童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          龍馬と弥太郎

■弥太郎は土佐のいごっそう″

<本文から>
 岩崎弥太郎は面白くなかった。せっかく金の面倒を見てやっているのに、「海援隊」の連中はひとつもありがたいと思わなかったからである。当たり前な顔をしている。また、どうも見ていると海援隊の連中は岩崎弥太郎が嫌いらしい。これは岩崎弥太郎にとって心が傷つけられる行動だった。弥太郎は詩人だ。漢詩をよくつくる。詩人というのは神経が敏感だ。そして、
「他人からどう見られているか」
ということを非常に気にする。だから、弥太郎も他人が好意を寄せ、褒めてくれればすぐ乗って有頂天になり、潜在している能力を自分で引き出すことができる。ところが逆の対応にあうと、途端にしょげ込んでやる気を失う。かれがしばしばとっぴな行動に出て、土佐人らしい いごっそう$ク神(強情・頑固な精神)を発揮するのも、逆にいえば繊細な神経が反動的にそうさせるのだ。
(海援隊のやつらは、なぜおれを嫌うのだろうか)
 長崎に来て、かれらが「亀山社中」といっていたころからずっと気になっていることだ。海援隊の隊長は同じ土佐人の坂本龍馬だが、龍馬も必ずしも弥太郎に心からの親密さは見せない。(政治派閥が違うからだろうか)
 そうも思う。坂本龍馬はもともと武市半平太が結成した「土佐勤王党」のメンバーの一人だ。岩崎弥太郎はそれに敵対する藩の学者家老、吉田東洋に教えを受けた。東洋の甥、後藤象二郎の紹介によって東洋の門に入った。そのころの弥太郎に、
 「青雲の志を遂げたい」
 という野望がなかったとはいえない。青雲の志を遂げるということは、藩で出世することだ。
 坂本龍馬は天保六(一八三五)年十一月の生まれだ。岩崎弥太郎はその前年天保五年十二月に生まれている。まる一歳違いだ。しかしほとんど同年だといっていい。にもかかわらず、いまの社会的立場からすれば龍馬と弥太郎とでは、月とスッポンの差があった。
 弥太郎は、土佐藩の貿易機関「開成館」の長崎出張所である「土佐商会」の一役人にすぎない。所長は後藤象二郎だ。その後藤象二郎は毎晩のように長崎の丸山の料亭で、坂本龍馬と歓談している。そしてそのツケを全部弥太郎に回してくる。
 「弥太さん、また頼むぞ」
と臆面もなく言う。弥太郎は渋面をつくる。
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■弥太郎は吉田東洋に論文を認められ入塾する

<本文から>
「武士は食わねど高楊枝、というような悪習を城から放逐することです。むしろ、銭こそ藩の運営にとって欠くことができない、という考え方を、全藩士が持つことでしょう。そのうえで、藩内の産業を振興することが藩富につながります」
 ということである。後藤は感心した。しかし後藤は横着だ。
「わかった。すばらしい。そのことをそのまま文章にしてほしい」
と言った。どこまでも自らの労を費やさずに、その結果だけを得ようというずるい申し出であった。しかし岩崎弥太郎はこれに応じた。書き上げた論文を持って後藤象二郎はよろこんで帰っていった。
「おれは嘘が嫌いだ。だからこの論文はおぬしが書いたと正直におじに言おう。おじからきっと何か話があると思う。楽しみにしていてくれ」
 そう告げた。
 しかし岩崎弥太郎はこの機会を単に座視して過ごす気はなかった。かれは打って出た。それは、後藤象二郎を通じて吉田東洋に、
 「少林塾の弟子にしていただきたい」
 と申し出たことである。自分の塾は閉じた。つまり橋を焼き、退路を断つ覚悟で、この入門を願ったのである。吉田東洋はすでに後藤象二郎が持ってきた論文を読んで感心していた。東洋はたしかに″いごっそう者″であり、頑固だったが、
 「藩を富ませるにはどうすればよいか」
 ということを始終念頭に置いていた。だからかれの少林塾に学ぶ門人たちは、東洋のこの考えに共鳴していた。勢い門人には藩士が多い。
 許されて少林塾に入った岩崎弥太郎は、同門に後藤象二郎・福岡藤次・神山左多衛・松岡時敏・市原八郎右衛門・麻田楠馬・大崎健蔵・野中大内・間崎哲馬などの俊秀が、ズラリとその頭脳を並べていることを知った。これは岩崎弥太郎にとって、いわば、
 「俊秀たちとの一期一会の出会い」
である。
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■河田小龍によって海援隊構想の芽を出していた龍馬

