童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史に学ぶ指導者の企画力 時代の転換点を乗り切るために

■小早川隆景−心せくことはゆっくり書け

<本文から>
 企画者が陥りやすいワナの最大のものが、「自己陶酔」だ。つまり、考えた案のすばらしさに自ら酔ってしまって、「早くこのことを他に知らせたい」というあせりが出る。このあせりが、企画書を書くときに誤りを生じさせる。つまり、急ぎすぎる文章を書いてしまうのである。同時にそれは、自分だけわかっているという欠陥を生む。
 小早川隆景は、毛利元就の息子だが、豊臣秀吉が最も信頼した武将である。秀吉の参謀は黒田如水が務めていた。ところが、如水は日本一鋭い頭脳の持ち主だといわれていたにも関わらず、秀吉には警戒されていた。カンのいい如水は始終そのことを気にしていた。あるとき、小早川隆景のところに来ていった。
 「自分でいうのもおかしいが、わたしはまあ頭がいい方だと思っている。ところが、どうも上様(秀吉のこと)にはお気に召さないらしい。ときおり叱られます。自分でもどうしていいかわからないので、あなたのお知恵を拝借したい」
 これをきいて隆景はほほえんだ。こう応じた。
 「それは、黒田殿の判断と決断が早すぎるからです。わたしは、凡人なので、ひとつひとつ小さな石を積みあげるようにして、案を練ります。おそらくその差でしょう。あなたは、決断力がすぐれているために、すぐズバリと物事をお決めになる。ところが、わたしはグズだから、かなり時間をかけてひとつの結論に到達する。その差ではないでしょうか」
 「なるほど」
 如水はうなずいた。そのとき、隆景はたまたま自分の案を口述して、部下に筆記させていた。
 ところが部下は、黒田如水という日本一頭の鋭い人物の前で、筆記させられているので、あがってしまっていた。そのために、しばしば書き違えた。勢い、狼狽する。当時、トップの口述を筆記させられるということはたいへん名誉な仕事だった。そのため街気もあって、書き手はいよいよ舞いあがってしまう。この様子を見ていた隆景はニッコリ笑った。そして書き手にいった。
 「おい、急いでいるときはゆっくり書け」
 部下は思わず隆景の顔を見返した。そして、はずかしそうにうなずいた。
 「わかりました」
  隆景は、こういうことをいった。
 「おれがいま何を話しているかを理解してから書け。わからないことは、聞き返した方がいい。わからないままにして書いてしまうと、結局はおれの案全体の意味をとらえることができない。いいか?」
 部下はうなずいて、筆を置いた。そして、しずかに隆景のいうことを聞き始めた。胸の中で反奏する。そして、わからなくなると、「今おっしやつたことは、どういう意味でございましようか?」と質問した。それに対して、隆景は親切ていねいに答えた。表表を、かみくだくようにして書き手に伝えた。書き手は、隆景が口述している間は筆をとらなかった。口述が終わると、ニッコリ笑って、「お話はよくわかりました。書かせていただきます」といって筆をとった。やがて書きあげた文章を読んで、隆景は満足した。
 「よく書けた。おれのいうことを完全にお前は理解している。見事である」とほめた。この一部始終を黒田如水はじっと見守っていた。途中から彼は猛烈に反省した。
 (おれははずかしい。頭の艮さを誇って急ぎすぎた。そして、自分の判断力や決断力を信じすぎた。これからは、もっと自分を疑ってかかろう。そうすれば、秀吉公にも満足していただけるだろう)その通りになった。以後、如水は二度と秀吉に疑われることはなかった。
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■浜口梧陵−井戸水の思想

<本文から>
 これは一種のニヒリズムに近い。そういう冷たい滴が浜口の胸の特に落ちたのだ。そして、この樽にはもともと冷たい滴が溜まっていた。
 それは、藩の武士階級による、絶え間のない権力闘争である。政争だ。民不在の政争の明け暮れは、いい加減浜口をうんざりさせていた。改革とか何とかいっても、結局、いままでのそれは、藩政府や藩士が富むためのものであり、年貢を納める農民や冥加金を上納する市民のためのものではない。
 そういう憤りが、絶望と絢いまぜになって浜口の胸の樽に溜まっていた。
 浜口梧陵は、ここから反撃した。これは、ここを拠点に、それまで自分でさえ気がつかなかった自身の先見性を、市民主体に整理し、それを行動理論にした。その凝縮が木国同友会の綱領であった。綱領というより同友会の設立そのものであった。
浜口の発想は、いうならば、「井戸水の思想」である。恒温の思想といってもいい。深い井戸の水は、現代でいえば水道水にくらべ、水温がちがう。
 たとえば、水道水は冬冷たく、夏はなま温かい。井戸水は逆に冬温かく、夏は冷たい。が、井戸水自身に際立った水温の変化があるわけではない。いわば恒温に近い。人間が自分をとりまく季節の変化によって、冷たいと思ったり、温かいと思ったりしているだけだ。
 「これで行こう」と、浜口は思った。市民的立場でものを考えること、その立場を純粋次元におくためには、井戸水の恒温の思想で行こう、ときめたのだ。
 そして、そうすることによって、いつも、透徹した眼で、これからの社会相を予測できる、と信じた。
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■家康の情報戦略

