童門冬二著書
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          歴史探訪を愉しむ

■八王子千人隊の墓地

<本文から>
 その苫小牧の郊外に、
 「八王子千人隊の墓地」
 がある。
 八王子千人隊というのは、徳川家康が江戸に入って、まもなくつくった組織だ。
 普段は農耕に従事し、いざことが起こったときには、武器を取って馳せ参ずるというのちの「屯田兵」のようなものだ。
 八王子は、徳川幕府にとって、戦略上、重要な地点であった。
 中山道から江戸への第一次の入り口であり、逆にいえば、江戸城から甲府城へ向かうときの、重要な拠点でもある。
 話によれば、江戸城が南面の海から攻撃され、落城寸前になったときに、将軍は北の半蔵門からまっしぐらに甲州街道をたどって、甲府城へ退避する。
 追撃する敵を、くいとめるのが、八王子千人隊であった。
 また、中山道方面からきた敵が甲府城を落城させ、一挙に江戸城に迫ろうとしたときに、これをくいとめるのもまた、八王子千人隊の役割だったという。
 しかし実際に、こういう目的で、八王子千人隊が活躍する機会はなかった。
 寛政の改革を推進した老中松平定信の時代に、北方領土の危機が叫ばれた。
 そこで松平定信は、
「八王子千人隊の一部を、北海道に移住させて、国土防衛の任に当たらせよう」
 と考えた。
 つまり、千人隊が設けられたときの目的である「普段は農耕に従事して、いざことあるときには、武器を取って立ち上がる」という、いわば、「ひとりの人間に与えられた、ふたつの機能」を、そのまま活用しようとしたのである。
 八王子千人隊のうちから選ばれた武士たちが、二隊に分かれて北海道に向かった。
 そして、一隊が釧路近くの白糠に、もう一隊が苫小牧近くの勇払に上陸した。
 開墾をはじめた。
 しかし、めぐまれた多摩地域における農耕技術は、極度にきびしい条件を保つ北の果てでは、通用しなかった。
 作物はできず、千人隊士は次々と、餓死していった。

■松平定信の敬老精神

<本文から>
 「なんといっても、人生経験のゆたかさにおいては、老人にはかなわない。毎月、老人を城に呼んで、いろいろと意見をきこう」
 と考えた。
 いまでいえば「敬老の日」を設けたのである。
 しかし現在の「敬老の日」は、九月十五日というたった一日だ。定信はこれを毎月設けた。
 この日になると、かれは城下町の年寄りたちに呼びかけ、
 「時間がある者は、城にきて、わたしにいろいろと意見をいってもらいたい。身体の悪い老人には、駕籠をさし向ける。また、足が不自由な老人は、城の中で杖をついてもよい」
 と告げた。
 これによって、老人たちは毎月決められた日に、城にきた。そして、
 「いまの若い者は、まったくしかたがない」
 とか、
 「町には、こういう危険な施設がある」
 などと率直に、ありのままの城下町の姿や、不足する施設、あるいは、
「青少年の非行」
 などについて、遠慮なしに意見を告げた。
 定信はこれを参考にして、白河藩政に努力した。
かれが藩主として行政に勤しんでいるときに、自然災害が起こった。
定信は、単に災害復旧にだけ力を尽くさずに、
「災いを転じて福としよう」
と考え、当時大沼と呼ばれて領民から見むきもされなかった沼沢地の開墾を思い立った。
 定信は、
 ●沼の水を利用して潅漑用水とし、新田を開発する
 ●沼の周囲を整備し、公園をつくる
 ●公園は、誰もが楽しめるようなレクリエーションの地とする
 ●この事業には、失業者を採用する
など企てた。いまでいえば、失業対策のための、大規模な公共事業を興した、ということである。
 この事業には、多くの失業者が参加した。
 みんな喜んだ。そして、
 「うちのお殿さまは、ほんとうにお情け深い」
 と定信の施策を、褒め讃えた。
 この事業完成によって、つくられた公園はか"南湖公園"と呼ばれるようになった。
 この名の由来は、
 「城の南に位置する湖」
 という意味と、唐の詩人李太白が洞庭湖に遊んだときに、
 「南湖秋水夜無煙」
 と詠んだものから、取ったともいう。
 新田開発によって、多大の利益が出た。定信はこれをきくと、
 「その利益金で、学校をつくれ。これからは、青少年の教育が大切である」
 と命じた。
 藩校がつくられた。藩校は「立教館」と命名された。
 南湖公園は「共楽の地」として、すべての領民に開放された。公園は、自然の景観を生かし、湖畔に名歌を詠み込んで、十六勝十七景が設けられている。
 西方に連なる那須連山が、見事な背景になっている。
 いま、白河城(小峰城)も復元されて、白河の町には、
 「松平定信の精神」
 が脈々と息づいている。
 藩校立教館の精神も、そのまま有志によって引き継がれ、「立教塾」が運営されている。
 おもしろいのは、ここが近ごろ"ラーメンの町"として有名になったことだ。泉下の松平定信も、さぞかし微笑んでいることだろう。

■松陰の精神が生きている萩の清掃活動

<本文から>
きれいな町を維持する清掃活動
 萩市内には、あちこちの町で、この吉田松陰の精神が息づいている。日曜のたびに、
 「町をきれいにしよう」
 という活動をおこなう。これは、
 ●日曜日には、各戸からひとりずつ人を出す。
 ●これらの人が、町のゴミを拾ったり、清掃をしたりする。
 ●人が出せない家は、三千円ずつお金を出す。
 ●このお金は、貯めて町のために使ったり、あるいは作業に出た人たちのお茶会に使うなどという取決めをして実行している。
「きれいなところには、ゴミを捨てにぐい」
 といわれる。
 確かにそうだ。
 汚いところには、
「自分がひとつぐらいゴミを捨てても、目立たない」
 という安心感が湧いて、汚いところをさらに汚してしまう。
 人間の悪いところだ。
 しかし、きれいなところに入ると、ちょっとした紙キレ一枚捨てるのにも、はばかられる。
「どこかで、誰かが見てはいないだろうか?」
 という緊張感が湧く。
 それは町をきれいにしている人びとのみえない視線が、どこかからとんできて、
「わたしたちがきれいにした町を、汚さないでください」
 という注意を、受けているような気になるからだ。
 これは町だけでなく、公園のような公共施設も同じだ。
 公園内がきれいに清掃されていると、やはりゴミなどは、決められた場所に捨てる。
 山口県は、どこにいっても町がきれいだ。
 これは、
 「吉田松陰の精神が、いまも生きている」
 といっていいだろう。
 町の安全は、いってみれば、
 「美しい心から生まれる」
 といえる。
 そこに住む人びとの心が美しければ、それは互いに相手を労り合うという気持ちになる。
 そうなれば、
 「他人を悲しませたり、傷つけてはいけない」
 という心が育ってくる。

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