童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          日本の青春 西郷隆盛と大久保利通の生涯

■西郷は斉彬から私憤を公憤にと諭される

<本文から>
 「しかし、ある日、その島津斉彬から西郷に呼び出しが来た。
 トップの島津斉彬から呼び出しがきて、若き西郷隆盛はふるい立った。
 (斉彬さまがおれの建白書をお認めになったのだ!)と喜んだ。
 (どんなおほめのことばがもらえるだろうか)
 そんな期待に胸をおどらせながら、かれは、鹿児島に行った。斉彬が指定したのは、現在「磯庭園として、公開されている島津家の別邸である。
 邸内に入って西郷は一驚した。外国のまちが出現していた。それも工業のまちである。すべての建物の中で、外国から輸入した機械がうごき、何千人という人々が忙しく働いていた。
西郷が驚いたのもムリはない。斉彬は別邸を、イギリスのマンチェスターのような工業のまちに変えてしまったのだ。国防用の武器をはじめ、医慧、科学製品など、ありとあらゆる外国の品をつくっていた。特にガラス聖の切子は、当時、世界言いわれたドイツのそれに肉薄するほど、精巧なものがつくられていた。現在、島津家の子孫がこの切子の製作を、磯庭園跡で″お庭焼″という陶器とともに復活している。
(これが日本かけ?)と、大きな目玉をさらに大きくする西郷を、
「おまえが西郷吉之助か?」
役人が呼んだ。
「そうです」
「殿さまはあちらで待っておられる」
役人のいう”あちら”というのは海辺だった。斉彬は岸に立って海のかなたをみつめていた。
「おまえの建白書を読んだ」
「はい」
「純粋な気持ちはよくわかる」
「はい」
「が、怒りだけだ」
「は・・・」
「怒りだけで、それではお前えのいう不正をどう正せばいいか、解決策が全然ない。人を告発するのには、現状だけでなく、どうすればいいかが要る。おまえの建白書にはそれがない。そんな怒りは私憤だ」
「は…」
 西郷は大きなイヌのように首をたれた。絶望と悲しみが胸の中にわきあがっていた。西郷はこう思った。
(斉彬さまは、おれをしかるために呼んだのだ)
 斉彬は岸に立って後ろに手を組み、海をみつめたままだった。が、こういった。
「西郷」
「はい」
「この海の水は、エゲレスのロンドンに通じている。メリケン(アメリカのこと)のサンフランシスコにも通じている」
「はい」
「おまえのその怒りを、世界をみる目でもう一度考えなおしてみろ。私憤を公憤に変えろ」
「はい」と答えながら、しかし西郷は心の中で反発した。
(郡奉行所での上役や先輩の不正と、メリケンといったいどんな関係があるのだ?)と思ったからだ。躁と鬱の落差がはげしい西郷は、最高に落ちこんだ。
 斉彬が、とつぜんクルリとふりかえった。ニコニコ笑っている。
「西郷、私は近く江戸に行く。いまの日本に起こっている難題を有志で協議するためだ。おまえもいっしょに来い」
「は?」
 こんどこそ本当にピックリして、西郷は大目玉をむいた。その西郷に斉彬はいった。
「おまえに庭方を命ずる」
「は」西郷は平伏した。
庭方というのは秘書だ。

