童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           徳川家康の人間経営 人を動かし組織を生かす

■”頭″と″胴体″を切り離した「分断」戦略(家康の人間学と経営理念)

<本文から>
 つまり、徳川企業におけるCIはあくまでも「信頼されること」であり、それを保持するための戦略を彼は駆使したのだ。
 戦略というのは、
○いったん世間に湧いた「徳川家康は信用できる」という評判を、家康だけでなく、家康の部下全員が自分の責任として保持していくこと。
○徳川家がどんな危機に陥っても、信頼を失うようなことだけは絶対にしないこと。
○そのためには、家臣団がほかの大名家に見られないような結束力を持つこと。つまり、家臣同士が強い信頼感でスクラムを組むこと。
 などであった。しかし、信長の破壊期、秀・吉の建設期は、割合にリーダーシップも取りやすい。信長は、ダソプカーのような管理を行ない、そのリーダーシップは″恐怖″を使った。秀吉は、現場のモラールを上げることに力点を置き、いきおい、ニコボン戦術(笑いながら肩を叩き、巧みに味方に引き入れること)や褒美のばらまきで部下たちのモラールを高めた。そこへいくと、維持管理期の戦略やリーダーシップは難しい。

■彦左衛門は遅れた部下の典型(家康の人間学と経営理念)

<本文から>
 三河のいじましい土豪の息子が、いまは途方もない野望を持ってこの国に君臨しようなどと志していることを、彦左衛門は露ほども予想しなかった。家康の変質に気づかなかった。江戸に入って以来、なぜソロバソ勘定に明るい新興官僚がつぎつぎと登用されるのか、彦左衛門にはわからなかったのである。主人の家康が、「江戸経営」の背景をどこに置いているのか、忠臣を以て任じていながら、それを付度しなかったのは、彦左衛門の怠慢である。社会情勢の変化に伴い、トップは社会から何を求められているのか、また、そうなったときにトップは部下にどういう能力を求めるか、そこに着目しなかった彦左衛門は、それだけで忠臣の資格を欠いた。
(主人は、何をしたがっているか)
 ということは、忠実な部下なら当然、以心伝心で悟らなけれはならなかった。その回路を彦左衛門は家康との間に設けていない。だから、彦左衛門は、家康にとって、けっして自分で言うほどの忠臣ではなかった。鳶の巣文殊山のころならいざ知らず、少なくとも家康が江戸に入ってからあとは、むしろ、遅れた部下の典型であった。

■民心の求めに応ずる家康(家康の人間学と経営理念)

<本文から>
 そういうものの、家康は天正十八年の江戸入りの段階ですでに、体系的・総合的な江戸経営策を持っていたわけではない。意外なほど、家康は自分の行動基準を、「世論の動向」に置いている。つまり、自身を民心の求める方向に従わせるのだ。家康の政治に対する態度は、
「聞くことは天下の耳、見ることは天下の日、理は天下の心。この三をとって是非を分明にし、身を摘みて人の痛みを知って、政道する善政なり。代々太平の根元と知るべし」
ということにあった。一見、代の民主主義的政治家を思わせるが、もちろん家康はそんな甘い人間ではない。
 彼の胸中には徳川家の政権担当の恒久化しかない。しかし、そのためには、民心の求めに応ずることがもっとも近道であることを知っていた。簡単に言えは、「民は、この家康に何を求めているか」を的確に知り、確実にそれに応えることであった。もっと砕いた表現をすれは、民の欲しがるものを与えるということだ。 大きく言えは、この国の民は応仁の乱以来、平和を求めている。元亀・天正からは、その平和に、社会秩序の安定が加わった。信長と秀書は、その社会秩序を一応は安定させた。が、平和ということになると、ふたりとも、民の目から見てはなはだ不安だった。ふたりは明らかに外国侵略を頭に置いていたし、秀書は現実に朝鮮に攻めこんだ。家康は、応仁以来まだ満たされていない、この民の平和希求に応えることを根気強く考えていた。皆、忘れているが、民のほうは忘れていない。それに民は疲れていた。休息が欲しかった。家康はこの世論に従いながら、自身の権勢欲を巧みに組織化することを思い立っていた。
「人の痛み」を知るとは、政策を肌理細かくするということだ。政策を肌理細かくするということは、あらゆる地域の実態を知り、そこに轟く人間の欲望を把握するこどである。

