童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          評伝 戦国武将 智略と決断の人間学

■政宗が降伏したのは秀吉、家康、家光ではなく時代に対してであった

<本文から>
 二代目秀忠から将軍職を譲られた家光が、京都伏見城で行なった将軍宣言は有名である。このとき彼は、主として外様大名を集めてこういった。
 「わが祖父家康公と、わが父秀忠公は、あなたがた外様大名のご協力を得て将軍になった。しかし私は違う。私は生まれながらの将軍である。もしこの家光の宣言に不服のある者は、即刻、国へ立ち戻って合戦の準備をされたい。さっそく家光が討伐に向かうであろう」
 たいへんな大ハッタリである。しかし家光は本気だった。というのは、将軍になるについて、「伊達政宗だけを警戒しなさい」といわれていたからである。この日の宣言は、外様大名の全部に対してではなく、むしろ政宗一人に対して行なわれたのだとみていい。
 このとき政宗はどう対応しただろうか? ふつう、孫のような若僧に、こういう大ハッタリを噛まされては、戦国生き残り大名として、おそらく黙ってはいられまい。「何をいうか、小僧め」と思って、席を蹴立てて国に帰ったかもしれない。が、この日の政宗は違っていた。
政宗は、家光の宣言が終わると、いきなり持っていた扁を開いて、ばたばたと家光を扇いだ。そして、「いや、あっぱれ、あっぱれ! じつに頼もしい将軍家でござる」とおだてた。
 それだけではなかった。彼は進み出ると、家光の前に平伏して、「いま、ここにおります大名たちの中に、あなたのような頼もしい新将軍に背くなどという恐ろしい考えをもつものは一人もおりますまい。もし、そのような不心得者がおりましたときは、この伊達政宗が、先頭に立って征伐を行なうでありましょう」といった。
 これに続いたのが、藤堂高虎である。高虎もまた、「私も伊達殿に賛成でございます。征伐軍の先頭には、伊達殿と馬の轡を並べるでありましょう」といった。
 戦国生き残りの荒大名二人が、真っ先に降伏してしまったから、他の大名たちはもういうべきこともなかった。そのまま全員が平伏した。家光は、こうして宣言したとおり、「生まれながらの将軍」の座を、自らの手にしたのである。
 若い日の政宗から、およそ想像もできない降伏ぶりである。政宗は、もはや争う気はなかった。それは、中央政権のもとに参加して、その政権をうまく使いながら、自己企業の存続をはかることが、最も賢明だと思ったからである。
 そうさせたのは、なんといっても、時代の流れであった。政宗は常につぶやいていた。
 「おれが降伏したのは、秀吉や家康ではない。まして家光ではない。おれが頭を下げているのは、″時代″なのだ。その流れであり、その潮なのだ。これには勝てない」
 むだな抵抗をすれば、伊達企業はつぶれてしまう。それは、東北でもしばしば起こった。同僚企業が次々と滅びていった。名門だとか伝統だとかは、ものをいわない。むしろ、そういうものが逆に作用して裏目に出ることさえある。時代のうねりには逆らえないのだ。
 そのためには、いつでも、情報に対する緊張感を失わないことだ。時々刻々と変わる世相に対して、緊張の目を向け、耳を立てることである。政宗は、生涯、そういう緊張感を貫いて送った。
伊達政宗が偉かったのは、当初は、「奥州探題」という、家に続いてきた名目を守り抜いて、東北の自治を叫んだことだった。政宗はその叫びを自ら引っ込め、上方政権に屈伏したのだ。しかし、それはたんなる屈伏ではなかった。上方政権がつくり出した文化をとり入れて、東北の地に、「衣食足りて文化を知る」の気風をつくり出したのである。
 文化果つるところといわれた東北に、上方文化が繚乱と花を開きはじめた。それを政宗は内需に結びつけた。そしてまた政宗が偉いところは、次々と打つ手が裏目に出ても、決して落ち込みっぱなしにはならなかったことである。すぐ、よみがえった。奮起した。その彼の活力が、周りの人々を勇気づけた。
 彼は、いつも周りに対するつむじ風であった。伊達企業は結束して、この創業者の指示に従った。

