童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史に学ぶ 強くてしぶとい生き方

■土井利勝−部下への注意を聞かせる間接諌言法

<本文から>
 それは、三代日の家光は、なかなか自信家だったから、自分でもいろいろ案を立てては、文書に書いて土井に示した。表現はともかく、内容にしばしば問題があった。そういうとき、土井は、前々から同じような企画を立てている部下をその場に呼んだ。そして、部下の企画書を声を出して読みながら、こんなことをつぶやく。
 「どうも、ここのところは坐りがわるいなあ。もう少し考えれば、もっと坐りがよくなるのだがな」
 部下に話しているようで、実は家光に話しているのだ。つまり、家光の書いた企画も同じような欠点を持っていた。しかし、それを露骨にいえば家光は気を悪くする。そこで、同じような企画を立てていた部下の企画書を読み、部下に注意するという形式をとりながら、内実は家光に諌言しているのである。
 その諌言の内容は二つある。一つは、欠点をそれとなく知らせることだ。が、もっと大事なことは、「トップとしてのあなたは、こんな細かいことまでお考えになる必要はありません。同じようなことは、部下がすでに企画を立てております」ということを、家光に告げたいのである。
 また同時に部下に対しては、「おまえもぼやぼやするな。家光さまでさえ、こういう案を出してくるぞ」ということを告げているのだ。こういう、一石二鳥の方式の、間接的な諌言は、土井利勝の最も得意とするところだった。
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■蕃山にみるいじめへの対処

<本文から>
 そういって、蕃山の顔を見た。部下たちは当惑した。しかし、新任の蕃山に対して、部下の全部が心服しているわけではない。なかには、蕃山に、「お手並拝見」という意地悪い気持ちを持っている者もいた。つまり、こういう意地悪をされて、どういう態度に出るかを見守っている者もいたのである。
 蕃山は説明をやめた。みんな緊張した。蕃山が怒って、そのいじめる同僚に立ち向かっていくかと思ったのである。しかし、蕃山は何もいわない。黙って、ニコニコ笑いながら相手を見つめている。そして、相手の目に自分の目を向けて、そらさない。相手は、はじめのうちはしきりにオ結構を繰り返していたが、だんだん具合が悪くなった。やがて、捨てゼリフを残しながらその場から去った。部下たちは、いっせいに感嘆の息を漏らしながら蕃山を見た。蕃山は、ただ聞き流しただけではなかった。かれは、意地悪な同僚が自分の席に戻ると大きな声でこういった。
 「武士に大事なのは、もちろん文もだが、それだけではデメだ。やはり武士なのだから、武にも秀でていなければならない。どうだ? ここで、ひとつ気晴しに、剣術をやろう。一人ひとり、わたしが相手をするからかかっておいで」
 部下たちは声をあげて庭に出た。蕃山は、木刀を持って一人ひとりを相手にした。意地悪な同僚ははじめ、
 「学者が、生意気に木刀を持って! どうせ、若い部下たちにたたきのめされるにちがいない」
 そう囁きながら、意地の悪い笑い方をして庭の光景を見つめた。が、蕃山は、部下たちを全部たたきのめしてまった。そして、
 「そんなことではデメだぞ。もう少し、武術を学べ。何かあったときに、ご奉公できないぞ」
 と叱った。意地悪な同僚たちはみんな顔を見合わせた。蕃山はもともと学者なので、武術などできるはずがないとタカをくくっていたのである。それが、人並以上に剣術が強かったので、驚いたのだ。
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■佐久間象山の噂への対処

<本文から>
 隣の家の友人が、たまたま江戸の方に勤務することになった。その妻が残った。つまり、友人は単身赴任したのである。
 象山はしきりにこの家に出入りしはじめた。そして、いろいろと友人の妻の頼みごとをきいたり、相談に乗ったりしていた。
 「佐久間象山は、あの女性とデキている」という噂が立った。象山にとっては、これは思いもよらぬ怪電波であった。
 「象山の奴は、友人が江戸に単身赴任したのをいい機会に、あの奥さんにも自分の子を産ませる気だ」ともいわれた。象山はどう対応したか。
 かれは、ある日から、歌をうたいはじめた。そして、友人の妻に琴を弾かせた。ときには、自分で尺八を吹いた。それも、真昼聞からである。
 いってみれば、「おれがこの友人の家に出入りしているのは、何も奥さんとふしだらなことをしているわけではない。音楽を楽しんでいるのだ」ということを表明したのである。いわば、逆転の方法である。
 かれは、怪電波に対して言い訳はしなかった。その家に出入りしていることは事実だから、それを否定するわけにはいかないが、実態はかくのとおりだということを証明したのである。
 事実、本当に音楽だけを楽しんでいたのかどうかわからない。しかし、象山は、その怪電波の上に居直った。自分であちこち駆けずり歩いて、「違いますよ。実はこうなんです」などと言い訳はしなかったのである。
 そんなことをしたら、逆に「やっぱり噂は本当だ」と世間は思ってしまうだろう。象山は、自らその怪電波を逆用したのである。
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■蒲生氏郷−左遷への対処

