童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史の中の名総務部長

■徳川秀忠の名総務部長・土井

<本文から>
「あるとき秀忠が、京都からあいさつにきた公家の接待を、山崎家治という大名に命じて、
 「予算を思うように使ってよい」といった。
 山崎はフンダンに金を使って、無事、接待を終わった。いままでなら、これで一件落着だが、これからはそうはいかない。会計マニュアルもできている。経理担当者が、「おそれいりますが」といって、会計報告の提出を求めた。そして、「以上のとおり相違ない」と書いて、署名捺印してほしいといった。
 山崎は激怒した。「おれの役目は応接役だ! 書類づくりではない!」とどなった。そして、経理係の上司である土井総務部長のところへどなりこんだ。「土井殿は、私が信用できないのか」と、すごい剣幕でにらみつけた。総務部員はいっせいに、ハラハラして土井を見つめた。土井はこコニコ笑っていた。そして経理担当者にきいた。
 「どうしても会計報告がいるのか?」
 「はい。先般、上様(将軍)のお達しで決められましたので、守らなければなりません」
 「そうか。しかし、署名者が山崎殿でなければだめか?」
 「は?」
 「山崎殿の家臣の名ではだめか?」
 「それは…」
 口ごもる担当者から視線を山崎に戻して、土井はこういった。
 「山崎殿、こうしましょう。会計報告の署名者はあなたの部下にしましょう」
 土井とその部下のやりとりをきいていて、(そういえば、たしかに新しい制度の触れが、このあいだ将軍さまから出ていたな)と思い出した山崎は、少しずつ怒りがおさまり、逆に居心地が悪くなりだしていた。土井は山崎のそういう心の揺れを見て、いった。
 「しかし、何か、ことあるときのことを考えると、あなたも部下に責任を押しつけるわけにはいかないでしょう? 部下の署名のあとに、あなたも保証の署名をしてくれませんか? どうです?」
 終始、おだやかな態度だ。山崎は、「わかりました」といった。神妙な態度だった。そして、
 「部下に著名させる必要はありません。私がします」といった。土井は、「それは、ますます けっこう。きすが山崎殿です」とおだてた。周囲は、土井の人間の扱いの妙に感嘆した。
 秀忠は父の家康に柔順な息子だったが、ときどき、″表″のステータスを示そうとして、「江戸で独自にこういうことをやりたい」といい出すことがあった。
 土井はそういうときは、事前に重役たちに根まわしをしておいて、「決してその場で賛否をあきらかにしないでください」といった。そして、「どうだ?」と賛否の意見を求める秀忠には、「大変けっこうなご案ですが、一方所、ちょっと座りが悪うございますな。いかがでしょう?私どもも仕事場にさがって部下たちともよく相談いたしますが、上様も、もうひと晩、座りの部分をお考えくださいませんか?」と応じるのが常だった」

■「三つのE」でやる気の共振現象を起こした小六

<本文から>
  この小六のやり方は、いまはやりの言葉でいえば、「引きこみ現象(エントレインメント)」を起こすことである。具体的には″E″現象、つまり、
 ○つまらない仕事をおもしろく(エンターティンメント)する
 ○暗い職場を楽しく(エンジョイメント)する
 ○ダウンしがちなモラールを上げ、社員ひとりひとりをコーフン(エキサイティング)させる
 の三つの″E″を湧かせることだ。社員に″やる気″の共振現象を起こさせることである。
 小六自身は、早くいえば無学歴で、理論家ではない。が、子どものときからの経験で、人間のツボを心得ている。その職場に行って雰囲気をつかめば大体のことはわかる。
 小六によって新気流をまき立てられたそこの管理職も、バカではないから、(ははあ、そうだったのか)と気がつく。そうだったのか、というのは、自分の職場管理の欠陥である。いたらなさや努力不足だ。気流をまき立てると小六は「じゃあ、またね」と、さっと去ってしまう。さわやかに立ち去る。(あとはおまえさんの仕事だよ)と、そこの管理職につぶやきながら。
 しかし、職場によっては、小六のこういう気流まき立てに、さらに救済の道を求めようとする社員が出てくる。具体的な原因を、そっと小六のところに告げにくるのだ。
 「お話があるのですが」
 「何だ?」
 「実は、いま私たちの部内ではこういう不祥事があって、それがモラールダウンにつながっているのです」
 小六は黙ってきいている。心の中では関心を持っているが、表情には出さない。ポーカーフェイスだ。きき終わると、
 「許はそれで終わりか?」
 「はい」
 「よし、今日の話はなかったことにしよう」
 「は?」
 「おれは今日、きみが話したことは何もきいていないよ」
 「?」
 「きみの話は、直属上司に話すべきことだ。脇に洩らしてはいけない。だからおれはきかなかったことにする。おたくの部長とよく相談しろ。スジは通そう」
 ういって、決してバイパスを大きく広げることはしなかった。
 「それはスジがちがう」というのが、小六の一貫した態度であった。このことは社内によく浸透し、社内管理は小六に大きな信頼感を持った。それが社全体の活性剤になった。

