童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          なぜ一流ほど歴史を学ぶのか

■歴史は繰り返さない、おなじ現象が起こっても初めてのもの

<本文から>
  歴史は「繰り返す」のか
「歴史は繰り返す」
 という言葉が使われる。それに対してわたしは、
「歴史は繰り返さない」
 と思っている。たとえ歴史にあったのとおなじ現象が起こったとしても、それは繰り返してはいないからだ。繰り返しでなく、
「そのとき新しく生まれたのだ」
 と思っている。つまり過去にあった歴史的現象とおなじようなことを新しく発生させたのであって、それはけっして再生ではない。創生なのである。すなわち、
「歴史はけっして繰り返さない。おなじ現象が起こっても、それははじめて生まれたものだ」
ということだ。そしてさらに、
「おなじ現象を生まれさせたのは、やはり現代に生きるわれわれ自身なのだ」
と思っている。そして、このことが真に、
「歴史を現代に生かす」
ということにつながっていくとわたしは考えている。
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■歴史を生かす仕方が歴史観

<本文から>
 では、歴史を生かすとはどういうことか。
 わたしはいま、ものを書くほかに講演も頼まれるが、講演の後に、必ずきかれるのが、
 「交通や情報伝達の手段がいまとまったく違うのに、なぜ信長・秀吉・家康などの言行が役立つのか」
 ということである。
 確かにそのとおりだ。信長・秀吉・家康などのいわゆる歴史上の人物が生きた時代と、現在とは状況と条件がまったく違う。その違う条件の中で生きた人物の言行が、どうして現代に役立つのだろうか、というのは、もっともな疑問だ。
 わたしは歴史は確かに“冷凍物”ではあるが、解凍の仕方によっては大いに役立つと考えている。その、
「冷凍物の解凍方法」
が、いわば、
「自分の歴史観を身につけ、歴史を現代に生かす方法」
なのである。
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■信長は日本人の価値観の大変革を行った

<本文から>
 日本に大変革をもたらした、この“発想の転換″
 今日的な話題を二、三並べて例として挙げでみよう。
 いまの日本人がもっとも求めているのが「経済の成長」だ。つまり不景気からの脱却である。織田信長はこれを成し遂げた。
 信長はそれまで日本人の統一された価値観である“土地至上主義″をあらためた。土地を大事にする気持ちは鎌倉時代から貫かれてきた。人びとにとって一番大事なのは土地である。したがって一坪の土地でも大事にしたい。一坪の土地でも奪おうとする者とは命懸けで戦う。これが、
 「一所懸命の思想」
 だ。一所というのは土地のことであり、懸命というのはその土地に命を懸けるということ。信長は、
 「これ(一所懸命の価値観)をそのままにしておくと、狭い国土の日本では限界が来る」
 と考えた。そのためには、
 「日本人の価値観の大変革」
が必要である。
 では、かれは土地の代わりに何を持ってきたのか。
 「文化」
である。
 どういうことかというと、信長は国民生活に必要な「衣・食・住」の各面に、文化性を持たせた。
 「住」でいえば、家の建築方法が変わり、設計・材木の吟味・雅趣の付与・調度品の選定などが、いままでとガラリと変わった。「食」は特権階級の高級料理が、いまでいうファミリーレストランで庶民も食べられるようになった。「衣」はデザイン・染色・織り方などが文化化した。このように「衣・食・住」 のあらゆる面に文化的な付加価値を付けて、それを経済成長のエンジンにしたのである。
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■歴史的事件も必ず人間関係によって成立、江戸開城の例

