|
<本文から> 二代目秀忠から将軍職を譲られた家光が、京都伏見城で行なった将軍宣言は有名である。このとき彼は、主として外様大名を集めてこういった。
「わが祖父家康公と、わが父秀忠公は、あなたがた外様大名のご協力を得て将軍になった。しかし私は違う。私は生まれながらの将軍である。もしこの家光の宣言に不服のある者は、即刻、国へ立ち戻って合戦の準備をされたい。さっそく家光が討伐に向かうであろう」
たいへんな大ハッタリである。しかし家光は本気だった。というのは、将軍になるについて、「伊達政宗だけを警戒しなさい」といわれていたからである。この日の宣言は、外様大名の全部に対してではなく、むしろ政宗一人に対して行なわれたのだとみていい。
このとき政宗はどう対応しただろうか? ふつう、孫のような若僧に、こういう大ハッタリを噛まされては、戦国生き残り大名として、おそらく黙ってはいられまい。「何をいうか、小僧め」と思って、席を蹴立てて国に帰ったかもしれない。が、この日の政宗は違っていた。
政宗は、家光の宣言が終わると、いきなり持っていた扁を開いて、ばたばたと家光を扇いだ。そして、「いや、あっぱれ、あっぱれ! じつに頼もしい将軍家でござる」とおだてた。
それだけではなかった。彼は進み出ると、家光の前に平伏して、「いま、ここにおります大名たちの中に、あなたのような頼もしい新将軍に背くなどという恐ろしい考えをもつものは一人もおりますまい。もし、そのような不心得者がおりましたときは、この伊達政宗が、先頭に立って征伐を行なうでありましょう」といった。
これに続いたのが、藤堂高虎である。高虎もまた、「私も伊達殿に賛成でございます。征伐軍の先頭には、伊達殿と馬の轡を並べるでありましょう」といった。
戦国生き残りの荒大名二人が、真っ先に降伏してしまったから、他の大名たちはもういうべきこともなかった。そのまま全員が平伏した。家光は、こうして宣言したとおり、「生まれながらの将軍」の座を、自らの手にしたのである。
若い日の政宗から、およそ想像もできない降伏ぶりである。政宗は、もはや争う気はなかった。それは、中央政権のもとに参加して、その政権をうまく使いながら、自己企業の存続をはかることが、最も賢明だと思ったからである。
そうさせたのは、なんといっても、時代の流れであった。政宗は常につぶやいていた。
「おれが降伏したのは、秀吉や家康ではない。まして家光ではない。おれが頭を下げているのは、″時代″なのだ。その流れであり、その潮なのだ。これには勝てない」
むだな抵抗をすれば、伊達企業はつぶれてしまう。それは、東北でもしばしば起こった。同僚企業が次々と滅びていった。名門だとか伝統だとかは、ものをいわない。むしろ、そういうものが逆に作用して裏目に出ることさえある。時代のうねりには逆らえないのだ。
そのためには、いつでも、情報に対する緊張感を失わないことだ。時々刻々と変わる世相に対して、緊張の目を向け、耳を立てることである。政宗は、生涯、そういう緊張感を貫いて送った。
伊達政宗が偉かったのは、当初は、「奥州探題」という、家に続いてきた名目を守り抜いて、東北の自治を叫んだことだった。政宗はその叫びを自ら引っ込め、上方政権に屈伏したのだ。しかし、それはたんなる屈伏ではなかった。上方政権がつくり出した文化をとり入れて、東北の地に、「衣食足りて文化を知る」の気風をつくり出したのである。
文化果つるところといわれた東北に、上方文化が繚乱と花を開きはじめた。それを政宗は内需に結びつけた。そしてまた政宗が偉いところは、次々と打つ手が裏目に出ても、決して落ち込みっぱなしにはならなかったことである。すぐ、よみがえった。奮起した。その彼の活力が、周りの人々を勇気づけた。
彼は、いつも周りに対するつむじ風であった。伊達企業は結束して、この創業者の指示に従った。 |
|