に備える。これによって財政破綻の不安を像き、土民撫育の趣旨を全うする」
 という意味である。
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