<本文から>
 これがもし、勝海舟が馬に乗って駿府に駆けつけたなら、おそらく勝の名を知る者は多いから殺されてしまっただろう。山岡鉄太郎はそれほど有名ではない。アヒルの水かきとしては適任者だった。
 同時に、同行した益満休之助の功績も大きい。かれは西郷の秘蔵っ子だったから、駿府の本営に着いたときも西郷は益満の紹介する山岡に快く会ったのだ。西郷にすれば、江戸御用党事件について多少の負い目を感じていたに違いない。西郷は、江戸御用党事件が発端となって、幕軍がいっせいに京都に押し寄せる、という報をきいたとき膝を叩いて、
 「やったぞ」
と叫んだという。しかしその後の情報によれば、
 「多くの御用党閥係者は脱出したが、益満休之助が一人で責任を負って幕府に捕らえられた」
ときいた。おそらく西郷にすれば、忸怩たる思いがあったに違いない。なぜなら、江戸で浪人を取り仕切った責任者は益満だ。幕府の公式尋問には応ぜざるを得ない。益満は浪人はすべて逃がしたが、自分は捕らえられた。つまり西郷の謀略の尻ぬぐいのために、身を挺した形になったからだ。
 そんな事件もあって、西郷は大謀略家だという評もあるが、緊急の際にそういう面があったにしても、本来は清潔な人柄だ。したがって、鳥羽伏見の戦いの口実ができたにせよ、西郷の頭の中にはずっと益満休之助の存在があったと思う。そういう情深い人物だ。
 だから江戸攻撃のために総督府が駿府まで進んだときにも、益満の存在は気にかかっていたに違いない。それが益満のほうから山岡鉄太郎を伴ってやってきたのだから、西郷はうれしかったことだろう。当然、益満の紹介する山岡鉄太郎と会って、
 「江戸開城の下交渉」
 をすることにやぶさかではなかったはずだ。西郷が一介の旗本である山岡に会って交渉をおこなったのも、わたしは半分は益満に対する購罪の意味があったと思っている。
 歴史的事件はすべて“人間関係″によって成立している
 こういうように歴史事件というのは、その深層を掘っていくと、いろいろ複雑な事情がある。そして感じるのは、
 「歴史的事件も必ず人間関係によって成立している」
ということだ。だから「自分の歴史観」をやしなううえでも、
 「この事件は、どういう人物とどういう人物との絡み合いによって起こり、成立したのか」
ということを探っていくと、意外な面が発見できる。
 そしてそれは、いわゆる“通説″とは違ったものを掘り起こすことができる。これもまた、「自分の歴史観」をやしなう楽しみにつながっていく。
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■歴史観は共感・体感の積み重ね

<本文から>
 つまり歴史観というのは、歴史の中に日常を感じ、同時にそれを自分の血肉とする細片の積み重ねなのだ。そのためには、まず、
 「歴史を距離を置いて見るのではなく、自分の血肉とする親近感」
が必要だ。つまり、歴史は他人事≠ナはなく、“わが事”なのである。いうなれば、歴史の中に自分が同化し、歴史上の人物の苦しみや悲しみを共感し、体感し、それをわが事として「では、どうするか」ということを、歴史上の相手(歴史上の人物)とともに考え抜くという姿勢だ。
 だから、遠い昔の出来事であり人物であっても、タイムトンネルを抜けて、その人物や事件と同時に生きている、という実感を持つことが大事になってくる。
 この共感・体感さえ得られれば、歴史観をつくりだすことはそれほどむずかしくはない。なぜなら、その事件に関わる人物がどういう対応をしたかということについでは、すでに史実として存在するからである。
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■歴史観は変化するもの、上杉鷹山の例

<本文から>
 自分の歴史観をやしなう過程において、おなじ事件・おなじ人物を見る姿勢が、年齢や社会的立場によってしばしば変わる。これは最初に書いたように、
 「自分を励まし、力づける考え方」
なのだから、当然そうなる。年を取る、あるいは社会的立場が変わることなどによって、当然、
 「生きる方法」
にも変化が起こる。ということは、「自分の歴史観」も、しばしば修正されたり、あるいは否定されたり、あるいはガラリと変わった見方をしたりなどの現象が次々起こるということだ。
 その一番わかりやすい例として、わたしの代表作である 『小説上杉鷹山』 について取り上げてみよう。
 「上杉鷹山」に込めた、わたしの都庁勤務経験
 わたしが上杉鷹山を書いたのは、もう三十年以上前になる。この小説はもともとは「山形新聞」に連載したものだ。当時、わたしは東京都庁を辞めたばかりだった。五十一歳のときである。
(中略)
やはり隠居したときにはっきり全権を相続人に渡して、引き下がるべきだった。そして後見人として除から、新しい藩主になった養父の実子をもり立てるべきだったろう。が、そうしなかったのは鷹山自身が、
「隠居前におこなった自分の改革が必ずしも成功していない」
という思いがあったからであろう。こんなことをいえば、
「あれだけ鷹山を讃美し、世の中に伝えておいて、自分の考えが変わったからといって、鷹山にケチをつけるのはおかしい」
という意見が出てくることは承知のうえだ。しかし鷹山を含め、一般論として、
「後継者の養成」
としてとらえれば、わたしはやはり鷹山のやり方は必ずしも正しいとはいいきれない心境になっているのだ。これはわたしの「歴史観」が変わったことを物語っているという一例だ。こういうように、歴史上の人物に対しては、
・そのときの年齢
・社会的経験
・置かれでいる立場
などから、
 「かつて考えていた歴史観と、ガラリと変わる」
ということもあるし、あってもいいということだ。
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■秀吉の槍の試合にみる目的の共有化