■秀吉に降った前田利家、人間の痛みを忘れまいとした

<本文から>
 湯漬けを食べ終わると、彼は立ち上がった。そして、「ああ、うまかった。まつ殿の腕はいよいよ冴えている。ところで、前田殿」と何気なく振り向いた。
 「はじめての土地なので、北ノ庄城にどう行っていいか分からぬ。案内を頼む」
 「・・・」
 利家は、秀吉を見返した。その利家の顔を、秀吉も鋭く見返した。日の底が光っていた。それは、「今度は、中立を許さないぞ。はっきり、味方であるという証を示してくれ」という色をたたえていた。利家は、意思表示をしないままに、いつまでも秀吉を見返していた。
 秀吉は、やがてふいと視線をそらし、まつにいった。
 「まつ殿、ねねから、くれぐれもよろしくとのことだったぞ」
 「分かりました」
 こういう会話になんの意味があったのか、まつは、大きくうなずいた。利家は、二人の会話の意味を悟った。秀吉が去ると、利家はまつにいった。
 「いよいよ、決心しなければなるまいな?」
 「そのとおりでございます。おつらいでございましょうが、ねね様の旦那様のお味方をしてくださいませ」
 「分かった」
 利家も意を決した。この決断は、利家に訪れた第三の危機を突破するためのものである。利家は、心の一部に痛みを覚えながらも、羽柴軍の先頭に立って、北ノ庄城に案内して行った。
 秀吉が、利家という先輩にとった策は、最も苛酷なものであった。それは、自分の軍の先鋒を務めさせたからである。敵がいれば、先を歩く軍は真っ先にやられる。そういう危険な役割を、秀吉は、利家という先輩に与えたのである。しかし、このころの利家には逆らえなかった。力関係で秀吉のほうが、はるかに大きく育っていたからである。
 利家の決断は、「これからは、先輩の立場を捨てて、この男の部下として仕えていかなければならない」というものだった。その決断をするにあたって、まつのカが大きく作用した。まつは、たんにねねへの友情だけから、自分の夫を秀吉に味方させたわけではない。まつもまた、戦国に生きる一大名の妻として、どうすれば生き残れるか、ということを彼女なりに考えていたのである。そして、この判断は正しかった。
 炎上する北ノ庄城を眺めながら、利家がどういう気持ちでいたかは、はかり知れない。かつての先輩であり、また恩人でもあり、よきリーダーであった勝家が炎の中で死んでいくさまを、彼はじっと見続けていた。そして、「このことを、生涯決して忘れまい」と思った。それは、秀吉に対して恨みを晴らすことではない。そういうことではなく、この事実を人間の痛みとして、覚えておくということである。
 「痛みを知らない人間は、人間ではない」