<本文から>
「海援隊構想」
の芽を出していたといっていい。
 河田小龍は満足そうにうなずいた。
 「君はときおりわしを訪ねてくるが、いままで君のことを″土佐の小さな蛙″だと思っていた。しかし今日の話を聞いていると違うな。君は明らかに″日本の蛙″に成長している。その志をさらに育てて、″世界の蛙″になりたまえ」
 「必ずそうします。大海と大船をわたくしの大業といたします」
 熱っぽく龍馬は小龍に誓った。
 この河田小龍とのやりとりを見ていると、のちに龍馬が再び江戸の千葉道場に戻ったあと、定吉の弟重太郎とともに開国論者として知られていた勝麟太郎(海舟)を殺しに行った、という話にはちょっと疑問を持つ。というのは、勝を斬りに行った(文久二・一八六二年のこととされる)ころに、まだ頑固な攘夷論を抱いていたとは思われない。はるかに開明的な考えを持っていたはずだ。つまり開国論者になっていたと思う。
 もちろん龍馬はその前年(文久元年)に、同じ土佐の同志、武市半平太が結成した「土佐勤王党」に加わっているから、建前上攘夷論を唱えなければならなかったのかもしれないが、しかしそれが勝を斬るまでに飛躍したとは思えない。千葉重太郎とともに勝頼太郎を訪ねたのは、河田小龍から叩き込まれた、
 「積極的開国論の実行方法」
を勝に教えてもらうため、と考えた方がすんなり龍馬の考えがわかる。しかし、前に書いた(三段階にわたる自己改革)を平然と口にするような龍馬のことだから、あるいは一時積極国論を引っ込めて、武市半平太たちに合わせた″攘夷論″に考えが変わっていたのかもしれない。その辺は龍馬は複雑な人物だから、一概に言い切ることは控えよう。
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■土佐の改革は龍馬も弥太郎もどうでもいいことだった

<本文から>
 吉田東洋が殺されたあと、その政権が崩壊したために勤王党の勢いが強くなった。勤王党の構成分子のほとんどが、下級武士や地下浪人などだったので、この意見が藩政に大きな影響を与えるようになった。悪いことではない。だが、上層部は警戒した。
「このままだと、勤王党に藩を乗っ取られてしまう」
という危機感を持った。そこで、
「吉田東洋暗殺の犯人を至急逮捕し、これを罰して勤王党弾圧のきっかけにしよう」
 と考えたのである。藩上層部は吉田東洋の改革には必ずしも賛成していなかった。特に東洋が改革の柱の一本にした、
 「身分制度の改革」
 には猛反対だった。東洋は十五あった武士の家格を五つに減らそうと考えていた。かれの藩軍備の強化や公武合体策は、前藩主容堂の方針なのだからこれはこれでいい。公武合体というのは別に反幕思想ではない。
 「朝廷とも幕府とも仲良くしよう」
 ということだ。流行の言葉を使えば″尊王敬幕″である。これなら別に文句はない。したがって藩上層部も、
 「この路線が堅持される限り、土佐藩制は安泰だ」
 と思っている。しかし吉田東洋の改革政策があまりにも過激なので、藩上層部は、
 「老公の公武合体作は間違っていない。しかし吉田東洋の実現方法は間違っている」
 と目的と方法を分けて考えていた。が、いずれにしても山内容堂を尊敬していることに変わりはない。そして土佐勤王党の結成も、もともとは、
 「安政の大獄において、殿(容堂)に隠居謹慎を命じた幕府はけしからん。殿を守り抜こう」
 という趣旨から出発したものだ。したがって土佐勤王党も山内容堂を尊敬している。つまり容堂の存在は、まったく相反する政策実行者、特に上層部と下層部の対立を和らげる、一つのブリッジになっていた。
 脱藩した坂本龍馬が、こんな状況を見て、
 「そんなことはどうでもいい。いまの日本国にとってどういう意味があるのだ?」
 と大所高所から見て問題にしなかったのと対照的に、岩崎弥太郎は地べたに張りついている自分の立場から、
 「そんなことはどうでもいい」
 と思っている。弥太郎にとっては、とにかく郷士の資格を取り戻し、経済力を身につけることが目前の大目的だった。しかし、下横目の井上佐一郎と大坂に着いて、上方の情勢をつぶさに見てみると、そんな個人的な欲望などは吹っ飛んでしまった。上方の政局は、岩崎弥太郎の目を見張らせるほどとんでもない事件が相次いでいたからである。
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■勝から教わった″一大共有の海局″

