童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          『浪人精神』で克つ!・男が意地を見せる時

■浪人は多彩な生き方をした、現在も浪人時代

<本文から>
・意地
などである。したがってこれらの条件が満たされなければ、どんなに高額な給与を示されて
も浪人側は決して、
「分かりました、お仕えします」
とは言わなかった。つまり、これだけ多数の浪人が町に放り出されてもかれらのすべてが、すぐ、
「再就職の道」
を歩かなかったのである。浪人たちは多彩な生き方を選んだ。もちろん再就職して、
「売り手側の論理にそのまま従ってしまう者」
もいた。ところがそうではなく、
・浪人をして身につけた精神を組織内に持ち込んで、それを組織活性化のバネにした者
・浪人でなければ味わえない感覚を、その大名家の政策方針のなかに取り込ませた者
・浪人精神を失わずに、その存在自体が他の武士たちに大きな影響を与えた者
・浪人精神によって感得した経営感覚や経済感覚を、その後の大名家の運営に役立たせた者
・市井にあって、大名家の政治・行政を指導した者
・市井にあって、最後まで浪人生活を貫いた者
 など多彩な生き方をした。これらの選択もすべて、
「浪人精神」
 をモノサシにしたと言っていい。
 現在もまた、
「浪人の時代」
 である。バブル経済が崩壊しただけではない。日本式経営が崩壊して、幾多の古い体質が世情に露呈され、批判の対象となり、早いところはその改革に努力している。しかし、全般に、
「忠誠心」
 が薄れ、同時に、
「終身雇用」
 のシステムも崩壊しつつある。能力主義が前面に出、ちょうど戦国時代と同じような″能力の食い合い″が始まっている。
「大失業時代」あるいは「大転職時代」
 が、歴史的状況にまで発展している。言ってみれば、
「大浪人時代」
 が出現した。

■老人と中年浪人を雇い、若者を雇わないエピソード

<本文から>
  今は武士が次第に規格化されたために、いい意味での功名心とか向上心がなくなっている。上を見ないで、下ばかり見る。そして、お互いに前へ出ないように牽制し合っている。こんなことでは人間が萎縮してしまう。そこへいくとあの中年者は、いい年をしているにもかかわらず、まだまだ向上心が強い。なにも出世だけを願っているわけではなく、あの男は自分の能力が役立つ場を求めてああいうことを言っているのだ。澱んだ沼のようになっている熊本城内に、あのような中年者が二人混じれば、他の中年者の励みにもなる。
 若者をなぜ雇わないかといえば、確かにあの若者は優秀だ。わたしも除から見、話を聞いて感心はした。しかしわたしはこう思っている。熊本城内の若者はすべて優秀だと。あの若者を雇って、かれを見習えなどと言えば、今熊本城内にいる若者たちがみんな萎縮してしまう。自分たちは優秀ではないのかとひがむ。そんなことはしたくない。だからあの若者は雇わない。それよりも、中年者の向上心を自分の向上心とし、ぬるま湯のなかにい一る城の連中で、さらに老人の話す経験談で味づけをすれば、熊本城内の職場はもっと生き生き上してくるはずだ。そうすれば、先輩が熊本城内の若者たちをいい方向に導き、若者たちの潜んでいる能力を活用できるはずだ。老人と中年者を雇い、若者は帰せ」
 そう命じた。味わい深い清正の人選に、重役たちは感心した。特に、
「うちの若者たちは優秀だ。それをまだ上役たちが引き出していないのだ」
 という、二段、三段に及ぶ分析には舌を巻いた。
(これだからこそ、わが主人は人使いの名人といわれるのだ)

■海援隊は浪人組織

<本文から>
  坂本籠馬は、
「幕末の巨大な浪人」
 だ。かれの作った「海援隊」の規約の第一条が、そのことを如実に語っている。すなわち、
「藩を脱する者この隊に入る」
という思い切った言い方がそれだ。これは、
「浪人よ、海援隊に集まれ」
という呼び掛けだ。つまり組織から脱した者だけによって、隊を作ろうということだ。したがって龍馬の海援隊は、
「失業者によるクリエイティブな組織」
と言っていい。しかも、まだ士農工商の身分制が残存していた当時、かれはすでにこの身分制を破壊していた。だから隊には、武士もいれば農民もいる、あるいは商人もいれば饅頭屋もいた。かれはそんなことは気にしない。かれ自身が、土佐の商家の出身である。かろうじて、長年の藩への献金によって郷土の資格を与えられていたにすぎない。土佐では、かれは身分差別に苦しんだ。だからこそ、海援隊を作った時に、
「藩を脱する者この隊に入る」
 と、隊員の資格は、
「脱藩者もしくは社会の各層で志を持ちながらも、それが遂げられなかった者」
 に限ったのである。

