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<本文から>
かれの経営法は前に書いたように、かなり画期的で敵側にも目をみはらせるものがあった。これはズバリいって現在の、
○国際化の波を正しくうけとめ、
○徳川幕府の近代化をほかり、
○そのための合理化・OA化をすすめた。
といえる。OA化のために特に技術革新″に力を注いだ。
ここまではいい。が、問題がある。それほ、
○社員(幕臣)全体へのこの意志のPRが行きとどかず、その意識変革が不徹底だったことである。
早くいえば、「慶喜ひとりがわかっていて、どんどんすすめた」ことが沢山あったということだ。そばにいる者の中でも、小栗上野介や栗本鋤雲など、一部の親仏派をのぞいては、改革の様相は、何が何だかよく理解できなかったにちがいない。
アレヨアレヨという間に、フランス流改革がどんどんすすめられた。いまもまったく同じだが、「新しいこと」あるいほ、「あまり気の乗らないこと」が職場にもちこまれると、従業員は、「なぜ・いま・自分たちが・この仕事をやらされるのか〜」という疑問をもつ。
この、
○なぜ?
○いま?
○自分たちが?
という三つの疑問に、的確に答えるのがリーダーの仕事だ。慶喜はそれをしなかった。もちろん、ヒラに伝えるのは、トップの意を体したミドル(中間管理職)の仕事だが、わるいことに、慶喜にはいいミドルがいない。いてもバラバラでまとまりがない。ミドル同士の連帯がない。これも幕府崩壊の大きな原因である。
だから、慶喜の意図を伝える、つまりトップ・ダウン″のためのパイプと回路がない。情報や指示が不整脈に流れて行く。こういうとき、組織に発生するのは、「疑心暗鬼」「裏よみ」「カングリ」などである。たとえそんなものがあっても、トップ・リーダーとその補佐陣が三つのE、即ち、
○つまらない仕事を面白くする(エンターテインメント)。
○暗く沈みがちな職場を楽しく明るくする(エンジョイメソト)。
○ひとりひとりの人間に生きがいを与え、コーフソさせる(エキサイティング)。
を持っていれば、これは吹きとぶ。つまり、リーダーに、「エレイントメソト(まきこみ現象)」を起こすだけの、つむじ風的指導力があれば、問題はない。
が、慶喜の下にはそういうミドルが少ない。勝海舟はそのひとりだろうが、慶喜は大の勝ぎらいだ。「あの男は、維新後にいろいろいっているが、事実はかなりちがう」
と語っている。そのくせ、息子の精を勝の養子にする。
どうして、幕末の特に慶喜をトップとしたときの幕府は、こういうていたらくになったのだろうか?
ここに、慶喜自身の経営者としての人間性が出てくる。
結論からいえば、かれほ、幕末のパリジャン(パリ?伊達男)≠ナあり、それが当時の日本人と幕臣によく理解されなかった、ということだ。つまり、
○かれはフランスから金を借りて、フランス流の改革をおこなったが、世間と幕臣のかなりの人間が、マユをひそめていた(和宮ほそのいい例)。
○時代の流れを先読みするかれは、それに対応するように方針を変えた。が、この姿勢は変節漠とみられた。かれにすれば、いま流行のソフト(柔軟)思考≠セったが、世の中はそうはとらなかった。
○かれ自身、短気でこらえ性がなく、また、人の好き嫌いがはげしかった。いくつものエピソードが残っている。
もちろん、トップといえども人間だ。その属性に欠点があるのは当然だ。が、かれの場合にはそれを矯めるいい補佐役がいなかった。むしろ、将軍になる前は、平岡円四郎や原市之進がいたのに、皆、早く死んでしまった。これも慶喜の悲劇だろう。
そして、何よりも悲運だったのは、かれがこの歴史的幕引き″をやったのは、まだ三十二歳だったという、年齢の若さである。いまなら、六十、七十の百戦錬磨の実年者のやる仕事である。
しかし、一方の攻める側も、皆三十代である。そう思うと、「維新は若かった」という思いがつのる。政治が若かったのである。
このため、慶喜はこのあと、四十五年もの歳月を送ることになる。栄光と悲惨とを、ふたつながら経験したかれは、その後の日本の経営にほ一切ロを出さない。
大正二年(完三)十一月二十二日、七十七歳で死んだ。 |
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