童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          龍馬「海援隊」と岩崎弥太郎「三菱商会」

■岩崎弥太郎の意見書

<本文から>
 東洋の改革は前に書いたように、
●藩権力の強化
●そのための制度改革と人材登用
●そのための資金の調達
 などに分類できるだろう。これは後藤象二郎を通じて得た岩崎弥太郎の意見書もかなり反映していたと見ていい。岩崎弥太郎はこれも前に書いたように開港当時の改革者野中兼山の功罪を参考にしながら、
 「兼山に学ぶべきこと」と「学ばない方がいいこと」
に分けて成文した。学ぶべき点というのは、兼山が特に、
 「藩内の産業振興」
に力を入れたことである。木材を主に、あらゆる産品に付加価値を加えて市場価値を高める智恵と汗の搾り出しを献策している。しかし弥太郎は、
 「兼山に学ばない方がいい」
 という項目を挙げ、
●産業振興はよいけれど、あまりにもそれらの品物を藩直営によって売買するのは控えた方がいい
●なぜなら、それによって商人が勢いをなくし、同時にそれが生産者への貸し金工作に変わっている
●そのために、生産者は産業振興とはいいながらも、必ずしも豊かになっていない。
●商人は、商売をするよりも金貸しにうつつを抜かすようになり、生産者を圧迫している
●そのために、兼山の改革に不信感が持たれたのは、結局誰も豊かにならないという結果が出たためである
と書いた。これは後藤も感心したし、吉田東洋も感心した。
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■弥太郎は自分の能力の限界を知っていた

<本文から>
「自分はどうも、組織の中で動くのには向いていない」
 という感じを持っていたからである。その孤独感″は、結局子供の頃から養われたものだ。地下浪人の父の子と生まれて、子供のときから味わってきた周囲の白い眼や、あるいは差別扱いに対して抵抗できない立場が、嫌というほど骨身に沁みている。一朝一夕には解決できない。よほど思い切った飛躍を遂げなければだめだ、というのが弥太郎の考えであった。そして漢詩人であるかれの気質から、
 「できれば、おれはそれを個人の立場で実現してみたい」
という野望のような志が湧いていた。弥太郎はその志を大事にしたい。したがって、いくら誘われても土佐勤王党には加盟しなかったのである。これは土佐勤王党の主旨や目的に賛同しなかったということではなく、
 「おれはしょせん個人なのだ」
という、組織から距離を置いたところに身を置くかれの存立感″に原因がある。
 後年商会を組織してからのかれは、常にそういう自分の限界を心得ていた。だからかれは、
 「おれ一人では組織を結成することも、運営することもできない。おれという存在を活用するような頭脳や手足や胴体が必要なのだ」
 と謙虚に考える。したがってかれは後年中川亀之助・川賃−郎・石川七財など、多くの人材を脇に置いたが、すべてこの遜った考えに基づいている。その意味でかれは、
 「自分の能力の限界を知る」
という。とに、最も忠実な人間であった。
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■長崎の失敗で温和な人間になった弥太郎

<本文から>
「おれはどうも組織の中で生きるのが苦手だ。やはり、自分独りの力でなにかを成し遂げたい」
 という気持ちが強い。だから今住む地域で、いろいろな事業を起こしてはいるが、あくまでもそれは、
 「個人の努力」
であって、他を頼んだり、あるいは周囲の協力を強いで求めるようなことは絶対にしない。というのは、変化が起こっていた。それは、長崎で失敗してから岩崎弥太郎自身の性格もガラリと変わったからである。かれはかつての、
 「圭角の人」
ではなくなっていた。かなり愛想がいい。それは、
 「自分と意見が違う人間も、温かく受け入れる」
というように人間が変わってしまったのだ。別に損得勘定でそうなったわけではない。
 これは弥太郎自身も自分自身を不思議に思う。
(いつからおれはこんな温和な人間になったのだろうか?)
と思うことがよくある。
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■後継者・弥之助

