童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史小説家の楽屋裏

■一足のワラジを右と左の足にはく人生

<本文から>
 私はかつて、三十年余にわたるサラリーマン生活を送った。そのために、時おり小説を書いている私を見て、
 「おまえは二足のワラジをはいている」
という人がいた。しかし、その時も私はいいかえした。
 「いや、一足のワラジを右と左の足にはいているだけだ」
 その意味は、歴史とのつき合い方に似ている。つまり、仕事で解決できないことで思い悩んだ時、
 「もし、上杉鷹山だったらこのテーマをどう解決しただろうか」
 「豊臣秀吉だったら、どういうリーダーシップを発揮しただろうか」
と考える。あるいは逆に、
 「織田信長があの時にやったことはまちがっている。現在のわれわれだったら、こういう解決方法をとっただろう」
 というようなことも考える。すべてを歴史に学ぶだけではない。歴史上の人物も過失をおかしている。パーフェクトな人間などいるはずがない。その意味で、過去と現在との相互交流を、仕事と小説のうえでも行なった。これが、
 「二足のワラジではなく、一足のワラジを別々な足にはいているのだ」
  ということなのだ。

■かつての上司の姿を投影させ"生きた"上杉鷹山に

<本文から>
  後年、『小説 上杉鷹山』(学陽書房)を書いた時、私の脳裏には、始終この君塚助役の姿がちらちらした。
 ●自分からは、ぜったいに自分のやっていることを誇示しない人。
 ●社会正義を貫く人。
 ●不正に対しては、どんな場合にもこれを糾弾し、勇気を持って指摘する人。
 ●しかし、正しく生きる人間に対してはかぎりない愛情を注ぐ人。
 ●その愛情の注ぎ方も、コストとかキャリアとかそういう人為的な属性をいっさい無視する人。
 ●深い人間愛を持ち、特に弱い人や苦しむ人にかぎりない愛情を注ぐ人。
  小説に着いた上杉鷹山には、この君塚助役の姿がかなり投影されている。つまり私は、上杉鷹山とつき合いがあったわけではないから、かれのことはよく知らない。
 文字に書かれた資料から類推するだけだ。したがって、生きた人間にはならない。
 こういう歴史上の人物を生きた存在にするのにはどうするか。それはやはり、自分の尊敬した人や好きな人の性格を、架空の人物に注入することではなかろうか。したがって、多少なりともあの小説が多くの人に読まれ、特に、
 「ひさしぶりに、忘れていた涙を思い出した」
といわれた時は嬉しかった。
 上杉鷹山とその師細井平洲については、その再会の時を記念して、米沢郊外の普門院という寺に、
「一字一涙」
 の碑が建っている。
 私にとって君塚助役との出会いはまさしく、
 「一字一涙」
であった。いや、一字ではないかもしれない。
 「一思一涙」
が正しいだろう。楽屋裏を話すようで恐縮だが、私の書いた上杉鷹山のキャラクターの中には、かなり君塚助役のいったことや、やったことが注ぎこまれている。
 上杉鷹山のいわば役づくりのような努力を続けていく過程で、しばしば解決策が見つからないと、
 「君塚さんなら、鷹山の立場に立った時どうしただろうか?」
 と考えるのだ。そうすると問題が平方根ではなく、因数分解のようにきれいに解ける。壮快感が湧く。そういうことをしばしば経験した。その意味では、君塚さんもまた、たんなる役所における師であり恩人だけではなく、私の小説における師でもある。
 そのことは、ヘソ課長の福田さんも同じだ。鷹山が何度も実行した、
 「情報の公開と、部下との共有」
 ということは、まさしく福田さんのやっていたことを、鷹山になぞらえて書いたまでだ。しかし、史実を調べてみると、鷹山の情報共有ぶりもそうとうなもので、かれが改革のために米沢本国に赴く前に、改革案を先に米沢に送り、
 「これを増し刷りして、全員が読んでおくように」
と告げている。いまの組織トップでも、ここまで踏みこんだ情報の公開と共有の努力は、なかなか行なわないのではなかろうか。
 そういう見方をすれば、その後書いた「小説徳川吉宗』(日本経済新聞社)にも、私が勤めていた時に遭遇した上司の姿が注入されている。
 その人は、私がいわゆる都庁の本丸、つまり本庁に行ってから出会った橋本さんという広報室長である。