■浪人には国際性と行動性をもっていた

<本文から>
 この本で書こうとする浪人たちは、宮本武蔵から坂本龍馬に至るまで、
この”グローカリズム″を持っていた。特に時代が現在と酷似しているといわれる幕末の巨大浪人坂本寵馬には、先見カから体力に至る六資質がすべて備わっていた。かれが見ていたのは、世界情勢であり、そのなかにおける日本であり、そして土佐藩であり、同時にその土佐藩から脱却した自由な世界人坂本龍馬としての行動である。
 かれが土佐藩に属していたら、おそらくかれの国際性や行動性は得られなかったに違いない。片っ端からそれをぶっ潰す古い藩の規制が、かれを身動きできないほど縛りつけただろう。だからこそかれは飛び出してしまったのだ。
自由な世界人としてのキッカケは、勝海舟が与えてくれた。海舟は開国論者だつた。坂本龍馬はその頃攘夷論者だった。
「けしからん、勝を斬ろう」
と考え、友人と二人で勝のところに押しかけた。勝は悠々と応対し、地球儀を示した。そして、日本の小ささ、さらにそのなかにお竹る土佐の小ささを示して、こう言った。
「きみは土佐という井戸のなかの蛙だ。もっと日本の蛙になれ、世界の蛙になれ」
この一語は龍馬に大きな衝撃を与えた。その場でかれは勝の門人になつた。これがキッカケになつて、勝を通じ横井小楠などの優れた人物に遭遇していく。坂本が何よりも自分の精神を磨いたのは、
「国際感覚」
である。 

■浪人精神を持ち続けた

<本文から>
  普通、組織に属していた人間がその組織を離れ失職すると、たちまち生活苦に追い込まれる。そうなると、組織に属していた時の精神の持ち方とは変わった考えがわいてくる。しかしその新しく得た考え方も、再就職すればたちまち忘れてしまう。言ってみれば、
「喉元過ぎれば熟さを忘れる」
 という俗諺どおりなのだ。忘れてしまうということは、
「元の組織人の心理に戻ってしまう」
 ということである。失業浪人時代に身につけた新しい考え方は、仮のものであり、臨時のものであって、結局再就職できればそんなものは何の役にも立たないという考えだ。
 大崎長行や書村宣充は違った。かれらは失職し、浪人生活を送った時に得た精神をこそ、
「人間としてこの方が大切だ」
と考えた。それは、
「絶え間のない緊張感の連続」
という人生態度である。大崎や書村はこれを忘れなかった。だから大崎は紀州徳川家へ、書村は桑名松平家に再就職した後も、かれらが最後まで貫いたのは、
「浪人精神」
 すなわち、
「絶え間のない緊張感の持続」
 であった。だからこそ、かれらは中途採用者であるにもかかわらず、新しく仕官した紀州徳川家でも桑名松平家でも大切にされたのである。吉村に至っては、松平家の在来の家臣団を追い抜いて、ついに家老職にまでなってしまった。しかし家老になった後も、書村は決して浪人時代の暮らしを忘れなかった。だからこそ、いかれは死ぬ時に息子に対し、
「おれの名と給与をそのまま世続してはならない」
 と厳命したのである。書村にすれば、たとえ桑名松平家の家老であっても、
「その根底にあるのは、あくまでも浪人精神だ」
 という気構えが強かった。言ってみれば、
「自由人であった浪人精神を持って、大組織である松平家の武士たちの意識を変えていこう」
 ということである。