<本文から>
 世論をひきつけたというのは、家康は最後まで秀吉夫人(高台院)を大事にし、″正妻派″として行動したことである。これが、淀君、秀頼を戴く石田三成たち″愛人派″に反感をもっていた福島、藤堂、加藤、浅野、細川、蜂須賀らの、文字どおり秀吉の子飼いの武将を全部味方にできた。日本ではどうも正妻の座はなかなか強いようだ。だから石田三成の敗北と大坂落城は、″愛人派″の敗北だったのだ。家康の世論を見抜く眼がたしかだったのだ。
 もうひとつ。家康の情報戦略でうまいのは、情報の入力、出力の使い分けだ。早くいえば、とりこむ情報は真実を、外に出す情報はデマを、というのが家康の広報操作術であった。
 入力、つまり入ってくる情報を真実にちかづけるためには、その情報のもたらし手が、本気で情報を入手し、精度をたしかめて家康に提供しなければならない。それは、虚報を告げたときは殺されるかも知れないという、不断の緊張からしか生れない。家康がそのネットワークに、いつもこういう緊張感をもたらせたのは、最初に書いた″不安″と″不満″、しかも場合によっては殺されるかも知れない、というドツグレースを続けさせたことからである。さらに、せっかく情報を伝えても、フンと鼻の先で笑ったりして、もたらし手に自信を失わせ、逆に不安感をもたせる心理作戦の妙だ。
 ネットワーク群は、いよいよ ″真実の情報″探求に励むのだ。
 逆に、家康を発信主体にする情報は相当にデマが多い。
 たとえば、家康が秀吉と干支をまじえた小牧戦争(天正一二年・一五八四) の翌年あたり、家康は背中にデキものができて弱ったが、このとき、
 「家康は死んだ・・・」
という情報を意識的に流させて、関係者の動向をみている。
 武田信玄に大敗した三方ケ原の合戦の時 (元亀三年一二月二二日) にも、いのちからがら浜松城に逃げこむ家康は、途中で坊主頭の敵の首をプラさげている部下をみつけると、
 「先に城に戻って、武田信玄の首をとったと触れまわれ!」
 と、城兵のモラールアップのために、いい加減なことをいわせている。
 大坂の陣がすべてデマといいがかりの謀略戦であったことはくわしく書くまでもない。このころになると、家康はもうホンネとタテマエを恥ずかしそうに使い分けた処女の推さはカケラもなく、ホンネむきだしの毀滑なヤリ手婆アそのものだ。三方ケ原の際は、この直後、信玄は本当に死んでしまったから、家康は危機を脱した。人為をこえたツキがあった。
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■信玄メモにみる情報戦略

<本文から>
  しかし、信玄の経営の才を示すものとしては、「甲州法度之次第」よりは、筆者が「信玄メモ」と呼んでいるもののほうが優れているように思う。このメモは、他国から甲斐の国にやってきた商人の情報を聞き記したものであるが、信玄が並の武将と異なるのは、一つの情報源を盲信することなく、さらにクロスチェックしている点だ。
 たとえば、隣国から入国した商人に国情を聞き、メモしたあと、さらに別の隣国商人から聞いて書き加える。その上で分析をし、正誤を判断するのである。
 信玄は、このような詳細な情報収集をしていたから各地の情報にはかなり精通していた。そのうえ、家臣を商家に奉公させ、そこから各地に行商人に仕立てて派遣し、諜報活動をさせるまでしたから徹底をきわめたといってよい。しかも、この行商を通じて甲斐や武田家についての偽瞞情報を流して敵将の戦略を混乱させる高等戦術まで用いている。やはり、情報については並々ならぬ感覚と才能を持っていた織田信長さえも、信玄のニセ情報にはふりまわされたという。
 国内政治としては、僧侶の妻帯を許可する代わりに、妻帯した僧には新たな税を課したり、富士登山者に入山料を課すなど、ユニークな発想をしている。さらに、御勅使川と釜無川に大規模な治水工事を実施しル信玄堤々を築き、水害防止だけでなく新田開発をすすめたり、甲州内の金山開発をすすめてもいる。
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■瑞賢の発送の転換−米座を動員して成功