■大久保は権力に接近する方法をとる

<本文から>
  西郷と大久保利通は、生まれた家も近く、子供のころから仲良しだった。大久保はそのころ一蔵といった。斉彬が死んだ後、薩摩藩を襲った政変をみていて、一蔵はしみじみと考えた。というのは、一蔵の父も、政変によって島に流されたからである。
 ところが、そういう状況を目の当たりにしながら、一蔵の考えたことは、他人とは少しちがっていた。旧斉彬派は報復的人事を行ない、一掃する久光をみて、「久光さまは、何と器量の狭いトップだ」とあざ笑った。
 しかし、大久保はそうは思わなかった。大久保一蔵も旧斉彬派である。しかし、かれはこういう斉彬派には加わらなかった。つほり、口からアワをとばして、久光とその側近の悪口をいうグループには加わらなかったのである。
 クールなかれは事態をじっとみつめていた。かれが感じたのは、「権力の存在」である。かれは、率直に、「権力は怖い」と思った。それは、「権力を持つと、人事でも予算でも思うようなことができる」と感じたからである。
 旧斉彬派に、どれだけ正義があり、理があろうと、現実面ではつぎつぎにポストから逐われている。それが、けしからんといってみたところで、そんな声はイヌの遠吠えにすぎない。父を鳥流しにされながら、未来の明治政府の最高官僚になる大久保は、すでにそういうことを考えていたのである。
 そして、こういうクールな発想を持つ大久保一蔵が考えたのは、
「新権力である久光公に、いたずらに抵抗しても、そんなことはエネルギーのロスで、自分のしたいことに何のプラスにもならない」
 ということであった。
 ことばを変えれば、かれの考えは、
「父や西郷の正しさを、ただシュプレヒコールで叫んでも、問題の解決にならない」ということであった。かれが考えたのは、
「父や西郷を、島から釈放させるためには、新権力である久光公に接近し、その信頼を得て、久光公をその気にさせることだ」
 ということであった。つまり、新トップヘの接近術が必要だと考えたのである。
 大久保家の菩提寺は、家から三里ほど離れた山里にあった。大久保一蔵は、こんなうわさをきいた。
「久光公が、この頃よくその寺にお見えになって、住職に碁を習っておられるそうだ」
 このうわさは、大久保の耳をそばだてた。大久保の頭に、突然ひらめくものがあった。大久保は、(よし!) とひとりでうなずいた。大久保は、突然、その寺にマメにかよいはじめた。

■西郷は勝は共和政治や割拠を促され、やがて討幕へ

<本文から>
 ひとつは
「共和政治」
 のことであり、もうひとつは、
「割拠」
 のことである。割拠というのは、独立のことである。今日の地方自治のことだが、割拠の方は、もっとはっきりしている。この手紙にもあるように、財政的にも独立して、藩を富ますということだ。
 完全に幕藩体制からの離脱を意味する。幕藩体制からの離脱ということは、その体制の否定ということだから、あきらかに反体制の宣言、つまり″反乱″である。反乱が起これば、幕軍は討伐に出むく。こんどの長州征伐だってその例だ。
 現代の世にたとえれば、鹿児島県と山口県が、
「もう日本政府とは関係を絶つ」
 という宣言をすることが″割拠”だ。そんなことがゆるされるだろうか。
「共和政治がダメなら割拠しなさい」
 勝は、そうすすめたのにちがいない。すすめる方もすすめる方だが、それをまにうけて、すぐ、「共和政治」だの、「割拠」だのと大見得を切る西郷も、まだ若い。しかし、この若さが結局は、幕府を倒してしまうのだ。
 その意味では、幕府を倒させた元凶は、勝海舟である。その維新政府は、果たして勝ののぞんだとおりの政治体制だったのかー。
 その政府に高官として仕えた勝の心情は、榎本武揚とともに、まだ、歴史的評価をためらわせる不純な要素を多分に含んでいる。あえて、
「勝は、幕府を売った」
 と、書くゆえんである。
少なくとも、西郷に「討幕」の決意を起こさせた、という責任の意味でー。
 さらに、西郷の志向する「維新政府」の具体的なビジョンなりイメージなりを確かめるという慎重さを欠いて、ただ、
「幕府は腐っている」
 腐った幕府は倒さねばならぬ、という次元でのみの示唆におわったがゆえに。
 幕府を倒す以上、倒したのちの日本の政体のありかたを示し、そのありかたをこそ、討幕の目標にすべきであり、西郷にその考えを植えつけるべきであったのに、結局は、西郷は、「討幕」にのみとびついた。
 以後の日本の時流は、「討幕」の気流に完全にのってしまう。「何のための討幕か」という何のためが見失われ、討幕そのものが討幕の目標になってしまう。つまり、目的が失われ、手段が目的になって、その目的化した手段のために、さらに手段がえらばれ、さがし出される、ということになる。
 幕末後期の抗争が、醜い政略戦に終始するのは、スタートがこういう事情ではじまをからだ。
 その非の一半、架たして勝海舟になかったといえるかどうか−。

