童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          琉球王朝記

■琉球は五回の王統が変わる

<本文から>
−羽地朝秀の政治目的を含んだこの『中山世鑑』によって、
 「最初の琉球国王は、源為朝の息子だ」
 という説は、それまでの伝説の域を超えて、半ば史実としてかなり流布された。
 琉球王朝は、一八七九年(日本の明治十二)に滅びた(但し、一八七二年以降は琉球藩)。
 源為朝の息子だといわれる舜天が即位したのが、一一八七年(文治三)だったから、六八五年、約七百年間続いたことになる。
 しかし、琉球王朝は単一王朝がずっと続いたわけではない。少むくとも五回王統が変わっている。次のようになる.
@舜天王統−舜天、舜馬順煕、義本の三代七十四年 一一八七年(文治三)から一二六〇年(文応元)まで
A英祖王統−英祖、大成、英慈、玉城、西威の五代九十一年 一二六〇年(文応元)から一三五〇年(正平五)まで
B察度王統−察度、武寧の二代五十七年 一三五〇年(正平五)から一四〇六年(応永十三)まで
C第一次尚氏王統−尚思紹締、尚巴志、尚忠、尚思達、尚金福、尚泰久、尚徳の七代六十四年 一四〇六年(応永十三)から一四六九年(文明元) まで
D第二次尚氏王統−尚円、尚宣威、尚真、尚清、尚元、尚永、尚寧、尚豊、尚賢、尚質、尚貞、尚益、尚敬、尚穆、尚温、尚成、尚?、尚育、尚泰の十九代四百十年 一四七〇年(文明二)から一八七九年(明治十二)まで(但し、一八七二年月降の尚泰は藩王)
 (即位の年や、王交替の年月は、資料によって多少違うので、数年の差がある)

■琉球は中国から"冊封"と呼ばれる即位を認証する行為をもらう

<本文から>
  察度は一三九五年(日本の応永二)に死んだ。翌年、世子の武寧が中山王の位に即いた。
 察度には、大真者という神号が贈られた。
 武寧が王位に即いたとき、彼はすでに四十一歳になっていた。それだけ、察度が長く活躍していたということだ。ところが武寧はかなり前から「中山王世子」の称号で、独自に大明国とかなり交流していた。
 したがって、察度の対中政策は、かなりこの武寧が世子の頃からカを発揮していたのかもしれない。
 武寧は、即位した年にすぐ明に朝斉した。また、その翌年も翌々年も朝貢した。
 しかし、明の国にゴタゴタが起こっていたので、
「察度が亡くなりました」
 ということは、八年間も明国側に伝えなかγたという。
 ゴタゴタが治まった一四〇三年(応永十)にやっと、そのことを伝えね。
 明側もゴタゴタが治まったので、翌年に明の成祖は、使いを出して武寧の中山王就任を認めた。武寧に対して、
「汝を中山王に封ずる」
 という即位を認証する詔文が与えられた。同時に、王がつける衣冠が下賜された。いわゆる"冊封"と呼ばれる認証行為である。
 これは、その後のしきたりになった。つまり、この冊封行為を中国から受けながら、一方では薩摩藩の支配を受けるということで、
「琉球は、長い間両属性に苦しんだ」
 といわれるようになる。
 しかし、両属性に苦しんだといっても、明国から冊封を受けるのは、琉球自身の意思によったものであり、薩摩藩に支配されたのは琉球の意思によるものではない。逆に薩摩薄から強制されたものだ。そこが違う。