■自分の趣味を生かした道灌

<本文から>
道灌は、
「海の道をまいりましょう」
といった。定正は首をかしげ、
「潮の干満を確かめないで、海の道へ行っても大丈夫なのか?」
ときいた。ヘタをすれば部下が皆溺れ死んでしまうからである。ところが道藩は
 自信たっぶりに、
「大丈夫でございます」
と応じた。あはりにも自信たっぶりなので、主人の定正はなお心配になった。
「どうしてそんなに自信を持っていえるのだ?」
ときいた。道灌はこう答えた。
「古歌にこういうのがございます。遠くなり 近くなるみの浜千鳥 鳴く音に潮の 満ち干をぞ知る」
「その歌がいまのわれわれの戦いとどう関係があるのだ?」
「さっきまで、千鳥の鳴く声がごく近くまで聞こえておりました。ところが、いまその鳴く声がかなり遠くへいっております。というのは、潮が引いた証拠でございます。海の道も安心して通れるでしょう」
「なるほど」
上杉定正は感心した。しかし半分は、
(道灌め、また歌の知識をひけらかして、おれに恥をかかせた)
と感じた。
 こういうことが積みかさなって、上杉定正はしだいに太田道灌に劣等感を感ずるようになる。最後は、自分が相模(神奈川県)に新しい屋敷を建てたので、道灌に、
「新築祝いをやる。遊びに来い」
 といって、新しい家の風呂場に案内し、そこでだまし討ちにしてしまった。道灌はこの時も歌を詠んだ。
「きのうまで まくめうし(妄執のこと)をいれおきし へんなし袋いま破りけむ」
そして、
「当家滅亡!」
と叫んだ。
「自分のような忠臣をこんなだまし討ちにするようでは、上杉家もすぐ滅亡するぞ」
ということである。
 趣味というか、仕事のほかに持っていた風流心を逆に仕事のほうにフィードバックして、それをリーダーシップに変えていった例である。現在でもよく、
「仕事だけではだめだ。趣味を持て」
 ということがいわれる。しかしこのことは、本業とかけはなれた別次元を構築して、自分だけの世界に遊べということではなかろう。仕事の幅を広げ、奥を深くするために、仕事以外のことを勉強しておくとそれがもう一度仕事のほうに逆流して役立つ、ということではなかろうか。
 そういう意味では、太田道藩にしろもっと後世の細川幽斎にしろ、自分の趣味を仕事に生かした人物である。つまりこういう人びとは、よくいわれる、
「二足のワラジ」
をはいていたのではない。仕事と趣味の一足のワラジを、右と左の両足にはいていたということだ。だからこそ、道藩のように自分の当意即妙な風流心が部下のモラールアップに役立ったのである。

■やる気を引き出した加藤清正の人事

<本文から>
  「老人武士の茶飲み話は、私にとっても参考になる。あの老人は、わざとああいういい方をしているのでそうとうな経験を経てきたと思う。未熟な私たちが学ぶことはたくさんあると思うぞ。さらに中年武士のやる気は、いま少しずつゆるみはじめている熊本城の中年武士にとっていい刺激になる。あの年で、まだそんな気があるのかということになれば、ぬるま湯に浸かっているような我が城の中年武士どもも、もう一度気持ちを改めるだろう。そこへいくとあの青年武士は確かにおまえたちのいうとおり優秀だ。しかし、あれだけ優秀ならなにもうちで雇う必要はない。よそでも十分やっていける。第一、あの青年武士を優秀だ優秀だといえば、うちの若い連中がみんな腐ってしまうぞ。われわれは優秀ではないのか、と反発する。私は、うちの若い連中はみんな優秀だと思っている。そうでないと思うのは、指導者が育て方が悪いからだ。若い連中が持っている能力をきちんと引き出さないからだ」
 重役たちは沈黙した。半分は自分たちのことがいわれていると思ったからだ。清正の決定を三人に伝えた。老人武士と中年武士はよろこんだ。青年武士はむくれて去っていった。
 清正のいうとおりだった。老人武士は、窓際でじっとしてはいなかった。あちこちの職場を歩いては、そこで起こっている問題に口を出した。しかし、茶わん片手に茶を飲みながら話すので、職場のほうもはじめは反発したが、やがて老人の意のあるところを悟り、皆納得した。やがて老人武士の存在は熊本城にとって欠くことのできないものになった。あっちからもこつちからも、
 「○○さん、すぐうちへ来てください。ご指導をお願いします」
という声がかかった。
 中年武士のやる気は、戦場で遺憾なく発揮された。合戦の度に中年武士は大きな手柄を立てた。少なくとも、
 「自分にはもう失うものはない。雇ってくださった加藤家にご恩返しをするのだ」
 ということをいい続けていた。だから、その働きには口頭試問の時にいったように、
「出世したい」
という気持ちはまったくなかった。
「あれは、わざとああいうふうにいったのだ」
皆そう思った。だから、
「他国から来た中途採用者に負けるな」
という気持ちが一斉に起こった。若い武士たちが奮起したのはいうまでもない。
 かれらは加藤清正が、
「うちの若いやつは皆優秀だ」
といっていたことを、重役から伝え聞いていた。皆は顔を見合わせ、
「果たして清正様がそうおっしゃってくださるだけの仕事を、われわれはしているのだろうか?」
 と反省した。そこで改めて、皆で互いに互いを励まし合い、仕事に打ち込んだ。
 こうして、二人の中途採用者によって加藤家はさらに活性化した。

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