童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          徳川三代・諜報戦

■家康の分断、船底の論理

<本文から>
「今も同じだと思うが、船の底倉は小さな個室に分かれている。機能別にそれぞれ分断されている。これを、
「船底の論理」
 という。船底の論理とい、つのは、たとえばA、B、C、Dというように機能別に職場が分かれていた時、不測の事態によって、A室の璧が破れどつと水が入って来ることがある。その時、すぐA室とB、C、Dの境目の扉を閉じる。これは、
「船全体を救うためには、A室をたとえ頼牲にしても、他の横能の安全を保つ」
という論理に基づいているからだ。したがって、たとえば水の入って発たA室にそこで働く人間がいたとし、他の部屋との境目に設けられた速断壁が降りてしまった時、ガリガリとその扉を引っかいて、
「助けてくれ!」
 と叫んでも、他の室はこれを見殺しにする。扉を開けて、A室の人間を助ければ、そこに充満している水が他の部屋にどつと流れ込むからだ。非情だが、これが、
「船底の論理」
である。徳川家康はこの盛底の論理一の活用の名人だった。したがって、
「ナニナニちゃん、いる?」
と開き、相手がそうだと答えると、
「君だけに話すけどね」
と言うことは、
「そこのパートは、君の責任において最後まで守り抜け」
という意味合いを込めている。
 徳川家康は武田信玄を尊敬していた。信長と協同して武田氏を滅ばした後も、かれは信玄の軍法や、軍団の編成法、人事管理術などを多分に採り入れた。また武田二十四将といわれた勇猛な信玄の部下の一人、山県三郎兵衛昌景は、自分の部下の軍装をすべて”赤備え”として、武具や旗を朱色に揃えていた。家康はこれを徳川四天王といわれた井伊直故に、
「今後井伊軍掃は、赤備えとせよ」
と命じて、山県の軍装を引き継がせた。
 信玄に有名な言葉がある。
「人は城 人は石垣 人は堀」
というものだ。これはその後に続く、
「情けは味方 仇は敵なり」
という言葉によって、
「武田信玄は部下の丈ひとりを尊重する大変情け深い武将であった」

■八王子を拠点に徳川の新しい酒つくり

<本文から>
  家康の許可を得れば、あとは水を得た魚のようなものだ。正信は合戦は不得意だがこういう調略は大得意である。すぐ服部半蔵に話し大久保十兵衛を呼び出した。大久保十兵衛は四十五、六歳の中年者だった。正信はざっと自分の構想を話した。つまり、
「北条色の強い内陸部の切り崩し拠点として、入王子地域を標的にしたい」
という案である。けってみればそれは旧北条領内につくる”徳川系の新しい革袋”である。
「新しい酒は新しい革袋に盛る」
という古い言葉がある。正信はこれを口にして、
「入王子地域から、徳川という新しい酒をつくりたい。それには古い酒を全部洗い流す必要がある」
そう言った。大久保十兵衛は目を据えてじっと正信の話に聞き入っていた。かつて主人の武田信玄がこんなことを言ったことがある。
「おれが話をすると、部下は四通りの反応をする.ポカンとロを開けている者、おれの話の節々でいちいち領いたり、笑い返す者、途中で席を立つ者、そしておれの喉のあたりを見詰めてじっと話に開き入る者。ポカンと口を開けているのは、おれの話の内容に仰天している者だ。領いたり笑ったりしている者は、あなたのおっしゃる事はすべてわかりますという交際上手な者だ。途中で席を立つ者は、おれの話の中に何か身に覚えがあっていたたまれなくなった者だ。喉のあたりを見詰めて話に開き入っている者は、おれの話すことをいちいち吟味し、消化している者だ。これが一番役に立つ」
 そこでかれは上司の話を開く時は必ずその顔を見ずに、喉のあたりを見るようにしていた。顔を見ると表情が気になって、話の内容から心か離れてしまうからである。
(信玄公はそこまで人の心に通じておられた)
と十兵衛はいまだに信玄を尊敬していた。だから今も車信の誌の重大性に気付き、重信の表情を見なかった.
 正信の喉のあたりをじつと見詰めていた・正信の話が終わると、十兵衛は領いた。
「お話はよくわかりました。で、わたくしの役割は?」
「入王子を拠点にして、多摩地域一帯の北条色を消してもらいたい」
「大役でございますな」
「おぬしをらやれると思う。大久保忠隣棟のご推挙だ」
「しかし」
大久保十兵衛はニヤリと笑った。が、その笑い方を見て正信は、
(この男はすでに策を持っている)
と感じた。そこで、
「策があれば話してくれ」
と脇の服部半蔵を見た。半蔵も腕を組んで射るような視線を十兵衛に向けていた。十兵衛はたじろぎもしなかった。
「では申し上げます」
この時大久保十兵衛が話した策というのは次のようなものだった。
・織田信長・徳川家康連合軍によって武田家が滅ばされた時、信長の武田処分は非常に過酷だったが、家康の処分は寛大だった。たとえば、膠頼の首実検に際しても、信長はまるで勝頼の首を鞭で叩くような態度を取り、罵った。これに対し家康は地の上に正座し、懇ろに勝頼の首に手を合わせた。したがって、武田家の遺臣たちは徳川家康にひとかたならぬ敏愛の念を持っている。
・家康は、武田の遺臣の中から二百五十人を選び、これをお小人組と名付けて自領となった甲斐国内の管理にあたらせている。
・このお小人組をそっくり入王子に移し、さらに武田の旧臣を二宮五十人採用して人数を五百人に増やす。新採用者の二宮五十人の中には、甲州スッパをほとんど加える。
・新しく編成した五百人隊に上って、多摩地域一帯を徹底的に捜索する。個人宅に蕗み込む時は、万歳のような芸能も活用する。
・とくに標的は風塵小太郎の率いる相州乱波なのでこの撲滅に力を尽くす。それには、風魔一族が、徳川家の討伐を受けるような違法行為をするように仕向ける。
というようなものである。
 正信は服部半蔵と顔を見合わせて目で領き合った。大久保十兵衛の行き届いた策に感心したからである。正信は言った。