■忠臣・山中鹿之介の命とりになった決定的「弱点」

<本文から>
 しかし信長はこのとき、自分の感じたことは話さなかった。尼子家は名目に利用するだけだ、と割り切っていたからである。信長は鹿之介にいった。
 「よくわかった。力を貸そう。羽柴秀吉の指揮下に入って毛利と戦え」
 「はっ」
 鹿之介は感動した。
 山中総務部長のもとに結束した旧尼子社員は、再び毛利コンツェルンに戦いを挑んだ。そして、社屋を得た。上月城である。
 「また山中のヤツが反乱したぞ」
 怒った毛利軍は上月城を大軍で囲んだ。それと秀吉軍は対峙する形になった。が、この対峙はどう考えても戦略的に得にならない。人と金を使っても、利益がない。
 秀吉は信長に相談した。
 「上月城を救うことは、大して意味がありません」
 「ふむ」
 「毛利の勝手にさせたいと思いますが」
 「囲みを解く、というのか?」
 「はい」
 「尼子と山中を見殺しにする、というのだな?」
 「そうです」
 「そうしろ」
 信長は決断した。もともと口実に使っただけだ。上月城は毛利軍に攻めたてられ落城した。鹿之介は捕らえられた。そしてだまし討ちで殺された。
 しかし信長や秀吉にすれば、「忠誠心はよくわかる。が、それによって客に何をもたらし、支援するおれたち企業に、どういう利益を得させようとするのか、そこがまったくわからなかった。

■まつ−前田家の危機を救った「女としての選択」

<本文から>
  まつは、自分の作戦が成功したと思った。でも、これは男の戦いではないと思った。
 (私の戦いなのだ。私と、ネネさんと、お市さまとの戦いなのだ。私はネネさんに味方し、お市さまには味方しない)
 そういう選択なのだと思った。食事をすませると、立ち上がった柴田は利家の肩に手を置き、「達者でな」といって去った。うん、とうなずきながら利家は、「すまぬ」といった。柴田は笑って首をふった。柴田が去ると、利家はまつの手を掘り、「ありがとう」といった。まつは首をふった。そして、「辛いのは、おまえさまです」といった。
 その後、利家は秀書とともに柴田を攻めた。柴田はお市の娘三人を城の外に出し、お市とともに自決した。
 柴田勝家という親友に殉ずるか、それとも羽柴秀吉という有能な後輩のためにひと肌脱ぐか、という岐路に立たされて利家は迷ったが、その選択を、利家の妻まつが、一杯のお茶漬けでいとも巧妙に行なってしまった。利家が結果として秀吉を選ぶように、ことを運んでしまったのである。
 この処理の過程では、まつは別段夫の利家と何の相談もしていない。利家は最後まで揺れ続けていた。悩むトップであった。そのさまを見て、まつは、(これはダメだ)と思った。(前田家は滅びてしまう)と危惧したのである。
 そこで彼女は、「自分の意志と判断」を持つことにした。いわゆる妻としての″内助の功″の発揮ではない。自分の意志を持とうと決意したときのまつは、自分では意識しなくても、完全に前田家の総務部長になっていた。夫よりも、前田家という組織の将来を考えたのである。
 前田家の組織を考えたというのは、家臣(従業員)のことを考えたということである。つまり、「みすみす滅びることがわかっている柴田勝家に味方して、うちの家臣を路頭に迷わせることはできない」という責任感だった。この考えは、ただ前田利家という人物の妻の座についている、という立場を超えていた。組織の最高幹部としての自覚のほうが前面に出ていた。
 そして、この自覚があったからこそ、柴田勝家は一抹の失望感を残しながらも、しかしさわやかに前田利家に別れを告げたのであった。
 もちろん、この選択には、まつが秀吉の妻のネネと無二の伸よしであったことも大きく影響している。したがって別ないい方をすれば、まつの「女としての選択」が、利家の「男としての選択」を抑え、結果としてそれが前田家を安泰にしたといえる。
 この選択によって、前田家は危機を乗り切った。そして安泰になっただけではない。前田利家は豊臣秀吉に深く信任され、北陸一帯を与えられると同時に、豊臣日本株式会社の総務部長に登片されたのである。