■細川幽斎は国持ち大名になったことはなく、一族繁栄の基盤をつくった

<本文から>
 そして、義昭に諌言しても聞き入れられず、勝龍寺城に籠ったことは、幽斎にとっても最初に訪れた危機突破の療法になった。光秀は、すでに義昭を見捨て、織田信長のもとに走った。
 信長が、そういう光秀をどう受けとめていたかは分からない。「こいつはいままでにしばしば主人を変えている。義昭が落ちぶれると、すぐおれのところに走ってくる。そうなると、おれが落ちぶれれば、こいつは、おれを見捨てて他の大名のところに走るかもしれない。そういう油断のならないやつなのだ」と思ったかもしれない。
 いずれにしても、戦国時代は「大転職時代」だから、転職そのものは別に珍しい現象ではないが、使う側としては、いろいろな思いがあったことだろう。
 そこへいくと、幽斎の進退はきれいだった。一種の美学があった。信長は、幽斎に目をつけた。それは、義昭を最初に自分に会わせたときも、光秀に比べれば、幽斎のほうが、はるかに誠意が込もっていたからである。信長は、幽斎のところに使いを出した。
 「おまえは、義昭に十分尽くした。もう、過去を忘れて、おれを支えてほしい」
 幽斎は、信長の誘いに応じた。天正元年(二血七三)七月十日、山城(京都府)の長岡すなわち、桂川から西の地域全部の土地を与えられた。そこで幽斎は、細川という姓を長岡と改めたことは前に書いた。つまり、ここにも幽斎のこまかい心配りがある。それは、細川という姓を捨てて長岡という姓を名のることによって、「自分はもう、義昭の家臣ではありません。信長公の家臣になったのです」ということを表明したことになるからだ。
 信長は、以後、義昭の密書によって、自分を攻めようとした大名たちを、片っ端から討ち減ぼす。朝倉も浅井も、あるいは石山本願寺も、すべて攻撃目標になった。中国地方の毛利一族もターゲットに入っていた。
 幽斎は、そういう信長について転戦し、数々の武功を立てた。幽斎は、たんなる文化人大名ではなく、戦闘にもまたすぐれた力量を示したのである。彼が受け持ったのは、主として丹波(京都府・兵庫県)・丹後(京都府)の国々である。さらに、信長の命によって中国方面を攻めつづけていた羽柴秀吉に協力し、数々の武功をあげる。再び丹後国に戻って、この方面を制圧した。
 その功労に対して、信長は、「おまえの倅、忠興の名義で丹後十二万石を与える」といった。幽斎ははじめて、大きな国持ち大名になったのであるが、名義はあくまでも息子の忠興であって、幽斎ではない。
 ここで、忘れないうちに書いておけば、これは重大だ。つまり、幽斎は最後まで、大きな国持ち大名であったことは一度もない。彼は、京都西郊の長岡に与えられた。たかだか三千石の旗本にすぎなかった。死ぬまで、彼が何十万石という国持ち大名になった事実はない。これも幽斎の経営者としての生き方をみる場合に重要だ。
 つまり、幽斎は、「細川企業さえその基礎が確立し、長く存続できる見通しが立てられれば、自分などどういう使われ方をしてもいい」と考えていた。したがって、義昭のように、「足利義昭企業」が確立されなければ気がすまないというタイプではなかった。
 「細川企業」が確立されればいいのである。その代表者は誰であってもいい。名義人が誰であろうと、世間の見るところは、誰も「あれは細川忠興企業だ」などとは思わない。信長との関係からいっても、当然、「名義人は息子だが、あくまでも実権は親父が握っている」とみる。
 「それでいいのだ」と幽斎は思っていた。こういう点、文化性ということが経営者の経営態度に大きく影響するということを物語っている。つまり文化性は、その人間にゆとりを与える。また、考え方を柔軟にする。全体にソフト思考で対応するから、ギスギスしない。鋼のようにピンと張りもしない。だから、起こってくる事実に対しては、むしろ経営一点張りの人間よりも、余裕をもって対応することができる。
 「企業人は、趣味をもたなければならない。もっと文化性を身につけろ」といわれるのは、こういうことだ。得意先の人間と会って、互いに趣味を語り合うから仕事がうまくいくということではない。そういう底の浅いことではなくて、つまり根源において文化性がある経営者は、どんな場合にもゆとりをもって対応できるということが大切なのだ。
 幽斎は、まさにそういうタイプの経営者であった。だから信長に、「おまえの倅に十二万石やるぞ」といわれて、「いや、倅でなく私にください」などとはいわなかった。これは、信長が、いかに幽斎という人間をよく知っていたかを物語るものだ。
 幽斎は、少なくとも義昭の家臣であり、彼を将軍にするために信長に仲介を依頼した。そして、その義昭を信長が追放した。
 幽斎にすれば、たまらない出来事であったに違いない。ところが信長がみて、幽斎は決して信長を恨んではいなかった。むしろ信長の行為を当然だとみていた。そういう幽斎に信長は好感をもった。そして、「さぞかし、この男は苦しんでいることだろう」と同情した。
その同情が、「もし、この男に直接十二万石の国をやれば、さらに苦しむだろう。それは、備後の鞍で、侘びしい亡命生活を送っている義昭のことを思い出すからだ。そうすることは、さらにこの男を傷つけることになる」と考えたのだ。そこで、息子の忠興を大名にしたのでる。