■薩摩の占領

<本文から>
 侵略軍の総司令官は樺山権佐衛門久高であり、副将が平田増宗である。総勢は三千余りだった。その軍勢を率いて、樺山は百余捜の軍船に分乗させ、琉球に向かった。
 三月四日に、薩摩藩の山川港を出帆した軍船は、三月二十五日に琉球北部の運天港に上陸した。昔、鎮西八郎為朝が"運を天にまかせて"上陸したと伝えられることからその名がついた港である。
 ほとんど無抵抗といっていいよう琉球側の対応の中を、軍はたちまち今帰仁を落とした。琉球中が大騒ぎになった。
 王府では、いままで薩摩藩と多少行き通いのあったお坊さんをはじめ、三十数人の使者を立てて交渉させた。今帰仁で樺山に会見した使者は和睦を申し出た。が、樺山は、
「和睦の件は、那覇で相談したい」
 と応じた。あくまでも王都に攻め込むつもりである。やむをえず使者たちは、樺山らを連れて那覇に向かった。樺山が、
「和睦の件は那覇で相談したい」
 と言ったのには理由があった。それは、彼が琉球を侵略するうえにおいて、薩摩藩首脳部は、「軍略覚書」というのをつくって、樺山に与えていた。軍略覚書に書かれた作戦は相当に事細かい。実は、この軍略覚書に、
「向こうがどんな対応をしても、必ず那覇に赴いて、琉球王をはじめ、王府の重臣たちを人質にせよ」
 と書かれていたのだ。
 したがって、今帰仁で簡単に和睦の相談をするわけにはいかなかった。また、
 「人質にした琉球王や重臣たちは、必ず鹿児島に連れ帰ること。和議の条件は、鹿児島で出す」
 と書かれていた.
 簡単にいえば樺山たちは琉球を侵略して、人質を連れに来たようなものだ。だから、このときの侵略軍の目的はただ一つ、琉球王を捕らえることにあった。いきなり琉球国を占領して、思いのままの政治を行なうということではなかった。
 軍略覚書は徹底していたり
 「もし、琉球王が城にこもって長く籠城するような場合は、城を焼き払え。そして誰でもかまわぬから、捕らえて人質にせよ。そのときは、島の人間を身分を問わず人質にして、鹿児島に連れ帰れ」
 と命じている。こういう台本に従って樺山たちは行勤した。
 「琉球王は、あくまでも城に立てこもって戦い抜くか、それとも城を開いて降伏するか」
 那覇に殺到した薩摩軍は見守った。
 四月五日へ琉球王府は会議に会議を重ねた結果、ついに城を開くことに決定した。第二尚氏七代の琉球王尚寧は、城を開いた。そして樺山に和議を申し入れた。が、樺山は、軍略覚書に書かれたとおり、
 「和議の相談は鹿児島で行ないたい。ついては、琉球王はじめ、主だった人々の同行を求めたい」
 と申し入れた。この樺山の返事に王府は沸騰した。
 「鹿児島に行ったら、薩摩藩の思いどおりになる。絶対に反対すべきだ。あくまでも王をはじめ、主だった人々を鹿児島に連行するというのなら、最後の一兵まで戦うべきだ」
 と反対の声を上げる者もたくさんいた。しかし、城外に殺到した圧倒的な薩摩軍の武力の征圧の前には、彼らの士気も萎えた。尚寧王は覚悟した。
 「鹿児島へ行こう」
 率先して自ら囚われの身になった。
 この間、王府側でも薩摩軍と戦闘行為に入った者もいた。しかし、いままでさんざん合戦の場を経てきている薩摩軍に、琉球国軍は物の数ではなかった。たちまち粉砕され、指揮を執っていた隊長は首を取られた。尚寧が進んで、
 「自分が鹿児島に行く」
 と言い出したのには、そういう事情もあった。

