童門冬二著書
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          老虫は消えず小説大久保彦左衛門

■三河物語が熟読される理由

<本文から>
「いま江戸城内では、彦左衛門の書いた『三河物語』という書物が、静かに回し読みされている。中にはこれを書写する者もいた。この書物は、次第に台頭してきた、算勘に巧みで口舌の達者な新しい型の武士たちの進出によって、次第に江戸城の縁側から庭隅に追い立てられてゆく、合戦一途に生きてきた武士たちにとって、胸のすくようなことが所々に書いてあった。とくにそういう武士たちの憤懣を解消してくれるのは、彦左衛門が、
「いま、徳川家で出世する武士」
と、
「いま、徳川家で出世しない武士」
 と、大きく分類したそれぞれの条件である。彦左衛門が「いま、江戸城で出世する武士」として挙げた型は、次のようなものであった。
一 主君に弓をひき裏切りをした者
二 卑怯な振る舞いをして人に嘲笑された者
三 人付き合いがよく城中や宴席でもうまく立ち回る者
四 ソロバン勘定がうまく事務処理の巧みな者
五 前歴がよくわからない者
 反対に「いま、江戸城で出世しない武士」として、彦左衛門が提出した武士の条件は次のようなものだ。
一 主人に謀反心など絶対に持たず忠義一途に働いてきた者
二 武勇の優れているん者
三 礼儀作法をわきまえない無調法者
四 ソロバソ勘定が不得意で、しかも老年になった者
五 徳川家にずっと仕えてきた者
 だれが考えてもこれが逆であることはよくわかる。しかし、合戦一途に生き抜いて、命を的に戦場を駆け抜いてきた武士たちが次筋に遠ざけられ、合戦経験のないソロバン勘定や事務処理が巧みで、しかも口はかり達者な連中がどんどん進出していることは事実だった。この二タイブの武士を分けて、「武功派」と「文治派」と呼んだ。大久保彦左衛門は武功派の不平不満の代弁者であった。つまり、彦左衛門が「いま、江戸城で出世しない武士」と定義した派の代表である。
 そして、彦左衛門の甥大久保忠隣も武功派大名の代表だったのである。その武功派をどんどん追いつめている文治派の代表が本多正信とその息子正純であった。
 彦左衛門が『三河物語』の中で、「いま、江戸城で出世する武士」として挙げた五条件は、そのまま本多父子に当てはまるものであった。だからこそ武功派の不平不満武士たちは、彦左衛門の提起した考え方に快哉を叫んで手を拍ったのである。『三河物語』がいま江戸城の武士たちに熟読されるゆえんだ。
 武功派にすれは「いま、江戸城で出世しない武士」の条件ほ、全部自分たちに当てはまった。
「大久保彦左衛門般は、さすが天下のご意見番だけあっていいことを書く。これこそわれわれが常日頃心の中に思っていることだ」
 天下のご意見番大久保彦左衛門の名は、こうしていよいよ高まっていた。

■二つの反乱の共通の根っこ

<本文から>
  二つの反乱共通しているのは、放火によって騒ぎを起こし、将軍を拉致して幕政の誤りを正すということであった。しかし、反乱がもし成功したらその後どうするかという策を共に欠いていた。これはかつて松平定政が由比正雪に質問したことである。しかしその時正雪はそれがわれわれの計画の一番の弱点だから、なんとか考えるといった。が、結局かれは考えなかった。というより考えていなかった。正雪の反乱の目的は浪人問題について警鐘を鳴らして世間の関心を呼び起こし、幕府に反省を求めることであった。幕府を倒そうなどという気は、根のところにはなかった。
 戸次庄左衛門も同じだった。由比正雪も戸次庄左衛門もいまの世の中を壊すことは考えたが、その後どういう世の中をつくり上げるのかの構想を持っていなかった。それが、反乱が世間の支持を得られなかった大きな理由だった。世間はかれらを助けなかった。かれらほ自滅してしまった。
 松平信綱と阿部忠秋は、共にこの大きな反乱計画に自分の家臣が加わっていたことに大きな衝撃うけた。
 「なぜだろうフ」
と自問した。互いに話し合いもした。しかし、納得の行く答えは出なかった。その疑問が、枝を伝わり幹を伝わって、さらに土の中の根に達した。その根のところに、おびただしい失業浪人の群れと、その代表者である由比正雪一味がいた。さらにそういう浪人たちに対する同情者が、江戸城内の松平定政を先頭にまだまだ多数いた。しかし、そこまで複雑広範囲に問題の根が延びていることに、かれらは気がつかなかった。

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