<本文から>
 河田小龍からすでにグローバリズムの知識を吹き込まれていた坂本龍馬が、単に開国論者だからといって、勝海舟や横井小楠を斬ろう、などと思って接触したのではなかろう。河田小龍から教えられたことを、具体的に日本的規模で行うにはどうすればよいか、その構想があれば教えてもらおう、と思って訪ねたのではなかろうか。
 思い切った推論をいえば、龍馬が身を置いている千葉道場の道場主定吉の弟に重太郎というのがいた。これが熱烈な攘夷論者だったので、龍馬にすれば、
 「考えが誤りであることを、おれではなく勝先生や横井先生から敢えていただこう」
 と思ったのかもしれない。いずれにしても千葉重太郎とともに勝海舟を訪ねた龍馬は、この日勝からあらためて世界情勢とその対策を懇々と教えられた。勝は言った。
 「いま、日本が国難に立ち向かう唯一の方法は、一大共有の海局″を持つことだよ」
 「いちだいきょうゆうのかいきょく?」
 龍馬はきき返した。勝はうなずいた。そして自分の机の上に置いてあった紙に、筆を取ってさらさらと 「一大共有之海局」と書いた。龍馬はうなずくと、
 「何ですか、これは」
 ときいた。勝は言った。
 「幕府と大名家の海軍を一つにまとめることだ。そしてそれをとりあえず幕府が管理することだ」
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■世の中を変えるときには、まずこういう過激な論が先行するのが通例

<本文から>
 文久三(一八六三)年三月四日、将軍家茂が、三千人の供を連れて京都に着いた。二条城を宿舎にした。京都に集結していた長州藩を背景とする尊摸派はある計画を持っていた。それは、
●孝明天皇に賀茂社と石清水八幡宮に嬢夷祈願をしていただく
●このとき、将軍家茂は供奉する
●石清水八幡宮参拝のときに、天皇は将軍家茂に攘夷の節刀を授ける
●こうして、将軍家茂を攘夷を行わざるを得ないような、のっぴきならない立場に追い込む
●もし、将軍がこれを拒むような場合には、京都に集結している尊嬢派が長州藩を核に、討幕の軍を起こす
 という凄まじいものであった。
 しかし世の中を変えるときには、まずこういう過激な論が先行するのが通例だ。もちろん、現実はその過激論にすぐ追いつけるような状況にはない。が、こういうつむじ風を起こすというか、あるいは火の手を上げるというか、先行者がのろしを上げることによって、そのあとに続く者が生まれてくる。このときも同じだった。すぐ幕府を倒し新政府が樹立されるような状況にはまだない。世論全体がそこまで高まってはいなかった。その意味では、こういう論を唱える志士たちは、一種の″魁″の役割を果たしていた。
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■薩長同盟

<本文から>
 龍馬を知っている人々によれば、
 「龍馬は長身で、常に穏やかにゆっくりと話をする人物だった」
といわれている。その龍馬が怒った。西郷はさすがにびっくりした。そしてすぐ、
 「わかった。明日早速こちらから切り出す」
と折れた。
 こうして慶応二年一月二十一日に、薩摩藩と長州藩は軍事同盟の約定を結んだ。席にいたのは、薩摩藩から小松帯刀・西郷吉之助、そして長州藩から木戸孝允、それに立会人として坂本龍馬である。翌日、同盟文が合意されたが、木戸孝允は疑い深かった。龍馬に、
 「君が裏書してくれ」
 と言った。龍馬は苦笑した。のちに龍馬は、
 「木戸という人間は、まるで愚痴ばかりこぼすおばあさんのようなタイプだ」
 とその印象を語っている。しかし何度も薩摩藩に騙された木戸にすれば、慎重を期すのは当たり前だ。
 世にいう「薩長同盟」の約定内容は次のとおりだ。
●皇国(日本)のために薩摩藩と長州藩は手を振ること
●長州藩と幕府の間に戦争が起こったときは、薩摩藩はただちに二千の兵を出し、京都にいる兵に合わせて大坂へも千人ほど出して京坂を固めること
●もしも長州藩が幕府に勝ったときは、朝廷へ申し上げて長州藩の立場を好転させること
●長州藩がもし負けることがあっても、一年や半年は必ず持ちこたえるから、その間に薩摩藩は尽力すること
●戦いにならず幕府軍が東帰(江戸へ戻ること)したら、朝廷へ長州藩の無実の罪を証明すること
●もし長州藩が京都に進出した場合に、これを妨げるものがあれば薩摩藩も決戟の覚悟を決めること
●長州藩の菟罪が許された場合は、薩摩藩と長州藩は誠心をもって相合し、皇国の御為めに砕身尽力すること
●この場合は互いに誠心を尽くし、尽力すること
 となっている。いずれにしても、
 「皇国(天皇の国家)のために誠心を尽くして尽力する」
ということが前提であり、同時にそのためには、
 「いま朝敵の汚名をこうむっている長州藩の立場を回復することに、薩摩藩も力を尽くしてほしい」
 となっている。
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■龍馬と後藤象二郎は政治的ロマンが共鳴した