<本文から>
 大勢の見物人が集まった当日、瑞賢はたくさんの米屋を連れてやってきた。米屋はみんな米俵を担いでいる。みんなピックリした。一体何をはじめる気なのだ? と目を見張った。瑞賢は米屋たちを指揮して、落ちた鐘の側にまず米俵を一段に並べさせた。そして、米屋たちを指揮して、鐘をその米俵の上に移させた。鐘が米俵の上に乗ると、今度は反対側に米俵を二段の高さに積ませた。そして、またカを合わせて鐘をそっちへ移す。今度はこっちに三段、そして向こう側に四段というように米俵を活用しながら、鐘を痛めずにうまく次第次第に上に上げて行った。やがて、鐘は元に戻った。これには、見物人たちも驚いた。同業者や役人も目を見張った。はじめは悪意を持っていたこの連中も、最後には拍手して、
 「さすがだ!河村は頭がいい」と感心した。
 ところが、瑞賢の知恵はこれで終ったわけではない。彼は米屋たちにいった。
 「この米俵は、いったん俺が買い取ったものだが、もう必要なくなった。そこでどうだろう?改めておまえたちが買い取ってくれないか? 私が買い取った値の半値でいい」
 米産たちはワッと飛びついて、我先勝ちに米俵を買い戻した。
 これを聞いた幕府の重役が苦笑した。そして、
 「瑞賢の奴はずるい」といった。なぜですかときく部下に、その重役はこう答えた。
 「瑞賢が米俵を買った金は、はじめから幕府が払う予算の中に入っている。だから、奴は二重に儲けたのだ」そのとおりだった。こうして、瑞賢はその重役と近づきになり、さらに日光東照宮の修理という大工事まで引き受けるようになった。 
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■甚五郎−蚊帳本に付加価値を加えた成功

<本文から>
 甚五郎が歩きまわったのは江戸の路地裏である。庶民が住んでいる地域だ。そういう町々は、まだ下水もない、のでしきりに蚊が出ていた。庶民たちは、それをうちわで追ったり、手で叩き潰しながら寝苦しさに耐えていた。甚五郎がフッと思ったのは、(蚊帳をこの人たちに売ったらどうだろうか?)ということだった。発想は決して間違っていない。が、店の者たちは、
 「蚊帳なんか作っても、彼らには買うお金がありませんよ」と猛反対した。甚五郎は踏切った。しかし、蚊帳は売れなかった。作ったのは、黒ずんだ色の蚊帳だった。甚五郎は考えた。自分が間違っているとは思えなかったからである。
(庶民は、蚊帳が欲しいはずだ。しかし、作った蚊帳が売れないのは、蚊帳に原因がある)と思った。そんな時、近江の本店に用があって、甚五郎は旅に出た。そして、東海道を通って箱根の山を越えた。箱根の山の中に入ると、疲れたので、大きな木の下で休んだ。思わず、居眠りをしてしまった。目が覚めたとき、彼の目を打ったものがある。それは、太陽の光に輝く若葉の緑だった。キラキラと陽光を照り返す緑の葉の美しさは、何ともいいようがない。それに、とても涼しい感じを与える。葉の群れをみつめているうちに、甚五郎は思わず、
 (これだ!) と胸の中で叫んだ。
 (蚊帳が売れなかったのは、色が悪かったのだ。色をこの涼しい緑色にすれば、必ず売れる!)
 そう確信した。
 そこで、近江に戻った彼は、親しい染め物犀を呼んで、
 「何が何でも、涼しい緑の色で蚊帳を染める工夫をしてくれ」と頼んだ。染物師は、甚五郎の激しい情熱に苦笑しながらも、仕事にかかった。
 いわゆるもえぎ色に染めた蚊帳は、飛ぶように売れた。甚五郎の作戦が成功したのである。彼は狭い家でゴロゴロと蚊に食われながら、暑い夜を過す庶民の身になってみた。
 (ああいう時、庶民が求めるのは何だろうか?) と考え抜いたのである。庶民が本当に求めて
 いるのは単に、蚊を追う道具としての蚊帳だけではない。涼しさのはずだ。そうなると、蚊帳の色が涼しくなければだめだ。
 そこで甚五郎は蚊を追うだけでなく、涼しさをもたらす蚊帳をつくろうと思ったのだ。これこそ正しく現代でいう、
 「本体にソフトな付加価値を加える」ということだった。蚊帳という本体に、涼しさという付加価値を加えるヒューマニズムによって、甚五郎の商売は大きく成功したのである。
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■福沢諭吉−幸福追求をさせる学問

<本文から>
 「一人ひとりの人間に、幸福追求をさせる学問が実学だ」というところにあるとみていいだろう。反対に、
 「一人ひとりの人間を、不幸にするような学問は学問ではない。虚学であり死学である」
ということになる。
 明治維新前の実学は、ほとんどが、
 「経国済民」をモットーにしていた。社会性の前には、自己を主張しなかった。いや、逆に公共のためには、自己を不幸にし犠牲にすることさえすすめるか滅私の美学々があった。
  西洋で、″個人の尊厳″をみてきた諭吉に、こんな考えは通用しない。
 「個人は、国象のいいなりになる人間の紙片ではない。逆だ。国家は、めざめた個人の堆積の上にきずかれる」
という考えだ。
 しかし、だからといって、個人が自覚し、自説を持ったからといって、それがすべて正しく、世にうけられるとはかぎらない。世の誰からもうけいれられないような考えは、これまた実学ではない。そこで彼は、塾生に、
 「自分の考えを世に問え。そのために、自分の考えを自分の言葉で公表しろ」
と、演説をすすめた。これは、その考えへの一般の反応をみて、自信を持ったり、反省したりするきっかけをつくろう、ということだ。いわばフィードバック装置である。そうしなければ、ひとりよがりのうぬぼれ屋ばかり生むことになる。これが諭吉式の社会との接触方法であり、公共性についての考え方でもあった。
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