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<本文から> その苫小牧の郊外に、
「八王子千人隊の墓地」
がある。
八王子千人隊というのは、徳川家康が江戸に入って、まもなくつくった組織だ。
普段は農耕に従事し、いざことが起こったときには、武器を取って馳せ参ずるというのちの「屯田兵」のようなものだ。
八王子は、徳川幕府にとって、戦略上、重要な地点であった。
中山道から江戸への第一次の入り口であり、逆にいえば、江戸城から甲府城へ向かうときの、重要な拠点でもある。
話によれば、江戸城が南面の海から攻撃され、落城寸前になったときに、将軍は北の半蔵門からまっしぐらに甲州街道をたどって、甲府城へ退避する。
追撃する敵を、くいとめるのが、八王子千人隊であった。
また、中山道方面からきた敵が甲府城を落城させ、一挙に江戸城に迫ろうとしたときに、これをくいとめるのもまた、八王子千人隊の役割だったという。
しかし実際に、こういう目的で、八王子千人隊が活躍する機会はなかった。
寛政の改革を推進した老中松平定信の時代に、北方領土の危機が叫ばれた。
そこで松平定信は、
「八王子千人隊の一部を、北海道に移住させて、国土防衛の任に当たらせよう」
と考えた。
つまり、千人隊が設けられたときの目的である「普段は農耕に従事して、いざことあるときには、武器を取って立ち上がる」という、いわば、「ひとりの人間に与えられた、ふたつの機能」を、そのまま活用しようとしたのである。
八王子千人隊のうちから選ばれた武士たちが、二隊に分かれて北海道に向かった。
そして、一隊が釧路近くの白糠に、もう一隊が苫小牧近くの勇払に上陸した。
開墾をはじめた。
しかし、めぐまれた多摩地域における農耕技術は、極度にきびしい条件を保つ北の果てでは、通用しなかった。
作物はできず、千人隊士は次々と、餓死していった。 |
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