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<本文から> 「東洋の道徳・西洋の芸術」
だ。
「和魂洋芸」
と略称される。ここで東洋の道徳というのは、いうまでもなく朱子学のことだ。かれが"異学の禁"的発想によって、陽明学を嫌ったことは前にも書いた。天保八年に大坂で乱を起こした大塩平八郎は、有名な陽明学者である。この乱の報を耳にした時、象山は、
「だからいわぬことではない。陽明学はこのように国家に害もたらすのだ」
と批判している。
象山は数学のことを″詳証術"と命名し、
「万学の基」
と位置付けている。おそらく朱子学の根底にある一種の合理性を、数学の原理の中に発見したのだろう。
それにしても、象山の自分の学識に対する自信は大変なもので、他の追随を許さなかった。それは、能力的にもそうであり、同時にまたかれ自身の性格にもよる。
横浜の応接所でアメリカのペリー提督が、象山を一目見て思わず頭を下げたのも、ペリーは、
「あの人物の発する気に圧倒されたのだ」
といったが、その気は一体どこから出て来るのだろうか。傲岸不遜なペリーが象山に感じたのも、おそらく象山の、
「孤高狷介」
の性格から発する、やはり傲岸不遜の態度だったのだろう。象山は、ペリーを少しも恐れてはいなかった。それは根本的に、横浜応接所近辺に派遣された松代藩軍の受け止め方にあった。幕府の方では、
「アメリカ側に日本人が乱暴するといけないので、これを抑止せよ」
と命じた。ところが象山は、
「アメリカ側の乱暴から日本人を守る」
と受け止めている。根本的に違う。つまり、横浜村でアメリカ人を守るのかそれとも日本人を守るのかということになれば、象山はためらうことなく、
「日本人を守る」
と応ずる。この責務感が、おそらくかれの体中から気となって発散されていたに違いない。ペリーは、象山のこの気概にたじろいだのである。象山は、
「特立して流れぎる」
生き方を選び、自ら、
「自分には狂簡の性がある」
といっている。 |
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