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<本文から> 「今も同じだと思うが、船の底倉は小さな個室に分かれている。機能別にそれぞれ分断されている。これを、
「船底の論理」
という。船底の論理とい、つのは、たとえばA、B、C、Dというように機能別に職場が分かれていた時、不測の事態によって、A室の璧が破れどつと水が入って来ることがある。その時、すぐA室とB、C、Dの境目の扉を閉じる。これは、
「船全体を救うためには、A室をたとえ頼牲にしても、他の横能の安全を保つ」
という論理に基づいているからだ。したがって、たとえば水の入って発たA室にそこで働く人間がいたとし、他の部屋との境目に設けられた速断壁が降りてしまった時、ガリガリとその扉を引っかいて、
「助けてくれ!」
と叫んでも、他の室はこれを見殺しにする。扉を開けて、A室の人間を助ければ、そこに充満している水が他の部屋にどつと流れ込むからだ。非情だが、これが、
「船底の論理」
である。徳川家康はこの盛底の論理一の活用の名人だった。したがって、
「ナニナニちゃん、いる?」
と開き、相手がそうだと答えると、
「君だけに話すけどね」
と言うことは、
「そこのパートは、君の責任において最後まで守り抜け」
という意味合いを込めている。
徳川家康は武田信玄を尊敬していた。信長と協同して武田氏を滅ばした後も、かれは信玄の軍法や、軍団の編成法、人事管理術などを多分に採り入れた。また武田二十四将といわれた勇猛な信玄の部下の一人、山県三郎兵衛昌景は、自分の部下の軍装をすべて”赤備え”として、武具や旗を朱色に揃えていた。家康はこれを徳川四天王といわれた井伊直故に、
「今後井伊軍掃は、赤備えとせよ」
と命じて、山県の軍装を引き継がせた。
信玄に有名な言葉がある。
「人は城 人は石垣 人は堀」
というものだ。これはその後に続く、
「情けは味方 仇は敵なり」
という言葉によって、
「武田信玄は部下の丈ひとりを尊重する大変情け深い武将であった」 |
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