童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           童門冬二の"出処進退"の研究 男の生き方、闘い方

■伊達政宗が東北に築いた文化、伊達者の由来

<本文から>
  のちに″伊達者”といわれるようなダンディズムは、すべて政宗が発明したものだ。彼の軍勢は行進するとき、常にきらびやかな服装をした。彼の軍勢が上洛すると、市民たちは、家の中から飛び出して見物するのを楽しみにした。
”伊達衆”の名が起こった。何をやっても伊達の軍勢はパフォーマンス活動に励んだ。政宗が、上方権力に対抗しながら、しかし、逆らわずに生きていく道が”伊達イズム”であった。それは、織田信長に発する「衣食足りて文化を知る」の実現であった。
 安土・桃山精神は政宗によって着実に、東北の一角に根づいたのである。しかし、それは単なる模倣ではなくて、政宗が東北の地域特性をふまえながら、安土・桃山文化ない自分なりの付加価値を加えた文化であった。その文化は、いまも脈々と生きつづけている。

■周囲との和を大事にした技術者・藤堂高虎

<本文から>
 上下関係のなかで「疑い」が牡まれたときの心得
 ふつう技術者というのは、世事に疎いといわれる。まら、あまり人のいうことをきかない。その意味では、人間には二つのタイプがある。
(1)Aタイプ ゼネラリストといわれる一般的な仕事に携わっている人々。仕事の関係から、人間関係を重視する。だから職場においても「人の和」を重視する。
(2)Bタイプ スペシャリストといわれる技術的・専門的な仕事をしている人々。仕事の関係から、自分の知識や技術に自信をもっているので、あまり人間関係などということを考えない。
 つまり、Aタイプが、あくまで「人の和」「職場の和」を重視しながら仕事をしていくのに対して、Bタイプは、「自分の知識と技術」を中心にして、仕事をしていく。
 だからAタイプは、Bタイプに対して、「職場に対して協調性がない、秩序を乱すし、自分勝手なことをする」と批判する。ところが、Bクイプのほうは、逆にAタイプをこう批判する。「人の和だとか職場の和だとか、そんなくだらないことばかりに神経やエネルギーを使っていて、肝心の仕事は疎かになっている。おまえたちはお粥の群れだ」という。
 お粥というのは、本来米粒であったはずのもりが、鍋の中でぐつぐつと煮られて、自己のアイデンティティーを失っているということだ。したがって、権限や責任が曖昧になっている。そして、何が起こっても、その責任の所在がよく分からないような巧妙な仕組みになっている、ということだ。
 だから、Bタイプは、「おれたちは握り飯であり、またオーケストラだ」などという。握り飯は、握られていても、一粒一粒の米が「おれは米だ」というアイデンティティーをきちんと示しているからだというのだ。また、オーケストラでは、チームプレーも必要だが、それ以上に、個人プレーがきちんとしていなければ、いい音がでてこない、というのだ。社会で、どっちがだいじが、一概にはいえない。両方ともだいじだ。
 藤堂高虎が目指した道からいえば、技術者である。だから高虎も、技術者特有の「自己信仰」が強くて、ほかとの協調性を欠くような人物かもしれない。しかしこれは違う。高虎ほど、人の心を見抜き、また、周囲との和をだいじにした大名はいない。それがまた、彼を成功させた大きな原因になっている。
 高虎に、いくつかのエピソードがある。その最大のものは、彼がいつも、「小さなことは大きなことと、大きなことは小さなことと心得よ」といっていたことだ。つまり、小事が大事のフィードバックである。小さなことだと思って、油断していると、意外と大事になることがある。
 小事は大事と考えよ。逆に大事にぶつかると、疎んだり怯んだりしてしまって、逆に失敗してしまう。「こんなことは、たいしたことはない」と思うことである。そうすると、意外と大事もみごとに解決することができる。