■家康が友人をもたない理由(人間通が人を動かす)

<本文から>
 家康がこれまで友だちをけっして持たなかったのには理山があった。家康の人生哲学からすると、友だちほどあてにならないものはないからだ。
(友だちとはいったいなんだろう?)
 と家康はよく考える。それは、人質になっていた子供時代からの経験である。そして彼は、特に貸借関係がからむと、友情というのは、あっけなく割れてしまうことを何度も経験した。やがて彼は、
「必要なのは部下だけだ。政略上、主人として立てる人間は必要だが、友だちなどひとりもいらない。友だちというのは、害あって益なきものだ」
 という極端な考えを持つようになった。だから彼の経営方法の中では、友だちを何かで煩るということはけっしてなかったのである。
 しかし、部下も″必要″なのであって″信用″するということではない。

■秀忠の新機軸・独自性(後継者選び)

<本文から>
  秀忠の江戸での経営は、たしかに家康が駿府でつくった案を実行することが多い。しかし、秀忠はその実行過程で、つぎのようないくつかの新機軸を加えた。
〇公の文書には、いっさい徳川家康の名は使わない。すべて徳川秀忠の名で出す。
○駿府からの指示は原則である。実態に即して、おかしいところは修正する。
○修正は、徳川幕府の威力が増すような、″付加価値″の創造を伴わせる。
○実施は公正を旨とし、私情に駆られた特例を設けない。
 ざっと見れは、なんということはない。が、この方針を貰けは貰くほど、天下に上がるのは、徳川幕府の威勢であり、将軍徳川秀忠の名である。家康の名ではない。
 もうひとつ、秀忠が家康と灘れて、独自に行なったことがある。それは、
○直臣団の養成。
 である。秀忠には、家康のつけた日付的ブレーンがたくさんいたが、それはそれとして尊重しながら、秀忠は子供のときからの″ご学友″を中心に、「秀忠に忠義を尽くす家臣」の養成を心がけた。

■部下を使うのではない。部下に使われるのだ(後継者選び)

<本文から>
 「部下を使うのではない。部下に使われるのだ」
 家康は″人を使う″ のがうまかったが、考忠は″人の心をつかむ″のがうまかった。
 目の前で緊張しすぎた部下がへマをやらかすと、突然、居眠りをしたり、いつも、
「部下を使うのではない。部下に使われるのだ」
 と公言したりした。また、
「一度信じた部下は、どんな悪評を立てられようと信じ抜く」
 と言いつづけ、実行した。
 細かく注意すれは、これらのすべては父家康のやり方とは反対だ。家康ほ、
○まず、人間を疑ってかかる。
○部下同士、疑心暗鬼で牽制させる。
 という″分断支配”の名手だ。秀忠の管理方法に人気が出るのは当然だ。かつて家康に仕えていた老も、秀忠の部下になって、
「先代よりも二代目のほうが好きだ」
 と言い出す者もいた。″秀忠人気″は確実に上昇していた。

■秀忠は自分の資質を生かした(後継者選び)

<本文から>
 「秀忠様はご性格が温和であられる。これからの世の中は、いたずらに武力を誇るような人物ではなく、徳望によって人々を魅きつける資質が必要です」
 という項日があった。秀忠はこれを利用しょうと考えた。ということは、
「自分が生まれつき持っていると言われる徳量を、さらに増やして発揮することだ」
 ということである。彼は自分の生き方をこの一点に集中した。
「それが、二代目としての俺の生き方なのだ」
 そう決めてしまうと、大きく道が開けた気がした。
 以下は、徳量を再生産し付加価値を生ずることによって、持ち前の徳望を人々に印象づけようとした。

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