童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          童門冬二の歴史余話

■家康は貞観政要をテキストに、部下を水にたとえた

<本文から>
家康か『貞観政要』 のことを知ったのは、いつのころかわかりませんが、いつも手もとにおいて、
「政治のテキスト」
にしていました。
この本は中国の唐の時代(六二七から六四九年)の太宗の言行を呉競という歴史家が記録したものです。内容は、
「国を治める者の心がまえ」
です。その中でも太宗はとくに、
「国民の世論重視」
「トップはいかに部下の諌めをきくか」
というふたつの点を何度もくりかえしています。
有名な、
「水はよく舟を浮かべ、またよくくつがえす」
 というのも太宗のことばです。太宗の″水”というのは国民のことです。つまり、
「国民の支持が得られないと、帝王もその座を追われる」
 という意味です。
 徳川家康もよくこのことばを使いました。ところが家康はこの″水”を″部下”としています。つまり
「部下は主人を支えるが、場合によってはうらぎる」
 という意味にしているのです。子どものときから苦労した家康は、心の一部に″部下不信”の気持ちがあったのでしょう。
 しかし慶長五年二月といえば、まだ関ケ原合戦の七ケ月も前です。このころすでに家康に、
「天下への志」(あるいは野望)
 があったといえます。

■家康は貞観政要を愛読。諌言は一番槍よりもむずかしい、人間には必ず取り柄がある

<本文から>
 水はよく舟を浮かべまたよくくつがえす
 もともとは中国の 『貞観政要』 という古い本の中で、唐の太宗という皇帝のいったことばです。太宗
は″水″を″人民の世論″と考えました。この本は家康の愛読書です。
 でも家康は″水″を″部下″ におきかえました。何度か部下にうらぎられたことがあったからです。
・諌言は一番槍よりもむずかしい
「主人をいさめることは、戦場で手柄を立てるよりもむずかしい」という意味です。耳に痛いことはトップもききたがりませんし、部下もいいません。結局トップは裸の王様になってしまいます。
 ちかごろ多い企業の不祥事を、見たり聞いたりするたびに家康のこのことばを思いだします。
・人間には必ず取り柄がある
 取り柄というのは長所やすぐれた能力のことです。家康はいつも「世の中に完全な人間などいない」と、
人間の不完全主義を唱えていました。ですから徳川幕府のポストはすべて複数制です。
・平氏をほろぼす者は平氏で、鎌倉をほろぼすのは鎌倉だ
 平家は源氏によってほろぼされました。その源氏も三代でほろびました。家康はこの状況を、
「滅亡の原因は他からの力によるものではなく、内部にあった」
 と分析します。
 いまでいえば社長や社員が「うちの会社は優良で安定している」などと思い、危機意識をもたなければ、すでに家康のいう″内部からの崩壊″がはじまっている、といっていいでしょう。

■ホントの吉宗は

<本文から>
 徳川将軍家は十五代つづいたが、八代目の吉宗はいろいろな面でユニークな人物だった。身長が百八十二センチあったという。
 江戸時代の男性の平均的な身長は百五十センチくらいだったというから、吉宗は圧倒的に背が高い。どんなに多くの人の群れの中にいても、
「あ、吉宗さまだ」
 とすぐわかったという。色は黒かったらしい。そして天然痘のあとが残っていた。
 大河ドラマ(入代将軍吉宗)の主役が西田敏行さんだと聞いて、
「え、ホント?」
 と思った方もおられたはずだ。しかし、記録に残る吉宗の実像からすれば、まさに、
「ホンモノの吉宗はこういう人物だった」
 というイメージに相当近い。
 吉宗は威厳があったが、だれにでも好かれる人なつこさがあったという。特に子どもに好かれた。子どもとイヌやネコに好かれる人間に悪人はいない。
 吉宗は他人や部下が失敗したとき、絶対に大声を出したことがないそうだ。やさしく叱った。
 今でもそうだが″叱る″ことと″怒る″こととは違う。叱るというのは相手に愛情を持ち、潜んでいる能力を引き出そうとする行為だ。怒るというのは、失敗の責任を自分が負うのがイヤなものだから、
「おまえは何をやっているのだ!」
 と憎しみの感情を露骨にすることだ。相手は自分が叱られているのか怒られているのかを敏感に見抜く。吉宗は心のやさしい人柄だった。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