童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          大政奉還・徳川慶喜の二〇〇〇日

■維新のプロセス、個人の組織化

<本文から>
  井伊大老が断行した安政の大獄は、実をいえば幕末維新史の展開に重大な意味を持っている。
それはなんでもそうだが、世の中が変革されるときは、
●個人の有識者が批判の説を唱える
●この批判の説に共鳴した人びとが、グループをつくりはじめる
●グループは行動をはじめる
●つまり個人の主張がグループという組織に変化していく
●そしてこれが強烈なパワーを生み、さらに拡大強化されていく
 というプロセスをたどる。井伊大老の安政の大獄は、このプロセスの進行を止めてしまった。
 つまり、
 「個人の組織化」
 が、強化拡大される前にその芽を摘んでしまったのである。したがって、その後の倒幕運動は、個人や小グループの活動は日立たなくなる。代わって進出してくるのが、西南の雄藩だ。だから最初にいまでいうオピニオンリーダーたちが唱えていた主張は、とりこまれたことになる。明治維新はいうまでもなく、
「西南雄藩の組織としての迎合による連合王組織」
である。幕末に芽生えた、
「個人としての有識者の連合組織」
が功を奏したわけではない。そう考えると、井伊の安政の大獄はいわゆる個人の志士たちに、
「誰も頼りにならない」
という絶望感を与えた上で非常な効果があった。井伊自身が嫌った、
「処士横義の芽」
は個人レベルにおいては完全に摘まれてしまったからである。その後は、
「雄藩の志士と志士の連合」
が代わって時代のイニシアティブをとりはじめる。 

■慶喜は朝廷派と幕府側の谷間に立たされた

<本文から>
「一橋慶喜も松平慶永も、島津久光の強引な交渉によってそれぞれの職についた人物」
 という風評は日本全国に広まっていった。いってみれば、
「一橋慶喜も松平慶永も、京都朝廷派であって、幕府側の人間ではない」
 というレッテルを貼られてしまったのだ。このレッテルの貼られ方が、その後の一橋慶喜の、
「自分がほんとうにやりたいことと、まわりから押しっけられてやらされること」
 のあいだに大きな差異を生じさせることになる。いってみれば一橋慶喜は、
「政治家として、つねにこの矛盾の谷間に立たされた人物」
 であったのである。

■慶喜はどちら側か疑問を持たれた

<本文から>
「一橋慶喜様は、一体どちら側の人間なのだ」
という疑問は慶喜が将軍後見職のポストについてからずっと持たれている疑問だ。それに対して慶喜は明確な答え方をしていない。というよりも、酒井たちのいう、
 「あちら側」
に立つことが多かった。慶喜のいまの行動はほとんど孝明天皇の命によるものが多い。慶喜にすれば、
「将軍が年少なので自分がその代わりとして、帝のご命令に従っているのだ。それが公武合体策を実現する方法なのだ」
 という責務感がある。ところが公武合体策に力を入れれば入れるほど、江戸城の幕府首脳部は疑惑の念を深める。
「もともと一橋様は京都のご意志によって将軍後見職におつきになったのだから、江戸の上様のいわれることよりも京都御所のご意向を尊重される」
とみられている。
 参像会議を、
「京都につくった新しい政権」
とみ、
「一橋慶喜様は、京都の将軍様だ」
とみらているとは思いもしなかった。が、
「他人が自分をどうみているか」
ということは、こちら側ではどうすることもできない。それぞれの勝手なのだ。
 それに対し、
「違う、違う」
と強調してみても、違うといえばいうほどいよいよ相手側は疑いの念を増す。

■参像会議のしこり

<本文から>
 こののちの慶喜の行動は、この参像会議の山場を越えたときのしこりとの闘いになる。このとき慶喜二十八歳であった。ちなみに将軍徳川家茂は十九歳である。

■池田屋から禁門の変

<本文から>
「長州藩が雪冤のために大挙上京してくるのは時間の問題」
といわれていた。そんなときに事件が起こった。
「池田屋事件」
である。京都に潜んでいた過激派の志士たちが、長州雪冤のための起爆剤になる企てを立てて
●風の強い日に、京郁に火を放つ
●驚いて参内する中川宮や京都守護職松平容保を殺す
●天皇を奪い、長州に御動座を願う
●そして一挙に討幕の兵を起こす
などという内容を含んでいた。真木和泉が前々から唱えていた諭をさらに過激化したむのだ。
 この企てを、ふとしたきっかけから京都守護職の支配下にあった壬生の新撰組が知った。新撰組は志士の集結池である池田屋を襲った。斬殺七人、逮捕二十三人という結果を得た。
 この報が長州藩に伝わった。長州藩は憤激した。というのは、斬られたり捕まったりした志士の中に長州藩士がかなり混じっていたからである。
 激昂した長州藩は、上洛の時期を早めた。一部には高杉晋作や杜小五郎のように、
「そんな暴挙はやめろ。かえって長州藩は窮地に陥る」
と反対した者もいたが、しかしこういう場合は声の大きい者、あるいは暴挙を主張する者の論がとおってしまう。長州藩は京都への道を各方面からたどり、その一部がついに御所に突入した。
いわゆる、
「禁門の変」
 が起こった。このときの一橋慶喜の指揮ぶりは見事だった。おそらく彼の生涯で、もっとも成果をあげた一事である。