■栗山大膳が黒田家のために内部告発した感動したエピソード

<本文から>
  だが、忠之・倉八ラインは、この二百人を手足にして、自分たちの思いのままの仕事をはじめた。倉八の博多商人いじめは、次々と起こり、次第に博多のまちの空気は険悪になってきた。
 「栗山さま、何とかしてください」という声が、福岡城の内外から起こってきた。
 大膳は重大な岐路に立たされた。そして、彼の一脳裡に浮かんだのは、先代長政社長の死ぬときの顔であった。「いざというときは、内部告発も辞すな」という長政の遺言であった。
 栗山大勝は苦悩した。「社長への忠誠とは、一体、何か?」ということで悩み抜いた。それは、「社か、社長個人か」という選択の問題だったからである。大膳は結局、社を選んだ。そのために先代の遺言にしたがい、黒田忠之社長の失政を内部告発した。親会社の徳川日本株式会社に、黒田北九州株式会社の内情を訴え出たのである。大騒ぎになった。
 親会社では、ほうっておけないので、井伊、本多、酒井、榊原のような″四天王"重役や板倉、青山、秋元、それに柳生まで出て審問を開始した。
 結局、大勝と忠之が対決させられた。この対決は史実によれば、どっちが勝ったか負けたかは、あいまいだ。
 だが、大膳を訊問した幕府重役陣は、大膳の内部告発のねらいが決して忠之を切るためではなく、忠之を社長に据えおいて、黒田北九州株式会社があまり無茶をせずに、地元の感情を考慮しながらの経営をしてほしい、というところにあることを知っていた。
 重役たちは、先代の黒田長政が関が原の合戦で抜群の功を立て、徳川家康から「このたびの勝利は、あなたのおかげだ」という感謝状をもらっていることも知っていた。その長政が嫌った忠之を、子どものころから大膳が守り抜いてきたことも知っていた。
 その大膳が忠之を告発したのだから、真によほど深い事情があるのだろう、と思った。大膳は、「私を重い刑に処し、主人ならびに黒田藩を極力寛典に処していただきたい」といった。
 幕府重役たちは、「それでは、一体、何のために社長を告発したのか?」といぶかった。
 大膳は、「黒田会社のやることは、黒田会社だけにとどまるのでなく、その影響が社会に大きな広がりを持つ、ということを知ってもらいたかったのです。そのためには、自社の利益だけでなく既存の小さな企業の権益も守らなければなりません。そのことを忠之社長に理解してほしかったのです」といった。
 「たとえ、忠之殿がそれを理解したとしても、おぬしは社長を告発した不忠者、裏切者と後ろ指をさされるが、そのへんは?」
 「十分に覚悟しております」
 大膳は静かにほほえんだ。
 こういうやりとりは、重役たちから次々と忠之に伝えられた。はじめは「総務部長が社長を告発するとは、何ごとだ!」といきまいていた忠之も、次第に冷静になってきた。忠之は、倉八十太夫をクビにした。幕府は裁決を下した。
 「黒田北九州株式会社は、幕府が接収する。が、即日、黒田忠之を社長として再出発させる。栗山大膳は総務部長の任を解き、南部藩(若手県)に預ける」というものであった。破格の寛典だった。
 大膳は涙を浮かべて親会社に感謝した。そして従容として流罪地に赴き、十八年後に死んだ。
 騒動は鎮静し、黒田家は明治維新まで続いた。総務部長が社長を内部告発しためずらしい事件である。が、栗山総務部長には、私心私欲はみじんもなかった。だからこそ、親会社の胸を打ったのである。

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