<本文から>
 まず地名変更だが、かれは「会津黒川」という地名を「会津若松」に変えた。若松という地名は、かれの生まれ故郷である近江壇蒲生郡日野村にある″若松の森〃からとったものだ。若松の森には、近江商人が崇敬する棉向神社があった。氏郷は、商人の育成保護策に長じていて、いままでにも、日野商人、あるいは伊勢商人を育ててきた。かれは、ここでも「会津商人」を育てようと思ったのである。が、その育て方はあくまでも″上方式″によろうと思っていた。
 かれはまた、杉の目といった地域を「福島」と変えた。これは、現在県の名になっている。地場産業の振興には、日野の里で生産されていた「日野椀」を持ち込んだ。そのために、日野を始め上方の木地師を誘致した。現在の「会津塗り」 のルーツだという。
 拠点となる会津黒川城は、大改造を加え、さらに城の名を鶴ケ城と改めた。鶴ケ城の鶴は、蒲生氏郷の子供の頃の名「鶴千代」からとった。
 いってみれば、これは、「容れものをつくり直して、中身の意識を変えよう」ということだろう。ある面で、これは成功した。が、ある面では抵抗する人びともたくさんいた。それが伊達政宗の乗ずるところであり、政宗はこういう空気を機敏につかんで、蒲生氏郷に対する反乱を諸処で煽動した。
 たまりかねた蒲生氏郷は、このことを豊臣秀吉に訴えた。秀吉は伊達政宗を呼び出して詰問した。しかし、政宗は巧妙に言い逃れた。秀吉はそれを認めた。氏郷にすれば、情憑やるかたない。そして、胸の中で、(秀吉さまは、敵である政宗のいうことをきき、味方であるおれのいうことをきかない。ということは、秀吉さまの心はすでに政宗にあって、おれにはない。会津におれを移したのは、初めからおれを見殺しにするつもりなのだ)と思った。
 そう思ったが、氏郷のえらいところは、そのままへこたれなかったことである。かれは、逆にその落ち込みをバネにして、つぎつぎと会津経営に努力した。
 会津といえば、現在は白虎隊や、あるいはその白虎隊を育てた松平家のことを語る例が多いが、会津若松の基礎は、むしろ蒲生氏郷が築いたといっていい。現在も残っている都市構造や、あるいは名産品などに果たした氏郷の功績は大きい。
 豊臣秀吉にすれば、蒲生氏郷は優秀な人材であり、織田信長がそれを見込んで婿にしたほどだから、将来のことを考えると非常に警戒すべき存在だった。うまいことをいって、会津の土地に蒲生氏郷を送り込んだのは、秀吉にすれば(蒲生氏郷よ、その東北の地で朽ち果ててほしい。二度と中央に近づくな)ということだった。
 普通なら、こういう扱いをされたなら、二度と立ち上がる気力を失うにちがいない。しかし、蒲生氏郷は、そんな腰抜けではなかったのである。
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■渋谷孫太郎−左遷されてもトップの考えを反映させる努力をした

<本文から>
 現場に雌伏してわかった状況の変化
普通なら、これは左遷だ。肩で風を切っていた秘書長から、現場にポストを移されたのだから、クサってしまうのが当然だろう。
 渋谷は、そういうことはしなかった。現場にはトップの義直の意志がよく浸透していないから、経営方針がつぎつぎと変わると、ブーブー文句をいった。
「上のほうは、一つもわれわれの苦労をわかっていない。だから、すぐ方針を変えるのだ」
 と怒った。
 これを開くと、渋谷もすぐその人間にいった。
「お前はまだトップの気持ちがよくわかっていない。この尾張家で給料をもらうということは、その給料分はトップの身になってご奉公をしなければいけないということだ。だからわれわれは常に義直さまならどう考えるだろうか、ということをモノサシにして仕事をしなくてはいけないのだ。おまえは、まだまだ未熟だ」と。
 聞いた者は変な顔をする。それは、そういう渋谷さんこそ義直さまから小言をいわれて左遷されたのではないか、とみんな思っていたからだ。
 が、渋谷は決してそんなヒガミやイジケの様子は見せなかった。
 かれは、あくまでも、「おれが現場に来たのは、義直さまの分身として派遣されたのだ」という態度を示した。この渋谷の態度は次第に現場の空気を変えていき、「方針の変化でわからないことがあったら、渋谷さんに開くとすぐわかる」といわれるようになった。
 渋谷は、別にむずかしいことを考えていたわけではない。ただ、「自分は、義直さまの分身だ」と信じ、そのことをモノサシにして、あらゆる変化に対応していたのである。
 現場に雌伏していても、かれは決して窓際族として終始したわけではなかった。むしろ、現場の中に飛び込んで、積極的にトップである義直の方針の変化を、説明して歩いたのである。
 義直は、秘書室に単に情報の集積場所としてだけの位置づけをしなかった。「企画力がいる」と思った。
 そこでかれは、秘書業務と、企画業務と、さらにPR業務とを行なうような機構を考えはじめて、組織を変えた。従来の「奥づとめ」といわれる職場に、この三つの機能を持たせることにした。いわば、現在の「社長室」を設けたのである。
 そして、初代の社長室長に、渋谷孫太夫を呼び戻した。
 渋谷はびっくりした。
 「とても、そんな大役はつとまりません。前に私は奥づとめをクビになったほどです」
 「もう、そのことはいうな」
 義直は苦笑した。そして、こういった。
 「おまえの現場での努力は、全部私の耳に入っている。おまえは立派に雌伏し続けたが、その雌伏は、決してひがんだり、いじけたりしものではない。常に、私の立場にたって、現場をよく管理した。それは、私にとっても、おまえにとっても、いい肥やしになったはずだ。現場の空気をいっぱい身に看けたおまえでなければ、新しい社長室長はつとまらない。頼む」
 (このトップは、そこまで自分のことを考えていてくれていたのか!)
 そう思うと、渋谷孫太夫は感動して泣き出した。
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