<本文から>
 龍馬は笑顔を捨てて厳しい表情でそう言った。きっぱりとしたものの言い方に社中の連中は思わず顔を見合わせた。普段の龍馬はこんな厳しい表情をしたことがなかったからである。
 清風亭には後藤のほうが先に着いた。かれはずるい。というのは、すでに馴染みを重ねたお元という芸者を同席させていたからである。
 「やっぱりなあ、照れくさいよ。いろいろないきさつがあった末に坂本君に会うのだから。かれにも言い分があるだろうからなあ。女がいると座が和らぐ。お元がいれば、坂本君もまさかの行動には出ないだろう」
 後藤はそんなことを言った。照れ隠しもあった。溝淵はまじめな表情で首を横に振った。
 「後藤さん、間違っても昔の話はしないでくださいよ」
 「しないよ。おれのほうはしないつもりだが、坂本君のほうから言い出したらこれは相手にならざるを得ない。そのときはお元に割って入ってもらうつもりだ」
 そう言った。やって来た龍馬は、部屋に入ってお元がいるのに驚いた。しかしかれはすぐ笑った。
 「後藤先生、なかなかやりますな」
 「勘弁してくれ。面と向かって君と会うのはどうも面はゆかったのだ。話の進み具合によって は、お元は外に出すから気にしないでほしい」
 「いや、別に構いませんよ」
 龍馬はニコニコしながらそういった。この夜、二人がどんな話をしたのかは記録がないそうだ。しかし後藤も坂本も過去の話にはまったく触れなかった。つまり、土佐勤王党の件は話題にしなかったのであるり過去を一切凍結したまま、今後のことについて話し合った。
 後日、龍馬は土佐の姉、乙女への手紙の中で、
 「後藤象二郎は実に同志で、人の魂も志も、土佐国中でほかには絶対にいない人物です」
と書いている。すでに龍馬自身が一流の政治家であり、また当時の一流の人物であった多くの人々に接してきていたのだから、人物を見る目は相当冴えていたはずだ。にもかかわらず、これだけべた褒めするというのは、よほど龍馬が後藤象二郎の人柄に胸を打たれたのに違いない。その根幹には龍馬自身の持つ、
 「ロマン精神」
が、後藤にもあったということである。後藤象二郎のロマン精神とは、
 「政治的ロマン」
だ。だからその意味では龍馬のロマンとは質がちょっと違う。そして後藤は龍馬と話したことによって、また目から鱗が落ちた。かれの現在を支持しているのは山内容堂だったが、容堂の言行を見ていても後藤には、
 (容堂様は、やはり前土佐藩主という立場にこだわられている)
 と思える。いまの後藤はもう藩主だとか藩だとかという過去の遺物にこだわっていては、本当の土佐藩の進路は見えないと考えていた。
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■大政奉還案

