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<本文から> かれ自身も、長崎港からめずらしい天体望遠鏡や、雨量計を買い込んだ。江戸城の庭にこれを備えて星を眺めたり、あるいは雨の量を測ったりした。雨量計をみて小て、「この分だと利根川が決壊するぞ。すぐ手当てをしろ」などと命じたこともある。したがってかれは頑迷な鎖国主義者ではない。積極的に外国のすぐれた科学書や器械を輸入しょうと考えた将軍だ。いってみれば、かれの政策には、
・米の増産を目的とする重農主義
・日本の科学水準を高めようとする重商主義
の二つがあった。
そして、孫の松平定信は祖父の重農主義に主眼をおき、田沼意次は真の重商主義に主眼をおいたということだ。田沼意次もまたかつては和歌山藩士だった。足軽だったという。あるいは、燃料を扱う下級役人だったという。父の代に、吉宗について和歌山城から江戸城にやって来た。身分が幕臣に変わった。意次は子どもの時から才幹禁だったので、吉宗に愛されれトントン拍子に出世していった。やがてかれは老中筆頭になる。
世人が、
「泥沼と白河」に例えた二人の政策差は、必ずしも根っこが違ったわけではない。すなわち、徳川吉宗が展開した、
「消極政策と積極政策」を二分し、消極政策を松平走信が担当し、積極政策を田沼意次が担当したということだろう。消極・積極というのは、
「経済(あるいは商業)に対して」
という意味である。
徳川時代の経済政策は矛盾があった。それは、幕府や各大名家(藩)の毎年の予算の単位が、
「石」
という表示によっておこなわれたことでもわかる。石というのは米の収穫高だ。だから、徳川時代に日本の経済を牛耳っていた武士の考え方は、
「米価さえ安定すれば、他の諸物価も統制できる」という”米使い”あるいは”米経済”が主だった。だから、商人に対しては今でいう法人税や中米税はかけられていない。所得税もない。あったのは年貢と称する米が主体で、これが今でいえば主税だった。 |
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