■毛利元就の三本の矢、本家を補佐するように頼んだ

<本文から>
  ふつう伝えられきた「三本の矢」の話は、死に面した元就が、三人の息子を呼んで教訓を与えたことになっている。最初、元就は一本の矢を折った。そして、「矢も一本だとすぐ折れる」といって、次に三本まとめて折ろうとした。ところが折れない。元就は「矢が三本集まれば、容易には折れない。おまえたちも兄弟三人が心を合わせてこの矢のように協力してほしい」と伝えたという。
 だが、前にも書いたように、長男の隆元は急死していてこの席にはいない。同時に次男の元春も当時合戦中で、父の死には遭えなかったという。そうなると、元就の死をみとったのは、三男の隆景だけだ。それではこの話自体が成立しないのだが、真相は次のようなことだという。
 長男の隆元に死なれた元就は、すぐその跡を隆元の子、すなわち自分の孫に当たる輝元に継がせた。しかし、輝元はまだ子どもなのでおぼつかない。元就は、輝元の後見人になったが、それだけではも安心できない。それは、元就自身が老齢なので、いつ死が訪れるか分からないからである。
 そこで、ある日、元就は輝元の前に吉川元春と小早川隆景を集めた。そして三本の矢になぞらえて、元春と隆景に、甥の輝元を補佐するように頼んだ。これが、三本の矢の実話だという。
 おそらくそうであったに違いない。しかし元就が、二人の子どもをよび集めるついては、もっと深刻な理由があった。それは、本家を越えて、吉川家と小早川家が隆盛を極めはじめていたかわである。
 とくに、小早川家の伸長がすさまじかった、小早川隆景は、子どものころ父の元就が見抜いたように、頭が鋭く謀略の使い手でもあった。このため元就は、隆景に毛利家の渉外担当を命じていた。隆景はその方面でも活発な才気を見せた。
 水軍は常に打って出る。このため隆景の行動も、次第に増幅され加速度を加えた。また、彼自信も仕事がおもしろくてしかたがない。彼の勢力分野はどんどん広がっていった。これを見ても元就は心配してに違いない。いまでいえば、本社を凌いで支社がどんどん勢力を伸ばしていったことになるからだ。

■小早川隆景−急ぐことはゆっくり書け、人に好かれないと情報に疎くなる

<本文から>
  「急ぐことはゆっくり書け」
これは、隆景があるとき急ぎの文書をかくために、周りにいた部下に口述したときのことだ。
 ところが部下は慌てて、筆が震え、また筆の先から墨をぽたぽたと紙の上に落とす。そこで、これを見ていた隆景が「急ぐことほど、落ち着いて書かなければならない」と諭したという。また、「武士は、どんなに才能があっても、人に好かなければ、世間の情報にも疎くなる」といっている。
 隆景は、暇があるとよく部下の家の前を歩いたという。そして、ひっそりとしている家や、賑やかに人声がする家を見比べた。城に戻ると彼はこういった。
「どんなに才能があっても、人に好感をもたれず、お客も来ないような武士はだめだ。それは、人が集まらなければ、それだけ情報が入らず、世間に疎くなるからだ」といった。さらに、「人から話を聞いて、すぐに分かったという人間はだめだ。人の話を聞いても、自分が胸の中で、ああでもないこうでもない、と議論し、ああそういうことだったのか、と納得するまで人の話を吟味するようでなければ、ものの役に立たない」ともいったという。これは、説明するまでもなかろう。
 さらに、「自分の好きなことは、自分を毒する毒だと思ったほうがいい。逆に、自分のいやなことは、自分を育てる薬だと思うべきだ。人間の一生は非常に短い。だから、人によくいわれるのは難しいが、悪くいわれるない程度のことはできるはずだ」とも。

■織田信長−民衆に願望を実現を目指す

<本文から>
戦国民衆のニーズというものは、
(1)平和に暮らしたい
(2)豊に暮らしたい
(3)上昇したい
(4)秩序正しい世の中に住みたい
(5)安定したい
(6)いい人々に出会いたい
(7)人間として尊重されたい
(8)できれば、自己表現(パフォーマンス)
といった願望である。こういう民衆の願望を実現するために、信長自身が、大きな政策目標として、「衣食足りてのちに文化を知る」ということを考え出した。

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