童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          幕末の明星 佐久間象山

■ペリーは象山の気概にたじろいた

<本文から>
「東洋の道徳・西洋の芸術」
 だ。
「和魂洋芸」
と略称される。ここで東洋の道徳というのは、いうまでもなく朱子学のことだ。かれが"異学の禁"的発想によって、陽明学を嫌ったことは前にも書いた。天保八年に大坂で乱を起こした大塩平八郎は、有名な陽明学者である。この乱の報を耳にした時、象山は、
 「だからいわぬことではない。陽明学はこのように国家に害もたらすのだ」
と批判している。
 象山は数学のことを″詳証術"と命名し、
「万学の基」
 と位置付けている。おそらく朱子学の根底にある一種の合理性を、数学の原理の中に発見したのだろう。
 それにしても、象山の自分の学識に対する自信は大変なもので、他の追随を許さなかった。それは、能力的にもそうであり、同時にまたかれ自身の性格にもよる。
 横浜の応接所でアメリカのペリー提督が、象山を一目見て思わず頭を下げたのも、ペリーは、
「あの人物の発する気に圧倒されたのだ」
といったが、その気は一体どこから出て来るのだろうか。傲岸不遜なペリーが象山に感じたのも、おそらく象山の、
「孤高狷介」
の性格から発する、やはり傲岸不遜の態度だったのだろう。象山は、ペリーを少しも恐れてはいなかった。それは根本的に、横浜応接所近辺に派遣された松代藩軍の受け止め方にあった。幕府の方では、
「アメリカ側に日本人が乱暴するといけないので、これを抑止せよ」
と命じた。ところが象山は、
「アメリカ側の乱暴から日本人を守る」
と受け止めている。根本的に違う。つまり、横浜村でアメリカ人を守るのかそれとも日本人を守るのかということになれば、象山はためらうことなく、
「日本人を守る」
と応ずる。この責務感が、おそらくかれの体中から気となって発散されていたに違いない。ペリーは、象山のこの気概にたじろいだのである。象山は、
「特立して流れぎる」
生き方を選び、自ら、
「自分には狂簡の性がある」
といっている。

■国家に役立つべき人間の純粋な精神とは何か求めた象山

<本文から>
 象山は、こういう性格を、
「自分は、他人に迎合するために世俗的な方法を発揮することはできない。自分に合うものはこの人と交流し、合わなければ同じ場所で席を同じくして、この人とは語らない」
そのために、
「人々は怪しんだり、あるいは罵ったりする。いろいろとうるさいことをいう。が、たとえ何をいわれようとそんなことは耳にしても自分のためにはならない。すべて、時であり、勢いなのだ。どうにもできない」
と書いている。象山の研究者の中には、この象山の性格を、
「反権力という信州人(長野県人)全体に通ずるものだ」
と書いている。
 わたしは象山のこの精神を、
「国家に役立つべき人間の純粋な精神とは何か」
 ということを、生涯の命題として追い求めたのだと解釈している。そして象山は象山なりに、この精神を発見し保持した。だからこそ、多くの敵を作り、また理解できない人達から批判の礫を投げられた。しかし象山は屈しない。それは、
 「自分は絶対に正しい」
と信じているからである。
 そこで、改めて象山の幼少年時から、
「すぐれた人との出会い」
を軸にして、かれの、
「揺るぎない自信の確立過程」
を辿ってみたい。

■象山も松陰も至純な精神の気高さの持ち主

<本文から>
象山の精神の清さは、そのまま弟子の吉田松陰にも通ずる。松陰もまた無類の、
 「至純な精神の持ち主」
であった。わずか一年三カ月ぐらいしか開いていなかった松下村塾から、あれだけ維新の英傑群像が次々と輩出して行ったのも、すべて松陰の、
 「至純な精神の気高さ」
に胸打たれたからである。高杉晋作や久坂玄瑞などのいわば当時のインテリだけではなく、松下村塾には農民の子ややくざまでいた。が、一様に松陰を慕ったのは、その学問の高さや、講義の親切さだけではなかっただろう。松陰に接しているだけで、
「自分も浄化される。身に付いた汚染物がどんどん消去される」
というような、
「精神の濾過」
を味わえたからだ。松陰の精神は、川の流れと同じだ。底にある石が、どんな汚れた水が上流から流れて来ても、必ず濾過し浄化する。汚れた水も、清澄な水となって流れて行く。そういういわば盛会的浄化装置々の役割を松陰は果たしていたのである。その根底にあるのは幸貫が佐久間象山に感じた、
「精神の清さ」
以外ない。幸貫はそれを象山の私物ではなく、松代藩におけるか公器々として活用したのである。こういう主人に出会ったことは、象山にとってどれ程幸福だったかわからない。だから幸貫が、周りが何をいおうと、
「わしは絶対的に啓之助を支持する」
といい張ったのは、たとえ他人に対し孤高狷介であり、同時に傲岸不遜な態度をとったとしても、幸貫にすれば、
「それは、啓之助が自分の精神の清さ・高さを、他に向かって主張する手段にすぎない」
と思っていたからである。

