童門冬二著書
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          田沼意次と松平定信

■田沼と松平の政策差は、徳川吉宗が展開した「消極政策と積極政策」を二分したもの
<本文から>
 かれ自身も、長崎港からめずらしい天体望遠鏡や、雨量計を買い込んだ。江戸城の庭にこれを備えて星を眺めたり、あるいは雨の量を測ったりした。雨量計をみて小て、「この分だと利根川が決壊するぞ。すぐ手当てをしろ」などと命じたこともある。したがってかれは頑迷な鎖国主義者ではない。積極的に外国のすぐれた科学書や器械を輸入しょうと考えた将軍だ。いってみれば、かれの政策には、
・米の増産を目的とする重農主義
・日本の科学水準を高めようとする重商主義
 の二つがあった。
 そして、孫の松平定信は祖父の重農主義に主眼をおき、田沼意次は真の重商主義に主眼をおいたということだ。田沼意次もまたかつては和歌山藩士だった。足軽だったという。あるいは、燃料を扱う下級役人だったという。父の代に、吉宗について和歌山城から江戸城にやって来た。身分が幕臣に変わった。意次は子どもの時から才幹禁だったので、吉宗に愛されれトントン拍子に出世していった。やがてかれは老中筆頭になる。
  世人が、
 「泥沼と白河」に例えた二人の政策差は、必ずしも根っこが違ったわけではない。すなわち、徳川吉宗が展開した、
 「消極政策と積極政策」を二分し、消極政策を松平走信が担当し、積極政策を田沼意次が担当したということだろう。消極・積極というのは、
 「経済(あるいは商業)に対して」
 という意味である。
 徳川時代の経済政策は矛盾があった。それは、幕府や各大名家(藩)の毎年の予算の単位が、
 「石」
 という表示によっておこなわれたことでもわかる。石というのは米の収穫高だ。だから、徳川時代に日本の経済を牛耳っていた武士の考え方は、
 「米価さえ安定すれば、他の諸物価も統制できる」という”米使い”あるいは”米経済”が主だった。だから、商人に対しては今でいう法人税や中米税はかけられていない。所得税もない。あったのは年貢と称する米が主体で、これが今でいえば主税だった。

■田沼は日本全国の産物に関心を持ち輸出した

<本文から>
  田沼は、
「外国品の国産化をはかるうえでも、資金が必要だ。それには、国内産品を高く外国に輸出することが一番いい」
 と考えた。
 かれは情報通だったから、交流する中国やオランダがどういうものを欲しがっているかを掴んだ。中国ではなんといっても料理に使う、フカヒレ、イリコ、コンプ、アワビなどが珍重されていた。田沼はほくそ笑んだ。
「こんなものは、日本の三陸地方からエゾにかけて、たくさん取れる。よし、これを輸出させよう」
 といって、これらの品物ができる地方の海産物を、どんどん長崎に出荷させた。
 出沼意次が、三陸地方のフカヒレ・イリコ・コンプ・アワビなどに目をつけたのは、もちろん、
 「隣国中国では、料理の材料として、こういう海産物を珍重している」
 ということからの発想だった。しかしこれは田沼意次が、単に江戸を拠点とする中央政治だけにのめり込んでいるわけではなく、
 「日本全国の産物に関心を持った」
 ということでもある。各大名家では、従来から、
「自国の名産品」
  といって、将軍に折々に献上品を届けた。将軍はこれを全部払するわけではない。気に入った大名や、側近に与えた。ときには、
「大名の献上品の展示会」
のようなものを開く。そうなると、各大名もこれを見て、
「ああ、あの大名家ではこういうものができるのか」
 と思う。さらに同じ品物でも、
「なるほど、こういう加工の方法があるのだな」
とヒントを得たりする。だから、そこで得たヒントを今度は自分の国に戻って活用する。品質はさらに高まる。そういう相乗効果があった。

■「寛政の改革」の主要政策には老人福祉対策、軽犯罪者の更生政策がある

<本文から>
  松平定信が「寛政の改革」で立てた主要政策の柱の中に、
「老人福祉対策」
がある。また、
「軽犯罪者の更生政策」
 がある。
 前者は祖父の徳川吉宗が江戸町奉行大岡越前守に創設させた「小石川養生所」の整備拡充であり、後者は江戸前の良に設けた「人足寄場」の創設である。
 和歌山藩主だった徳川吉宗は、八代将軍となって江戸に乗り込んだ時、江戸幕府の組織と人事にはまったく手をつけなかった。かれは、
 「将軍であった間に一度も部下を叱ったことがない」
と言われる。だからといってかれは幕府の組織や人事をそのまま認めたわけではない。というのは、かれが将軍になった時、幕府がひどい財政難に陥っていたからである。原因は元禄バブル時代の放漫な幕政のとり方にあった。その時代の重職がそのままかれの指揮下に入った。本来なら、
「このように赤字を出したのは我々の責任でございますから、やめさせていただきます」
と言うのが普通だ。しかし老中たちはやめなかった。
 そこで吉宗は老中たちを罷免せずに、痛烈な口頭試問をおこなった。
「いまどのようなポストにあり、分担事務はどのようなことか。その分担事務についてどの程度の知識や技術を持っているのか」
 ということを徹底的に聞きただしたのである。現在で言えば、
「政府の閣僚として、主権者である国民に村し、どのような知識と技術を持って奉仕しょうとするのか」

■松平は公助・互助・自助の「三助」を基盤

<本文から>
 ・国民ひとりひとりが、自分で自分を助ける
 というように、公助・互助・自助の「三助」を基盤に置いた考え方といえる。
この
 「国民の権利と兼務のけじめをつける」
という政策は、定信のオリジナルではない。祖父の吉宗も同じことをおこなった。祖父の吉宗時代も、幕府はたいへんな財政難だった。しかし吉宗は半面において、積極経営をおこなったからどうしても資金が不足する。そこでかれは、思い切った手を打った。ひとつは、
・恥辱をも顧みず、全大名から醸金を求めた
ということと、
・国民に対しても、応分の負担を求めた

■国民はあまり定信の改革を支持していなかった

<本文から>
 当時定信は曲がりなりにも寛政の改革を成功させ、幕府財政にも多少の黒字を生じていた。しかし幕府が富んでも、かならずしも国民はゆたかにならない。市中ではこんな落首が流行っていた。
「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
「それみたか あまり倹約なすゆえに 思いがけなき不治の退役」
つまり、国民はあまり定信の改革を支持していなかったのだ。だから、
「前代の田沼さんは、汚職政治家だったかもしれないが、それだけ経済を成長させてくれた。田沼さんのときのほうが、いまよりよっぼどわれわれはくらしが楽だった」
という生活実感がみなぎつていた。おそらくこれが土台となって、たまたま起こつた尊号事件が導火線となったのだろう。松平走信が失脚じたのは、寛政五(一七九三)年七月のことである。
 定信はこのとき三十六歳だった。老中になったのが、天明七(一七八七)年六月のことだったから、任期はあしかけ七年になる。いまの特別職政治家の任期四年から考えると、二期に満たない期間総理大臣を務めたことになる。しかし定信はさっさと自分の藩地である奥州白河に退いた。
「これからは、白河藩で自分の考える行政を思うようにおこなうことができる」
と考えた。かれが隠店するのは文化九(一八一二)年のことだから、その後もかなり長い間白河藩政の指揮を執ったことになる。

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