■八王子千人隊のはじまり

<本文から>
  風魔小太郎−味を追い回しているうちに、本多正信は服部半農や大久保十兵衛と相談して方針を再び修正した。それは、
 「八王子に集めた五百人隊をさらに五百人増やし、千人とし、その中には北条家の遺臣も加えよう」
ということであった。これは徳川家康の判断だった。家康は正信から大久保十兵衛や服部半蔵たちの活躍ぶりを開いたが、必ずしもその成果が思わしくないことを知ると、
「部下に無駄な能力を割かせるのは控えよう。それよりもかれらを抱こう」
 と言った。これは家康の、
「占領地域の遺臣に対する懐柔策」
 であって得意とするところだ。正信も家康のその方針はよく知っていたから従った。
 やがて八王子には、既組織の五百人隊に、新しく5百人が増員された。その主たるものは、旧北条家の遺臣が多かった。もっと抵抗するかと思ったが、北条家の遺臣たちは割合に素直に参加した。やはり、再就職の喜びは深かったのである。こうして千人になった組織は、
 「八王子長柄同心」
 あるいは、
 「八王子千本槍衆」
 と呼ばれた。かれらは屋敷を与えられ、扶持ももらった。隊長株は最高五百石の知行を受けた。ほとんどの隊士は同心扱いを受けたが、他の同心職とは違って、八王子近辺の村落に居住した。そして普段は農耕に徒事した。これはそのまま大久保十兵衛の提案によって、武田信玄の時代にあった、
 「山道農兵隊」
にならったものである。八王子千人同心は、その後朝鮮での戦い、関ケ原の合戦、さらに大坂冬の陣・夏の陣に従軍する。また、大久保十兵衛の得意とする「城造り」や「都市づくり」の手足となって、京都の二条城・伏見城の再建案、駿府城の増築、江戸城の修築などに従事している。
 これらの城の建築や修築の総指揮は、藤堂高虎が執っていたので、入王子千人同心はその指揮下に入った。