■慶喜は幕府の質と形の変革を考えていた

<本文から>
慶喜が考えたのは、
「新しい洒の醸造と、それを入れる新しい皮袋の作成」
である。新しい皮袋というのは、
「日本の国難を克服できる新しい政治力」
のことであり、新しい皮袋とは、
「その力を発揮させ得る新しい徳川幕府」
のことであった。つまり、
「徳川幕府の質と形を思いきって変革しよう」
ということだった。
報告によれば、
「薩摩藩はすでに長州藩と密約し、イギリスの力を借りて軍備増強に励んでいる」
 ということだ。薩摩藩はともかく、朝敵の汚名を被っている長州藩までが、イギリスと密貿易を行って兵器や艦船を買い込んでいるというのは許せない。そこで慶喜はこのことを朝廷に奏上して、
「もう一度長州を討たせていただきたい」
と申し出た。

■慶喜は下級武士のパワーを軽視していた

<本文から>
「孝明天皇様がご存命である限り、討幕戦を起こすことはできない」
と諦めていた。したがって孝明天皇が生きているあいだは、
「公武合体」
はかろうじて保たれていたのである。その大きな橋がなくなった。
 ここで一挙に討幕派の下級武士たちが力を得た。薩摩藩と長州藩が軍事同盟を結んだだけではない。土佐藩も結んだ。このころ中心になって活躍していたのは、薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、長州藩の桂小五郎、品川弥二郎、土佐藩の中岡慎太郎たちである。彼らはこもごも、和宮降嫁事件で罪を得て洛外岩倉村に閉居していた下級公家の岩倉具視の家に集まっては謀議をこらした。この段階になると、政局の主導力は、もう大名にはない。薩長といい土佐といっても、結局は藩の実権は、こういう下級武士に移っていたのである。このへんが、徳川慶喜があくまでも、
「既成の指導者層」
を主体に幕政改革を行おうとしていたのとは様相が違う。西南各雄藩は、
「もうトップ層はだめだ」
 と、自分の藩の上層部をも見放していた。これが、政治変革の強力なパワーになる。
 この事実を、あるいは慶喜も少し軽くみたかもしれない。彼は、
「現在の幕政改革と軍制改革さえ成功すれば、必ず長州藩を叩きのめせる。そしてさらに薩摩藩も叩き潰せる」
と信じていた。が、叩き潰されるべき長州藩や薩摩藩の中には、すでに、
「全藩民一致」
という新しい相乗パワーが生まれており、同時に、
「その主導力はすべて下級武士」
といういわば革命パワーが生まれていた。
 こういうパワーは、もう、
「なりふりかまわない」
という強みを持っている。形式よりも質を重んずる。したがって、岩倉邸における謀議は着々とすすんだ。それはすでに、
「王政復古」
を目標とするものであり、そのためには、
「武力倒幕も辞さない」
という軍事的策謀であった。つまり一時期島津久光が、
「薩摩藩の軍事力をもって、京都を制圧する。そして新しい政府をつくり、自分がその新政権の主導者になる」
 という野望が、そのまま下級武士に引き継がれたのであった。

■徳川慶喜は国際情勢にあかるく先見力のすぐれた存在

<本文から>
「年長・英明・人望」
の三条件を満たした、
「新しいタイプの将軍」
として、日本の政治に君臨したい違いない。慶喜にとっても、阿部正弘と島津斉淋の急死は、取り返しのつかない痛恨事であった。そのために彼は最後まで、
「あちら側で立てられた後見職そして将軍」
と、江戸城の連中から特別な目でみられ続ける結果になってしまった。
徳川慶喜は
「国際情勢にあかるく、先見力のすぐれた存在」
である。彼は、
「世界はどう変わっていくのか、その中で日本はどう変わらなければいけないのか、そのためには日本の政府と政治はどうあらねばならないのか」
ということを自分なりにみぬいた。しかしその先見力に対し、共についてくる部下が少なかった。徳川官僚が育っていなかった。そういう徳川官僚を育て得たのはやはり阿部正弘である。彼は急死はその意味においても、慶喜にとっての最大の痛恨事であったろう。

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