■低身分層の差別が討幕パワーになり、やがて維新後では自分たちの解放だけ行った。

<本文から>
  奥羽鋲撫総督付の参謀世良修蔵は長州出身だが、かれは別だ。別だというのは、括って長州というが、長州は長門国と周防国の二国の合体国だ。気質がちがう。しかもすべて長門国人優位・主導で、周防国人は劣位におかれる。世良はその周防国人だ。したがって、前に書いた世良の事件は、長州藩内における差別と、それから脱しようと功を焦った世良青年の気持ちを付度しないと、正しい解釈はできない。事実、世艮を殺した東北藩の藩士たちも世良によって、反政府感情をつよめたけれど、反長州感情だけを切りはなしてつよめてはいない。
 いや、世良だけではない。西郷も大久保も、あるいは長州の伊藤俊輔ほかも、さらに拡大すれば土佐の坂本竜鳩・中岡憤太郎らも、低身分ゆえに洋上層から極度の差別に苦しんだ人間たちである。明治維新の一側面は、こういう低身分層の藩内反差別闘争が、日本的規模に結合されたものだといえる。蒲内差別のひどかったところほど、討幕の強いパワーになったとさえいえる。
 かれらのうち、かなりの者が維新前夜に倒れたが、生きのこって政府要員になった者の給与額のバカ高さは、月給五百両から七百両であり、常識をこえている。単なる″成り上がり”行為ではない。あきらかに意図的なものだ。それは維新の核となった雄藩下士層の、積年の屈辱を公憤に転換したものである。しかし、かれらは自分たちを解放しただけで、国民を解放したわけではない。
 この″ひらきなおり”の論理は、明治十七年七月七日の華族令公布に発展する。公侯伯子男の五爵を授けられた維新の功労者のうち、最高位の公爵の中に三条・岩倉に混じって毛利・鳥軸の両藩主がおり、侯爵の中に木戸・大久保の適児がおり、伯爵は輿凹・松方・西郷(従道)・大山・川村・寺島・吉井・伊地知らの八薩摩人、伊藤・井上・山県・山川・広沢の遺児の五長州人がその中核になっている。土佐は佐々木高行のひとりにすぎない。板垣や後藤らが授爵されるのは、明治二十年のことである。土佐藩は鳥羽・伏見には間にあわなかった。わずかに佐々木が長崎港を占領した。

■西南戦争へ突入する西郷の心境

<本文から>
  桐野利秋の認識はこうだ。
 ○西郷の征韓論は本意ではなく、現政府高官への警鐘の意味がつよい。
 ○西郷は戦争のキッカケをつくるために渡縄するのではなく、逆に和平を求めて海を渡るのだ。
 ○しかし、波韓すれば西郷は殺され、それが戦争の導火線になるだろう、という展望は西郷ももっている。
 ○そのとき、すぐ役立つのは農庶民から徴募した兵でなく、旧武士であった士族軍である。
 だから現在、士族を侮るようなことはすべきではない。士族の不平にもっと理解を示すべきである。
 と、こういうことになるだろう。一見、徴兵制によって、武士の発生以来数百年間専業であった″武力″業がうばわれ、この世での生存意義を失う士族たちに深い同情と理解を示しているようにみえる。が、
 (そう思うのは甘いぞ)
 と、西郷の本質を知る桐野は持ちまえのカンでそう思っている。桐野は、
(西郷先生が本当に大切に考えているのは農民であって、おれたち士族のことではない)
 と直感していた。即ち、
(西郷先生は、大久保さんたら有司専制の徒を打倒するために、おれたち士族を利用しているのだ)
 と思っていた。
 はやくいえば″第二の戌辰戦争″であり、″節二の維新″なのだ。共和制の発想はまだ西郷先生の頭から去ってはいない。それは遠く、虫よ 虫よの歌を毎日睨みつけていた十八歳の日の鮮烈な体験に根ざしている。
(だから、政府の官僚主義をもし打ち倒せれば、その後に先生が倒すのはおれたち士族だ。いや、士族という身分にこだわる士族だろう)
 桐野はそういう見通しをもっていた。そして、桐野自身は、
(おいは、そういう西郷先生のお考えを全面的に支持し、先生がおいをどういう使い方になさろうと、おいはイヌのように従う)
 と心を決めていた。基礎教養も学問もない。むずかしい政治理念もわからない。しかし、桐野はカンだけは鋭かった。

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