■豊臣系大名の徹底的な相殺のために柳生一族を使う

<本文から>
  家康はこの時すでに、
 「徳のない政権である豊臣政権を滅ばすことは、決して反逆ではない。豊臣家を滅ばしても、おれは主人殺しの罪には問われない。そのことは、おれが天下人になった後に、徳のある政治を行えばそれで済む」
 という理論立ても行っていた。しかしいきなり豊臣秀頼に喧嘩を売るわけにはいかない。豊臣家を滅ばすのはもう少し先になる。その前にやることがある。それは、
「豊臣系大名の徹底的な相殺」
である。
 それには、いま佐和山城で謹慎している石田三成をもう一度引っ張り出し、かれに謀反の兵を挙げさせることが必要だ。それには囮がいる。家康の頭の中はくるくると回転した。かれはこの仕掛けに、柳生一族を活用するつもりでいた。伏見にいて、かれは柳生一族の有用性をしみじみと感じていた。服部半蔵とはちがった本来の忍びの術を駆使する柳生宗厳の伊賀者・甲賀者の活用法は、この時の家康の考えにピタリと当てはまっていた。

■家康は上忍中の上忍、豊臣家を善人とし、徳川家が悪人になる噂を撒いた

<本文から>
  この二、三年の間における家康の謀略性はまきに、伊賀考や甲賀名のいう
「大御所様は上忍中の上忍だ」
という本領を遺憾なく発揮している。上忍というのは忍者仲間にいう、
 「頭脳人」
のことで、自ら作戦を立てそれを中忍や下忍に実行きせるという立場にある忍者のことだ。
 家康がこの頃上忍として多くの諜者たちに命じたのが、
 「まもなく戦争になるという空気を煽り立てろ」
ということであった。戦争勃発の不安感を植え付けろということである。そしてさらに、
「五山の僧の方広寺慧に対する解釈が、牽強付会の説であり、その背後には徳川家のごり押しがあるという噂を撒き散らせ」
 と命じた。これは、豊臣家を善人とし、徳川家が悪人になるということだ。そういう図式を世間に与えて、いよいよ豊臣家の戦意を煽ろうということであった。
 豊臣家はこれに乗った。つまり、
 「世論はわれわれの味方だ」
という認識に立った。そこで、大坂城下の米を全部城内に運び込んだ。また近隣からも糧食を徴発した。同時に、故豊臣秀吉恩顧の大名たちに来援を請う文書戦に出た。これは主として豊臣秀頼、淀君、大野治長、織田有楽斎妄肇などが、それぞれ署名者となって濫発した。同時に、関ヶ原の合戦で家を漬されたり、あるいは石田側西軍に味方したために職を失っている浪人武士を次々と高禄で召し抱えた。しかし、豊臣方から文書をもらった大名たちのほとんどが、
「とんでもない」
という気持ちで要請には応じなかった。逆に、
「こんな文書を受け取った事が知れたら徳川家に憎まれる」
と案じ、文書とともに、
「徳川将軍家に対し異心は毛頭ごぎいません」
と誓紙を出す者が次々と続いた。関ヶ原合戦で徳川軍の先鋒に立った福島正則(広島城主はかつて豊臣秀頼が徳川千姫と結婚した時には、西国の全大名に、
「秀頼公に異心のないことを普え」
といって血判書を出きせるくらいの斡旋もした。

■秀忠は駿府機関を消し江戸城内に陰部分を作った

<本文から>
  「わたしは透き通った江戸城「そして透明な政策決定を望んではいるが、それが代がかわったからといって、すぐさま実行できるとは思っていない。おまえがいう陰の部分や黒い部分は依然として江戸城内に轟いている。だからそういう黒い部分や陰の部分に対応して行くためには、こっちもそういう横能や手段を持つことが必要だ」
「そこまでおわかりなのに、なぜ駿府城にいた連中を全部解雇なきいますか」
「代わりが見つかったからだ」
「代わり?」
「そうだ」
秀忠は領いた。利勝は言った。
「よくわかりませぬ」
「利勝よ、わからぬふりをするな。父が駿府城にお集めになっていた黒い部分、陰の部分は今度はおまえたちが肩代わりするのだ」
 「はあ!」
 今度こそ本当に驚いて利勝は秀忠を見返した。秀忠はニコリと笑った。こう言った。
「駿府城の連中を解雇することによって、いわゆる駿河機関は消えた。駿河機関を消すことによって、今後は幕府の政策形成とそれを実行する手足とは江戸城内において一体化した。したがって、政策立案に携わるものは、それを自ら行う義務を負う。そのことは合わせて、陰の部分、黒い部分も自分たちがその用を足さなければいけないということだ」

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