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<本文から> 岩崎弥太郎は面白くなかった。せっかく金の面倒を見てやっているのに、「海援隊」の連中はひとつもありがたいと思わなかったからである。当たり前な顔をしている。また、どうも見ていると海援隊の連中は岩崎弥太郎が嫌いらしい。これは岩崎弥太郎にとって心が傷つけられる行動だった。弥太郎は詩人だ。漢詩をよくつくる。詩人というのは神経が敏感だ。そして、
「他人からどう見られているか」
ということを非常に気にする。だから、弥太郎も他人が好意を寄せ、褒めてくれればすぐ乗って有頂天になり、潜在している能力を自分で引き出すことができる。ところが逆の対応にあうと、途端にしょげ込んでやる気を失う。かれがしばしばとっぴな行動に出て、土佐人らしい いごっそう$ク神(強情・頑固な精神)を発揮するのも、逆にいえば繊細な神経が反動的にそうさせるのだ。
(海援隊のやつらは、なぜおれを嫌うのだろうか)
長崎に来て、かれらが「亀山社中」といっていたころからずっと気になっていることだ。海援隊の隊長は同じ土佐人の坂本龍馬だが、龍馬も必ずしも弥太郎に心からの親密さは見せない。(政治派閥が違うからだろうか)
そうも思う。坂本龍馬はもともと武市半平太が結成した「土佐勤王党」のメンバーの一人だ。岩崎弥太郎はそれに敵対する藩の学者家老、吉田東洋に教えを受けた。東洋の甥、後藤象二郎の紹介によって東洋の門に入った。そのころの弥太郎に、
「青雲の志を遂げたい」
という野望がなかったとはいえない。青雲の志を遂げるということは、藩で出世することだ。
坂本龍馬は天保六(一八三五)年十一月の生まれだ。岩崎弥太郎はその前年天保五年十二月に生まれている。まる一歳違いだ。しかしほとんど同年だといっていい。にもかかわらず、いまの社会的立場からすれば龍馬と弥太郎とでは、月とスッポンの差があった。
弥太郎は、土佐藩の貿易機関「開成館」の長崎出張所である「土佐商会」の一役人にすぎない。所長は後藤象二郎だ。その後藤象二郎は毎晩のように長崎の丸山の料亭で、坂本龍馬と歓談している。そしてそのツケを全部弥太郎に回してくる。
「弥太さん、また頼むぞ」
と臆面もなく言う。弥太郎は渋面をつくる。 |
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