■薩摩による第一次琉球処分

<本文から>
  謝名親方は、他の重役たちと顔を見合わせた。思わず、
(薩摩藩のやり方は汚い)
 と思った。角度を変えてこう訊いた。
「しかし、薩摩国とこういう関係になれば、風習や暮らし方などで、日本の文化に琉球国側が従わなければいけないような面も出るのではないですか?」
 これを聞くと、薩摩側はニヤリと笑って首を横に振った。
「その必要はない」
「え?」
「琉球国民は、いままでどおりの服装と暮らし方を続ける。つまり、薩摩藩は琉球国に住む人間の暮らしぶりについては、いっさい干渉しない」
 謝名親方は、
 (ああ、そうか)
 とすぐ気がついた。薩摩藩は、自分の国が琉球王国を支配しているということを、明に知らせるなと言っている。明に対しては何食わぬ顔で、いままでどおり朝貢貿易を続けろ、そしてその益は薩摩藩が申し受ける。そのためには、明をだませということだ。実質的には薩摩藩が支配していながら、明に対してはあくまでも琉球王国が朝貢国として交流を続けているという体を装えということである。
 謝名親方は呆れた。と同時に、今度の薩摩藩の琉球侵攻がけっして短時日で企てられたものではなく、練りに練った計画をもって臨んできたのだということを悟った。深い絶望感が彼を襲った。
 薩摩側に迫られて、尚寧王は署名した。尚寧王は重臣たちに、
 「この状況下で琉球王国がどう生きてゆくか、首里城に戻って改めて相談しよう。いまは著名する以外手はない」
 と悲痛な顔をして告げた。謝名親方は承知しなかった。薩摩藩側が強硬に迫った。謝名親方は・首を横に振り続けた。
 「やむをえない」
 薩摩側は謝名親方を処刑した。それまで謝名親方に同調して、著名を渋っていた他の三司官は驚いて著名した。こうして、明には内緒にするということを前提に、薩摩藩は琉球王尚寧ほか、主だった役人たちから完全に起請文を取りつけたのである。
 「掟十五か条」を具体的綻実行するために、
・琉球国からは、人質・慶賀使・謝恩使・年頭使を派遣すること。
・国王及び摂政の就任については、事前に必ず薩摩藩の承認を得ること。
・琉球側め治安並びに薩摩藩への入港品の管理監督に当たらせるため、薩摩薄から琉球に在番奉行を常駐させること。
・琉球側は鹿児島に仮屋を置き、三司官級埋蔵級役人を派遣し常駐させること。
・琉球国の貿易は中国以外と行なってはならないこと。
・薩摩藩は、時に応じて琉球国の検地を行なうこと。
・琉球国は、年貢などの納入についてはとどこおりなく務めなければならないこと。
・琉球国においてキリスト教を信じることは固く禁ずること。
 完全な薩摩薄の琉球国の植民地化である。薩摩側は念を押した。
 「琉球国王が代わるたびに、明から冊封便の派遣を受けているが、これはいままでどおり続けるように」
 つまり、薩摩側が主張する、
 「このたびの薩摩藩の琉球国支配の事実は、絶対に明には知らせるな」
 ということのダメ押しであった。
 これが「第一次琉球処分」といわれる事件の内容だ。

■薩摩藩の支配政策を逆手に取る

<本文から>
 羽地朝秀が考えた第三の道というのは、まったくの発想の転換を基においた考えだ。それは、
 「薩摩藩のあの力を、琉球国の改革に利用してやろう」
 ということである。
 すなわち羽地朝秀は次のように考えた。
・薩摩藩の琉球処分はいうまでもなく不当である。
・しかし、向こうは強い武力をもっているので、現在の琉球国は残念ながら抵抗できない。それに琉球王国は、ずいぶん前に戦争を放棄している。国内的には一種の平和宣言を行ない、農業や貿易や芸能をこの国の特性にしようと宣言している。
・薩摩藩の不当な処分に対して、現在琉球国民は怒っている。しかしその怒りの表現は、もっぱら自暴自棄に陥ることによって表わされている。特に知識人にこの傾向が強い。これではダメだ。
・そこで、もう一度琉球王国の自主性を取り戻したい。それには琉球国民がいまの状況から脱出して、しつかりと足腰を鍛え直さなければならない。それには、ある意味で贅肉をそぐような辛い思いもする。血を流すことが必要だ。
・そこで琉球王国の自主性とはいったい何か。それは薩摩藩に対して、彼らに向かい合えるような武力を養うことではない。むしろ伝統文化におくべきだ。琉球王国は、平和路線から外れてはならない。
・その伝統文化を薩摩薄に示すためにも、琉球国民がここでもう一度自分の生活を改めなければならない。
・しかし生活を改めろといっても、自分たち(琉球王朝の最高幹部、すなわち羽地朝秀たち)政府首脳部が何を言っても目下聞く耳をもたない。つまり、琉球国民は薩摩藩に支配されるようになったのが、もともと尚王府が弱腰だったからだと思っている。特に尚寧王は、薩摩藩に起請文を入れたり、十五か条にわたる掟を甘んじて受け取って来るようなていたらくだ。からきしだらしがない。そんな王と、王を支える重役層は頼り甲斐がない。
・その意味では、現在の琉球王府は国民から馬鹿にされている。
・そこで国内改革を行なう前提として、王府の力をもう一度国民に示す必要がある。
・それには王府自身が、いくら叫んだりわめいたりしていてもダメだ。精神教育だけでは国民の意識は変わらない。
・そこで暫定的に、つまりつなぎとして一時期、薩摩藩の力を利用したらどうだろう。
・すなわち、これから行なう改革のいろいろな指示・命令は、すべて薩摩薄から出ているといったほうが、受け取るほうは受け取りやすいのではないか。同時にまた効果が上がる。
 羽地朝秀が考えたのはざっとこんなことだった。
 これが彼のいう"第三の道"だった。
 しかし、現在でもそうだろうが、こういうことを口に出せば、いろいろと議論が起こってくる。
 「動機が不純だ」
 「現実に妥協しすぎる」
 「やり方が姑息だ」
 「自主性の許容の限界を超えている」
 こういう批判が加えられるだろう。
 しかし、こういう"第三の道"という発想をもつこと自体、羽地朝秀独特の人間性があった。
 それが前に書いた彼の血統の屈折性と複雑性だ。つまり、世添御殿に邪魔されて、たった半年で王位から退かなければならなかった第二代尚宣戚の悔しさと、さらにその子に生まれながら、またまた世添御殿の干渉によって、王の近くから退かなければならなかった尚維衡の無念さが、ずっと伝わっている。