<本文から>
 上島のほうは短い槍、サルのほうは長い槍。三日後にこの城の広場で試合をしろ。結果がわかる」
 と信長らしい合理的な命令を下した。命令を受けた上島主水は、すぐ足軽たちに槍の技術を教えた。三日間しかないからあせる。しかし急なことで何がなんだかわからない足軽たちは、面倒くさがって稽古に身を入れない。上島は苛立ち、体罰を加えながら厳しい修練を続けた。上島主水に属する足軽たちは、みんな嫌気が差してしまった。三日目になると、
 「上島さんはひどいな。癪にさわるから、明日は木下隊に負けようじやないか」
などといいだす者さえ出る始末だった。
 これに対し藤吉郎はいきなり修練には人らなかった。かれは、
 「全員が、いまなぜ槍の試合をするのか、ということを理解しなければ、いくら槍の技術を教えてもだめだ」
と思っていたからである。そこで五十人に、
 「みんなおれの家へ来い。狭いけれども酒を飲もう。槍の稽古はそれからだ」
といった。みんな喜んだ。酒を振る舞いながら、藤吉郎は、
 「いまなぜ槍の稽古をするのか」
という話をした。それは、
・信長様は、一日も早く、この戦国時代を終わらせようとお考えになっている
・しかし、いまのように合戦も刀や槍を振り回して個人戦を続けていては、いつまで経っても終わらない
・早く終わらせるためには新しい武器が必要だ。信長様はそれを鉄砲だと考え、大量にいま、お買いになっている
・近く、武田軍と大合戦が起こる。そのときに信長様は鉄砲をお使いになるつもりだ
・その鉄砲を扱うのはおまえたち(ヒラ)だ。おれたち(管理職)ではない
・鉄砲は飛び道具といわれるような危険な武器だ。だから、お互いに心を合わせて、味方を撃つような真似をしない心構えが必要だ
・おれは、そのために槍の訓練をおこなうのだと考えている
 このように理由をわかりやすく告げられて、足軽たちは納得した。しかも酒まで振る舞われた。みんな、その酒代は藤吉郎が身銭を切ったことを知っている。そこで、
 「木下様のためにも、おれたちは槍の試合に勝たなければダメだ」
と互いに頷き合っていた。しかも、
 「こんな忙しいときに、なぜいま、槍の試合をするのか」
 という理由を、木下藤吉郎は懇切丁寧に教えてくれた。その中には、所属する織田家の未来志向まで示されている。塀普請のときに、
 「塀をこのままにしておくと、おまえたちだけでなく家族まで敵に殺される」
といわれたのと同じ論法だ。今度はもっと大きい。
 「一日も早く戦国時代を終わらせるきっかけにするのだ」
というのは、足軽たちにも身に染みた。
 このときの稽古風景は伝承として有名な話だ。藤吉郎は五十人の足軽を三隊に分けた。
 そして一隊ごとにやることを分担させた。
・第一列目は、長い槍を振り回して敵の足を払う。つまり転がしてしまう
・それが成功したら、一列目は後ろへ下がり二列日が前に出る
・二列日は転がっている上島方の足軽の頭をぶん殴る。叩きのめす。そして後ろへ退がる
・三列目は、最後のとどめをさすために敵ののどなどを突いて仕上げをおこなう
 こういうことだった。みんな喜んだ。藤吉郎はこの三隊に分け、それぞれ仕事を分担させることによって、
 「仕事は組織でおこなうもの。そしてそれにはチームワークが必要だ」
 ということをむずかしい理屈などを何もいわずに教え込んだ。
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■“見えない努力″を惜しんではいけない、なら≠ニいう気持ちを生ませる

<本文から>
 蒲生氏郷における“情のリーダーシップ″と、徳川家康における“非情(合理性)のリーダーシップ″は、タイプは違うがある共通点を持っている。それは、
・人を動かすリーダーは、それぞれ人に見えない努力をおこなっていること
・強いだけではリーダーとして認められないこと
・したがって、一人の力では歴史はけっして動かない、ということ
である。ではここでいう、
 「人には見えない努力」
とは一体なんだろうか。一言でいえば、部下から見て、
 「このリーダーなら信頼できる」
という観念を生ませることである。
 そのためには、一人になったときにコツコツと「自己向上」の努力をおこなうべきだ。
 その日の出来事をケーススタディ(事例研究)にして、自分のリーダーシップを振り返るのである。
 氏郷はそれを「情」の面で、家康は「知(合理性)」の面から試みた。その目的はふたりとも、このリーダーは信頼できると認められることであり、具体的に、
 「このリーダーのいうことならウソではない」
だから、
 「このリーダーの指示命令なら従っても間違いない。自分は協力する」
という積極的な気持ちを湧かせることだ。それはあげてリーダーのクらしさ(個性)″にもとづいている。その“らしさ″が部下に、
「このリーダーなら」
というなら≠ニいう気持ちを生ませるからだ。この「“なら″といわせる”らしさ“」のことを、わたしはある中国文学者から、
 「人間の風度というのだ」
  と教えられた。したがって、部下になら″と思わせる“らしさ″のためには、
 「リーダーがその風度を高める」
ことが必要になる。たしかに現在のリーダーにも、情報力・判断力・決断力・行動力などの要件は共通しで必要だろう。が、それだけではだめだ。そのほかに、
 「部下がなら″と思う“らしさ″を発散する」
という別立ての努力が必要なのである。もっといえば、
 「強烈な風度さえあれば、他の条件はそれほど必要なくなるかもしれない」
とさえいえるのである。風度というのは、その人間の発する魅力・吸引力・信頼感・モラールアップなどを備えた一種の、
 「オーラ(気)」
といえるだろう。
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■下り坂の新井白石は自分の「原点」を貫く