■失敗や挫折をしても次の目標に向かって歩む姿勢の象山

<本文から>
 したがって象山は、
「自己の肉体や感情を制御するのは、気力だ、知力だ」
と思っている。次々と襲う松代藩保守派の足の引っ張りにも、その度に象山は、
「ナポレオンだったらどう対応するだろうか」
と考えた。そして、
「おそらく歯牙にもかけまい」
とせせら笑う。だから象山自身も、常に日を高く天に向け、足元のことには極力視線を向けずに同時に気にすまいと努めて生きていた。さらに、挫折をしたり失敗することがあっても、
「なぜ起こったなどと原因探求や、犯人捜しに夢中になっても意味はない。この事実を足場にして、この先どう進むかを考えよう」
と前向きな姿勢をとってきた。だから、門人たちにも、
「目を高くあげよ」
と教えた。しかしだからといって、視線を高い所に据えっ放しで、足元を見なくてもよいということではない。
「たとえ足元を見るにしても、自分の力を削ぐような向け方をするな」
と告げた。
「たとえ失敗や挫折をしても、次の目標に向かってしっかりと歩んで行け。が、足は道を歩くのだから、自分の置かれた状況や足元がどうであるかはしっかりと見据えろ。そのとき、多少歩行を妨げるような小石が邪魔をしたとしても、そんなものは蹴飛ばして行け」
ということだ。

■象山と榎本はナポレオンに魅せられた

<本文から>
 そう考えると、象山は蟄居生活に入ったことを、あるいは、
「ナポレオンの流罪」
になぞらえていたかも知れない。象山の尊敬するナポレオンは、後年二回も流罪に遭っている。一回目はロシアの遠征で、寒気という大敵に遭遇して失敗し、さらにドイツの解放戦争に遭遇して、退位した。そしてエルバ島に流された。が、一八一五年にひそかにエルバ島から脱し、フランスに入って百日天下を実現した。が、ワーテルローでイギリスのウェリントン将軍指揮下の連合軍に破れ、ついに完敗を期した。ナポレオンの百日天下も終わる。そしてかれは、セントヘレナ島に流され、一八二一年にここで死んでいる。象山が生きていた頃から約五十年ほど前のことだ。余談だが、象山と同時代人でセントヘレナ島に立ち寄り、ナポレオンの墓を見て感動した日本人武士がいる。幕臣で、海軍学を学ぶためにオランダ国へ留学した榎本武揚だ。複本はセントヘレナ島で、ナポレオンの墓を見たときに激しく胸の震えるような感動を覚えた。榎本はこのと
「おれは日本のナポレオンになる」
と誓ったという。だから、ナポレオンに魅せられていた幕末の武士は象山一人ではなかった。
 榎本は帰国後、幕府海草の総責任者になるが、新政府に降伏せずに艦隊を率いて脱走し、蝦夷で日本で最初の共和国をつくる。しかし押し寄せる新政府軍に降伏し、その後新政府要職を占めた。

■象山暗殺

<本文から>
 そしてこの頃から、象山が考えた、
「天皇の彦根動産案」
は、京都市中の尊攘過激派の間にもひたひたと波のように伝わって行った。尊攘過激派の一部では、
「新撰組をそそのかして池田屋に斬り込ませたのは、佐久間象山だ」
と見る者もいた。この連中はすでに、長州藩が一藩をあげて藩主の雪冤のために、大軍を率いて上洛するという報を受けていた。その時を待ち構えている。そんな時に、佐久間象山の案が実行されて、天皇が彦根へ動座されたのでは、長州藩の上洛もまた無駄になる。
「佐久間斬るべし」
という考えが、在洛中の尊攘過激派の間に合意された。
 長州藩も一枚岩ではない。今度の藩軍上洛を、無謀だと見る良識派が沢山いる。桂小五郎もその一人だ。桂は、象山を訪ねて密に帰国を勧めた。また同じ長州藩士小倉健作も、同じ忠告を行なった。島津久光も象山を心配する一人だった。かれはすでに象山と昵懇の仲にある腹心高崎兵部を遣いにして、
 「先生は大事なお体です。危害に遭っては何もなりません。この際、思い切ってご帰国ください」
と勧めた。しかし象山は頑として聞かなかった。その辺の心情を、かれは愛妾の蝶に手紙を書いている。象山の計画実現活動が積極化するのに応じ、洛内の尊攘過激派の、
「象山暗殺」
の計画も着々と進んでいた。
 元治元(一八六四)年七月十一日、象山は山階宮邸を訪ねる目的で、朝食後愛馬の王庭にまたがって、宿所を出た。僕は若党の塚田五左衛門・坂口義次郎・馬丁の半平、草履取音吉の四人だった。この日のかれの扮装は、黒むじ肩衣・もえぎ御せん平馬乗袴・騎射笠・腰には備前長光の太刀に、国光の小刀を差していた。供は世界地図を持っていた。これは、山階宮に、
「天皇の開港勅諭案」
の草案を説明し、天皇への仲介を頼もうと考えていたからである。ところが山階宮は参内中で不在だった。そこで、道化の執事国分番長と一時間ほど話して同邸を辞去した。この時若党の塚田五左衛門には持って来た地図を持たせて先に返した。また、坂口義次郎は前日から風邪を引いていたので、これも先に帰した。草履取の音吉を付き添わせた。結局、象山が僕にしたのは口取りの半平だけになった。午後五時項三条上ル木尾町通りに差しかかった。夏のことなので、日はまだ高い。もう少しで京都の宿所だとほっとした時、馴染みの髪結床の前に二人の武士が立っている。気にもしないでその前を通り過ぎると、武士はいきなり象山の後ろから斬りつけてきた。
 馬は驚いて口取り役の半平を振り飛ばし走り出した。不意だったので象山は刀も抜けない。高階家の庭前まで戻ると、そこに四人の別の武士が飛び出して来た。また、橋のたもとからも五、六人の人影が現れた。そして一斉に襲いかかった。象山は、十三か所も傷を負って馬から落ち、即死した。下手人たちはそのまま長州屋敷東南角の高瀬川椅方面へ逃げ去った。風邪を理由に象山と別れて別な道を辿っていた義次郎が現場に駆けつけた。驚いて象山の遺骸を抱き、すぐ駕籠を呼んで住居に運んだ。

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