<本文から>
 弥太郎の事業をもっと密接に支えたのが弟の弥之助だ。弥之助は嘉永四(一八五一)年生まれだから、嘉永五年生まれの良平とほとんど兄弟のように育った。弥之助もまた、土佐藩の藩校致道館で学んだあと、大坂にいた兄弥太郎のところに行った。そこで明治六(一八七三)年には、三菱商会の副社長に就任した。後藤象二郎の長女早苗と結婚し、三菱の近代化に力を尽くした。兄弥太郎は、会社創立の時期は、やはり政府との関係を深めいわゆる政商〃の道を歩かざるを得なかったが、弥之助はそういう兄の脇にピタリと付いて、やがては、
 「政商から近代産業を基礎とする財閥への道」
を辿って行く。そして兄がまず海運業からスタートしたので、この企業を維持していた
 がやがて弥之助は三菱の経営方針を、
 「海から陸へ」
と切り替えて行く。その手はじめが明治二十年に長崎造船所を払い下げてもらって、近代的な造船所に質を変えたことだ。そして北九州や北海道の炭鉱を十一カ所、佐渡や生野のかつての銀山を含む鉱山六カ所を買収した。さらに第百十九国立銀行を買収し、三菱製紙・小岩井農場・麒麟麦酒を創設する。
  また、全国で二千三百三十六町歩の土地を取得して、新潟県では千百二十六町歩の小作地を経営した。児島湾の開拓事業にも携わっている。明治二十二年には東京丸の内の陸軍用地の原野だった土地十三・五万坪を百五十万円で買った。これは、
 「献金のつもりだ」
 と言っている。
 「しかし何のためにこんな広い土地を買ったのだ?」
ときかれると、弥之助は、
 「竹をいっぱい植えて、虎でも飼おうかと思っている」
 と大きく笑った。豪放な所置だ。やがて、ここには高いビルが林立し、三菱財閥の本拠地になる。また鉄道にも関心を持ち、・山陽電鉄・九州鉄道・筑豊興業鉄道・北越鉄道・岩越鉄道などに積極的に出資し、日本の鉄道の近代化を図った。
 岩崎弥之助の経営理念はあくまでも「合理主義と漸進主義」であったという。そして、「決して自分が専断を行わない。三菱を、政商の立場から近代産業を基盤とする財閥へ発展させたい」
 と始終言っていたという。息子の小弥太が、弥太郎の子・久弥のあとを継いで三菱の四代目の当主になる。
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■海援隊と異なる九十九商会

<本文から>
 弥太郎は、坂本龍馬が「海援隊規約」の中で告げた冒頭の文を思い出す。
「藩を脱する者皆この隊に入る」
と規約にあった。弥太郎は今龍馬に語りかける。
「坂本さんよ、おまえさんは死んでしまったが、おれは生き残った。おまえさんの海援隊の規約をそのまま使うならば、藩を脱する者、この商会をつくる」
 ということだ。おれは新しい商会を起こすよ。おまえさんのいった、
「藩を脱する者」
という言い方は、非常に気に入っている。自由になった人間が自由な意思で、仲間をつくり、商売をするというのは良いことだ。これが新しい日本のひとつの力になる。おれはそれをやるよ。おまえさんとは、ついに手を組めなかったが、おれはおれなりにおまえさんが目指したものをおれの方法で実行して行くつもりだ、と語りかける。愉快だった。何といっても″生き残ったもの″が勝ちなのである。
 「死んでしまえばそれまでだ」
と弥太郎はつくづく思う。
 そして、自由になったこの社会で自分なりの商会を創立し、それを育てていくためには何といっでも坂本龍馬の海援隊が参考になる。
 弥太郎は坂本のやり方をすべてよしとしたわけではない。海援隊は解散してしまった。
 今はほとんど残っていない。
「なぜ海援隊は滅びたのか?」
と考える。それは、
●隊長の坂本龍馬が、海援隊活動よりもむしろ政治活動のほうにのめり込んでしまった
●そのため、長崎に残した海援隊の運営が、必ずしも残された隊士たちでうまく行かなかった
●また、海援隊が中途半端に土佐藩に属していたために、土佐藩の監督から完全に脱する事ができなかった
●本来なら、坂本龍馬の趣旨どおり海援隊は独立した企業組織として活躍すべきであった。
 しかしそれが途中で隊長の坂本が政治活動「船中八策や大政奉還」に関与してしまったために、身を入れて海援隊を育てる事ができなかった
●やはり、経済活動はあくまでも政億活動と切り離すべきだ。坂本は、その禁を犯した
 そう思っている。したがって、今津から預かっている九十九商会を健全に育てて行くのには、
●九十九商会を純粋な経済組織とするために、政治から切り離す
●政治から切り離すというのは、山内藩政から切り離すと同時に、日本国政からも切り離す
●それには、おれ(弥太郎)ひとりでは何もできない。やはり助けがいる
●そのためには、すでに自分の周りにいる中川亀之助・石川七財・川田小一郎などを右の腕左の腕として、大いに活躍してもらう必要がある
●また、一族の弟の弥之助や、豊川良平なども少し時間が経てば、有力な補佐役になる
と考えた。つまりかれは、
 「物事を壊すのは容易だ。しかし壊すことはできても、新しくつくる考えを持たなければ、結局何のために壊したかわからなくなる」
 と考えている。破壊の後の建設がなければ、破壊自体の意味が消えてしまうということだ。坂本龍馬は、海援隊を作ったまでは良かったが、それではその海援隊を駆使して、今後の新しい日本でどういう事業を行い、またどういう社会的貢献を行おうか、という青写真を持っていなかった。
 その点弥太郎から見ても、
 「坂本龍馬は、非常に好人物ではあったが、海援隊を日本の中で、世界の中でどう生かしていくかという具体的図面を持っていなかった」
 と思う。それは海援隊に対する批判であると同時に、弥太郎がこれから展開する九十九商会の将来への見取り図でもあった。つまり弥太郎は、
「海援隊の轍を踏まない」
と心を決めていた。そしてそのひとつに、
「そのためには、きちんと手続きを踏んでいく」
 という考えがある。図面を作ったからといって、いきなり図面どおり事業が完成するわけではない。一歩一歩を、やはり手続きを踏む必要がある。
▲UP

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