■蔡温は融通無碍のソフトな政策を展開した

<本文から>
  「蔡温は、融通無碍のソフトな政策を展開した」
といわれる。蔡温は別に「日琉同祖論」などは唱えなかった。しかし、彼もまた薩摩藩の力を虎の威として最大限に活用したことは確かだ。彼は、何よりも農業を大切にする政治家だった。つねに、
 「農は国の本だ。農が廃れば、国も滅びる」
 と言っていた。そのために、彼は農政が得意であり、治水が得意だった。また、彼の最大の功績は「山林対策」で、特にその植林政策は抜きん出たものとして高く評価されている。
 蔡温は、蕪鐸の息子だ。蕪鐸は、「中山世譜bや「歴代宝案」などの編集者として有名だ。
しかし、蔡鐸を登用したのは前代の尚貞王だった。「中山世譜」は、羽地朝寿が編んだ『中山世鑑』の漢訳版である。『中山世鑑』は和文で書かれていた。このへんにも羽地朝秀の姿勢がうかがわれる。つまり、和文を実施し、日本の古典文学を勉強した彼らしい営為である。
 この学者の家に生まれた蔡温の略歴は、ざっと次のとおりだ。
 一七〇二年(尚貞王三十四、日本の元禄十五)訓話師(読書指導役)に任命される。
 一七〇八年(尚貞王四十、宝永五)進貢存留役として福建に三か年留学する。主として学んだのが「地理学」だった。
 一七一一年(尚益王二、正徳元)世子中城王子(後の尚敬王)の世子師職兼近習役に任命される。
 一七一三年 尚敬王即位(正徳三)と同時に、国師職に任命される。
 一七一六年(尚敬王四、享保元)末吉地頭に任命される。同時に正議太夫・申口座に任ぜられ、尚敬王の冊封を請うため、中国に渡る(この頃の中国は、一六六二年、尚質王十五年、日本の寛文二年に明が滅びて、女真族の清国に代わっていた)。
 一七一九年(尚敬王七、享保四)清から来た冊封使によって、尚敬王は清に琉球王を公認された。蔡温の功績は高く評価された。
 一七二六年(尚敬王十四、享保十一)父の漢訳化した『中山世譜』を改訂した。
 一七二八年(尚敬王十六、享保十三)三司官職に任命された。以後、得意な農業・治水・山林対策などで腕を振るう。また、伝統文化にも力を入れ、たとえば尚敬王が清から冊封を受けた一七一九年には、琉球ではじめて組踊りを上演させた。
 一七五二年(尚穆王元、宝暦二)前年亡くなった尚敬王に殉じて三司官職を退く。
 蔡温が死んだ後、琉球王朝内ではよく、
 「蔡温に選れ」
 といわれた。王政に惑いが出たり、混乱が起こつたりしたとき、必ず常識ある人々は、この言葉を口にした。それほど蔡温は影響力が強かった。

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