<本文から>
 白石の場合は、次第に孤立した。かれは自伝を書きはじめた。それが、
『折たく柴の記』
 である。この題名の由来は、平安末期の源平時代に、武士を手玉にとった後鳥羽上皇の、
 思ひいづるをりたく柴の夕けぶり
 むせぶもうれしわすれがたみに
 という歌からとったものである。後鳥羽上皇は、かなり長い間、京都朝廷に君臨した。しかし平清盛ら武士の台頭によって、その勢威に秋風が吹きはじめた。その感慨を込めた寂しさは白石のそれでもあった。したがって白石がこの歌を自分の自伝のタイトルにしたのは、法皇に共感をおぼえたからだろう。
 じっと孤独感を噛みしめ、庭の枯れ葉を集めた寂しさが溢れている。そうなるとやはり過去の自分というものに哀憐の情が湧いてくる。現在の立場からくらべれば、あのときはこういうことをやった、ああいうこともやった、などという思い出が募ってくる。『折たく柴の記』はそういう意味の自伝である。
 合理性を重んずるリアリストの白石の自伝だけに、ほとんどが事実の羅列である。しかしそれだけに、家宣をはじめとして、よい主人に恵まれた、いわば得意絶頂の黄金金時代の記述が、書いた当時のかれの立場や心境と照らし合わせると、高齢者であるわたしなどには、悲痛な哀感として胸に迫ってくる。現在でも、この著作は、
「自伝文学としては、最高の傑作だ」
と評価されている。そしてさらに白石は前にも書いたように合理性の強い学者だから、
 この人間的危機を自分なりに克服し、その後は著述に専念して、それぞれ成果を挙げてゆく。つまり本来の学者としての原点に戻り、初心にかえっての生き方を貫いたのだ。
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■高いところからの言行に気をつける、決して決めつけない

<本文から>
 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
 というものである。老子は、これを滝にたとえた。自分のいる立場を低いところに置けば置くほど、谷底に流れ込む滝の数が多くなる。しかし年を取ったなら、その滝に対し十分対応していけるように自分を鍛えなければならない、ということだ。
 滝というのは、時に批判であり非難だ。あるいは救いを求めるせつない切実な声だ。そういういろいろなものの仕分けをしながら、一つひとつに丁寧に答えていけ、という教えなのだろう。
 わたしはまだそこまでの境地には至れないが、極力、
 「高いところからの言行」
には気をつけるようにしている。
 そして、わたしが歴史から学んだ最大のことは、
 「絶対に決めつけない」
ということである。
 たとえば織田信長にしても、わたしは若いときに持ったイメージの“合戦の天才≠ニは決めつけていない。むしろ”日本人に文化生活を主導した指導者“だ、と受け止めでいる。
 武田信玄にしても“部下にやさしいトップ”というだけでなく、生産性の少ない地域を、いかに活性化するか″に苦労した、中小企業のトップだ、とイメージしている。
 これらはいまわたしが生きている時代状況から帰納した人物のとらえ方である。明日、あるいは来年は、また違った評価でとらえるかもしれない。
 この“流動的な見方”こそ、歴史に対する謙虚な向き合い方だ、とわたしは信じている。だから、“自分の歴史観″においても、”決めつけない歴史観“をやしなうように努力している。
 それは、歴史上の人物や事件に対してだけではない。現実において、いま日々接する人びとに対しても“決めつけない”ことを、極力おこなうようにしでいるが、時にこれが生来の気性のために破れることがある。そのときは猛烈な自己嫌悪に陥る。
 まだまだわたしは至らない。歴史から学ぶことが多々あるようだ。どうか、お読みくださった方々も、
 「自分の歴史観」
を構築するうえにおいて、絶対に、
 「けっして決めつけない」
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