<本文から>
「将軍が朝廷に大政を奉遷する」
 という″大政奉還″案である。後藤象二郎は勇躍して大坂に船を着け、京都へ急いだ。京都では、薩摩藩の国父島津久光が呼びかけて、越前の松平春嶽・土佐の山内容堂・伊予宇和島の伊達宗城の四侯が集まって会議が開かれていた。内容は、
●イギリスから兵庫開港を強く要求させる
●それをきっかけに、外交権を幕府から四侯会議に移す
 というものであった。しかしこれは島津久光の案であって、松平春嶽と山内容堂が反対した。後藤象二郎はこの席で山内容堂に、
 「将軍から大政を奉還させるべきだ」
 と言わせるために坂本龍馬を連れて急ぎ上京してきた。ところがタイミングが悪く、決裂した四侯会議に落胆して山内容堂は土佐に帰ったあとであった。
 「惜しかったな」
 後藤象二郎はぼやいた。龍馬は、
「落胆しないでください。このまま土佐へ戻って、後藤さんから容堂公に大政奉還案を幕府に提出するように仕向けてください。大政奉還を言い出したのはあくまでも土佐藩だという印象を強く天下に与えてください」
 と言った。
「そうしよう」
 後藤は急いで土佐へ戻っていった。
 この上京の船旅で後藤象二郎が龍馬に真剣な面持ちで話したことがある。それは、
「薩摩藩や長州藩は、いましきりに武力討幕を訴えているがおれは反対だ。その理由は、一つはこれは国内で戦争を起こすということだから、へたをすれば虎視耽々と日本国土を狙っている外国列強に乗ぜられるおそれがある。外国が日本の国内戦争に介入すれば、その行末はどうなるかわからない。これが一つだ。
 もう一つは、土佐藩の軍備がまだ幕府を向こうに回して戟えるほど整っていない。おれには自信がない。おまえたちの世話でいろいろと艦船や銃砲を買い込んでいるが、まだまだだ。聞くところによれば、新しく将軍になった徳川慶喜は、フランスの力を借りて幕府の軍備を近代化し、しきりにその補強に努めている。これはばかにできない。その点でも、おれは武力討幕には自信が持てないのだ」
 と正直にそう言った。龍馬はこれを認めた。後藤は、
「だからこそ、君の考え出した大政奉還案は渡りに船で、行き詰まった土佐藩の進路を救うことにもなるし、また土佐藩の存在をあらためて天下に示すきっかけになる。ありがとう」
 そう言った。本音だろう。龍馬はそれでいいのだと感じた。
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■九十九商会

<本文から>
「商会の旗がいりますね」
 と言われ、弥太郎は藩主山内家の家紋である三乗相と、岩崎家の家紋である三階菱とを組み合わせ、″三角菱″をデザインした。しかし九十九商会の実務はまったく弥太郎頼りだった。と
 いうのは、外国の商会との交渉や取引は、すべて弥太郎がいなければ成り立たなかったからである。同じ月、藩は弥太郎に「少参事」つまり″土佐藩大坂藩邸の支配人″という役名を与えた。藩札交換をやらされたのは、この二か月ほどあとのことだ。弥太郎はこのころ大坂藩邸内に英語学校を設けている。それはいままでの経験、特に長崎での生活から、
 「現在の国際語はもうオランダ語ではない。英語だ」
 ということを痛いほど知らされていたからである。しかし、弥太郎自身は英語には興味を持たなかった。
 詩人的気質の強い弥太郎は、やはり遊興の徒でもあった。大坂で外国の商人相手に取引をまとめるのに、毎晩のように花街で豪遊した。これがまた問題になって土佐の国元に知れた。藩は、
 「岩崎のやつは、何度懲らしめても性懲りなく贅沢な饗応を行っている」
 ということで、調査のために石川七左衛門という武士が派遣されてきた。石川は毎日弥太郎の動向を調べた。ところが、この存在が弥太郎にすぐ知れた。ある日、尾行していた石川に、突然 弥太郎がくるりと振り返って二コニコ笑いながらこう言った。
 「おい、毎日の尾行ごくろうさん。ちょっと付き合え」
 そう言って近くの酒亭に案内し、酒を飲みはじめた。このとき弥太郎は悪びれずに、自分の現在の豪遊が何のためかということを語った。それは、
 「これからは、経済の時代がやってくる。実業の時代だ。それも、国内だけではなく、国際的に海外の諸国を相手にした大商売だ。そんな時代に、おれのような小物のあとをこそこそつけてつまらぬ報告書を書くなど男のやることではあるまい。どうだ? 石川君、いっそのこと藩から飛び出しておれの仕事を手伝わんか」
 そう言った。石川はこの弥太郎のことばに、一も二もなく恐れ入ってしまった。それは弥太郎が、ことばの最後に、
 「石川君、藩などというものはすぐなくなるよ」
と言ったからである。弥太郎は後藤象二郎からすでに、
 「近く藩は廃止され、代わりに県が置かれる」
 という情報を得ていた。そしてさらに、
 「廃藩置県が決定した日には、政府はその場の相場をもって大名家の藩札を全部買い取る」
 ということまで知らされていた。
▲UP

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