■細川幽斎は田辺城を死守し大功を、天皇からの勅使で和睦された

<本文から>
  いよいよ田辺城も落城かと決意した日、幽斎は、この八条宮に手紙を送った。それには、「あなたに、古今伝授の証書を全部お譲りいたします」と書いてあった。古今伝授というのは、一つのパテントであって、誰にも許されるものではない。幽斎は、それを実枝から譲られていたのである。それを今度は門人であった皇弟八条宮に譲ろうというのだ。八条宮は驚いて、このことを兄の後陽成天皇に話した。
 そして、「細川幽斎のような文化人を死なせることは、日本の文化のために大きな損失になります」と進言した。天皇もうなずき、「それでは、おまえが勅使として田辺城に行き、城を取り囲んでいる兵を引き揚げさせるようにせよ」と命じた。
 八条宮は、謹んで勅使となり、そして寄せ手の大将にこのことを告げたが、寄せ手の大将は承知しない。「この合戦は、武士の争いであって、御所が口を出すことではございません」と突っぱねた。天皇の命にもしたがわないということである。
 当惑した八条宮は京都に戻った。しかし、幽斎をそのままにする気はなかった。そこで、再び天皇に頼んだ。天皇はそれではこうしようということで、京都所司代の前田玄以をよんだ。
 このころ、まだ豊臣政権は形の上では存在していた。そして、徳川家康は豊臣政権の大老であり、石田三成は奉行である。したがって、関ケ原の合戦は、大老と奉行の喧嘩だということができる。玄以は、その豊臣政権における京都所司代のポストについていたのだ。
天皇は勅使として、玄以に、「京都所司代の責任で、田辺城の因みを解かせよ」と命じた。玄以は、田辺城の包囲軍に対して、勅使を伝えたが、包囲軍はこれも、剣もほろろに蹴飛ばした。「よけいなことをするな」と追い返したのだ。
 ほうほうの体で、京都に戻った玄以は、やむをえず、田辺城内の幽斎に使いを送った。使いには自分の息子をあてた。そして、「これこれの事情で、包囲軍に勅命を伝えたが受け入れない。この上は、天皇の御心を安んじ奉るためには、あなたが城を開いて外に出るよりしかたがない。田辺城を開城してほしい」といった。
 これに対し、幽斎は、「そんなことはできない。あくまでも城を守って死ぬ」と返事をした。
 結局、天皇が乗り出した調停もうまくいかず、田辺憾噌城の日がいよいよ迫ってきた。
 しかし、こうなると、御所も意地になった。天皇は公家を三人選んで勅使として田辺城に差し向けた。今度は、「田辺城に籠るものも、田辺城内を囲んでいるものも、朕の命によって和睦を命ずる」というものである。
 いままでは、包囲軍と城内の幽斎に対して、ばらばらに和睦を勧告したのだが、こんどはそうではない。いきなり両軍に対して、「和睦せよ」と命じたのである。こうなると、幽斎は勤王家だから、天皇の御心に対していつまでも背くのは不忠の臣になると思った。そこで、包囲軍のほうの動向はどうあれ、「城を開きます」と奉答した。
慶長五年(一六〇〇)九月十二日、幽斎はついに芸域の門を開いた。そして、五百の兵を率いて、自分は丹波(京都府・兵庫県)亀山城に移った。なんと、七月十八日から九月十二日まで六十日余りの籠城であった。たった五百の兵で、これだけがんばったのである。
 そして、このことが、家康を勝たせる大きな要因になった。それは、関ケ原の合戦がはじまったのは九月十五日だが、幽斎が田辺城に完五千の兵を引きつけていたために、これが結局は合戦に間に合わなかったのである。
 ちょうど家康の息子秀忠が、信濃(長野県)上田城の真田一族に振り回されて、二万人余りの軍勢を足どめされたのと同じであった。
 考えてみれば、決して家康は、関ケ原の合戦に楽勝したわけではない。彼自身もいろいろとピンチに陥った。その意味では、幽斎の功績は、家康が深く賞するところとなったのもうなずける。
 関ケ原の合戦がすんで、大坂城で家康は諸大名と会った。このとき幽斎には、とくにねんごろに応対し、家康は、「老齢にもかかわらず、六十日余りもよく城をもちこたえてくださった。おかげで、この家康が三成に勝つことができた。このうえは、望みの土地があれば、どこでも与えよう」と告げた。
 しかし、このときの幽斎の態度もまた見事である。彼は断った。
「それほどのことはございません。どうか、この老いぼれのことはお忘れください」
 しかし、家康は承知しなかった。
 「では、別なかたちで褒美を与えたい。なんでもいってほしい」
 「さようでございますか」
 ちょっと考えた幽斎は、こういうことをいった。
 「じつを申しますと、寄せ手として石田方に席を置いていたもののなかにも、手を抜いて私を攻めず、それだけでなく、いろいろと石田方の情報を洩らしてくれたものがおります。多数おりますので、できればそのものたちの罪を免じて、領地を安堵してやっていただければ、幸いこれに過ぎるものはございません」
 家康は、幽斎を見つめた。「たいしたものだ」と思った。自分に褒美はいらないから、自分を攻めたもののなかで内通したものの罪を許してやってくれ、というのである。
 罪を許すだけでなく、その連中が持っていた土地も、そのまま持たせてやってくれというのだ。家康はうなずいた。「あなたのご趣旨にしたがおう。そのものたちの名を書き出してほしい」といった。
 幽斎は、家康を信じて、自分に志を通じてきたものたちの名を書き出した。家康は約束を守った。それでも家康は、気がすまなかったらしい。翌慶長六年になって、越前(福井県)のなかから三千石を幽斎に与えた。

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