■明治維新は経済革命

<本文から>
  明治維新は、大化の改新と、建武の新政と共に、
「日本の三大政治変革」
 といわれる。が、明治維新については、もう一つ別な側面がある。それは、単に政治的な事件というだけではなく、
「経済性」
 の問題だ。
 徳川幕府は江戸時代の経済政策を、
「米経済」
で貫いた。米経済というのは、
「米価を安定させれば、他の物価も統制できる」
という考え方である。これが土台になっているから、江戸時代の徳川幕府や大名家の毎年の予算の単位は、すべて、
「石」
であった。同時に武士の給与の単位も石である。石というのはその年の米の収穫量だ。したがって、米中心の経済と言っていい。また各大名家(草の運営は、現在の言葉を使えば、
「十割自治」
 である。つまり、自分の藩の行政経費はすべて自分の藩でできる産品を換価して調達しなければならない。ということは、すでに産品に付加価値が生じ、農村にも市場が発生していたことを物語る。これらの品物を扱うのは商人だ0商人が使うのは金だ。したがって、どんなに米にこだわっても産品に生じている付加価値を換価する以上、貨幣経済上無縁ではいられない。
貨幣経済はどんどん進んでいく。そのため、士農工商の身分制にこだわって、
「米経済を重視し(重農)、貨幣経済を無視する(購商)」
 という傾向を強めれば、藩の経済運営そのものに破綻をきたす。幕末にはこれらの矛盾が集積して、どうにもならない状況にまで追いつめられていたと言っていい。だから明治維新は、政治事件であると同時に経済事件でもあった0その証拠に、明治になって各大名家が廃止されるという「廃藩置県」が行われ、その前に大名の「版籍奉還(版は土地、穎は人民)」が行われても、大名家から明治政府に対して反乱は一つも起こらなかった0というのは、明治新政府が、
「藩の負債はすべて新政府が引き受ける」
と宣言したからである。

■徳川秀忠は立花宗茂を大名に復帰させた

<本文から>
  そして慶長十一年(一六〇六)になつて、立花宗茂は、
「陸奥棚倉において、一万石を与える」
と、大名復活を命ぜられた。二十人の家臣は喜んだ。全員揃って棚倉へ移った。宗茂は二十人の家臣たちに、
「九州に土着した者で、この奥州に来たいと思う者がいれば呼べ」
と告げた。多くの武士が九州から飛んで来た。わずか一万石の給与なので、分配すればたいした額にはならない。しかし、旧臣たちは、宗茂のもとに再び仕えられるということだけで、
「給与など間蓮ではない」
 と語り合っていた。
その後も、将軍秀忠の立花宗茂に対する好意の目は変わらずに注ぎ続けられた。棚倉に移ってから十四年後の元和六年(一八二〇)八月、立花家が潰された後に柳川の城主になつていた田中という大名家が相続人が得られずに断絶させられた。秀忠はすぐ老中たちに、
「立花宗茂を柳川に戻せ」
と命じた。老中たちは驚いた。しかし秀忠の意思は固い。こうして立花宗茂は、再び柳川城主となり、十一万石を得ることになった。かれがこの城から追い出されたのは、慶長五年(一六〇〇)の冬のことで三十一歳だつた。ちょうど二十年目になる。
 宗茂は秀忠に感謝した。秀忠も、特別に宗茂と会い、
「本当によかったな」
 と喜んだ。宗茂は、
(この将軍のためなら、命も捨てる)
 と決意した。秀忠を感動させたのは、立花宗茂が、
「将軍もしくは幕府からの命によらなければ、絶対に仕えはしない」
 という志を貫いたことと、その志を貫かせるために、忠義な家臣団が重労働にまで身を落として、主人を養い続けた実談に対してである。秀忠は、宗茂を羨ましいと思い、また家臣団に対して感動した。おそらく心のなかで、
「自分も立花殿のようになりたい。そして、あの忠節な家臣団のような家来を持ちたい」
 と考えたに違いない。同時にまたそれは、
「徳川家と大名家における主人と家臣のあり方」
 にも及んでいただろう。つまり、
「立花家の君臣の一体感は、たぐいなき主従愛によって保たれている」
 という事実を、
「武士の鐘」
 として、高く評価していたのである。戦国から江戸初期にかけての大名統制によって、多くの失業大名と実業家臣が出たが、このように、
「家臣団が結束して、主人を養い続けた」
 という例は、立花家以外にない。考えてみれば、そうした人望や徳を持っていたにもせよ、
立花宗茂は、「幸福な主人」と言っていいだろう。
現在も大失業、大転職時代だが、会社の倒産にあって、
「失業社員が、カを出し合って旧社長を養う」
 などということが行われるだろうか。その意味では立花宗茂とその家臣たちの″ぐるみ浪人”の行動は、
「日本浪人史」
 のなかでも特筆されていい例である。
 立花宗茂は寛永十九年(一六四三十一月二十五日に江戸で亡くなった。七十三歳であった。子孫は、そのまま幕末維新まで続く。″水の都″として、北原白秋が愛した柳川の叙情性は、限られた地域ではあるが現在も保たれている。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