童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史が教える経営の極意

■ビンビー人と言われた庶民を相手に商売をした三井

<本文から>
 ここに目をつけたのが、三井家の祖といわれる三井高利だ。三井家では、金融機関も兼ねていたから、借手である大名や武士がどういう性格かよく知っていた。三井家では、大名たちを信用していない。
 「武士はズルくて信用できない」とはっきり言っている。だからまず、「権力には近づかない」というのが、経営戦略の基本だった。
 高利の孫にあたる高房は、その著『町人考見録』で、「次の大名たちは、不良貸付の典型で、これが原因で多くの商人が倒産した」とワースト借主の名をズラリと公表している。いまでは考えもつかない勇気ある行動だ。
 高利は新マーケット開発を″庶民″に定め、そのこ−ズを知るために、銭湯に行った。その頃の銭湯は″まちのひろば″である。ビンボー人のコミュニケーンヨンの場だ。ここで八公、クマ公が勝手なことを言っている。湯につかりながら高利は、そういう声をきいた。こんな声が耳に入った。
 「反物もより、要る分だけ端切れを売ってくれるとありがてえンだけどな。そうすりゃァ、こちとらァ、古のカセギをすぐ持って行って女房や娘をよろこばせるンだがなァ」
 「だめだめ。江戸の商人は上ばかり向いてやがって、下なんかこれっぽっちも見やしねえ。まあ、見果てぬ夢さ」
 (そうか!)高利は裸のひざをたたいた。
 (これだ!)と思った。かれの頭につよいショックを与えたのは、
 ▽端切れ
 ▽日ゼニの支払い
 の二つである。それは、「そういわれれば、反物は一反二反で、巻いたものでなければ売らない」「決済は六カ月ごと」という、いまのシキタリへの痛打であった。
 ▽反物を要る分の長さに切る
 ▽そのかわり、支払いは現金
 「行けるぞ!」
 かれはフロを飛び出した。そして「越後屋」と名乗る自分の店で、
「反物は要るだけ切ります」
「ただし、お支払いはその場で現金でお願いします」
「よろしければ、すぐ仕立てもいたします」
と公表した。これが当たった。八公、クマ公たちの家族がゼニをにぎってワッとおしかけた。
大衆消費者の購買力はすさまじかった。
「ビンボー人は、物を買わない」
などという虚説は吹っ飛んだ。
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■戦国商人たちはカネを重視した理由は土地に代わってカネの時代がくると先読みしたから

<本文から>
 しかし、ある職業が、あるいは人間が、この世の中で自主性や反骨精神をつらぬいていくのには、それなりの″力″が要る。戦国商人たちの″力″とは、即″財力″であつた。カネである。カネのない商人は、商人とはいえない。またカネをバカにしたり、軽視したりする商人も商人とはいえない。では、なぜ戦国商人たちはカネを重視したのか?
 ひとことでいえば、かれらは、
 「土地に代わってカネの時代がくる」
 と、時代の先読みをしていたからである。それは農作物を中心にした、物々交換の素朴な経済が、その頃の日本の生活に適合しなくなったことを、かれらがもっとも早く、また鋭く見抜いていたからだ。
 かれらがそれを知ったのは、やはりその頃の″国際化″だ。世界各地からヒタヒタと押し寄せる世界の情報と、文明製品だった。
「こういう品物を使えば、日本人の生活はもっとゆたかになる」という、外国製品の導入であった。生活日用品(ガラス製品、時計、望遠鏡……)、武器、衣類、飲食品(ブドー酒、パン…料理方法)、医学、造船、建築、土木技術(鉱山開発法…)など、あらゆる分野にわたっていた。こういう導入の仲介者になったかれらは、
「世界の経済は、もう土地ではまわっていない。カネでまわっている」
 ということを知っていた。それも通貨でまわっている、ということを知った。この進言が、天下人たちに日本の鉱物を掘らせ、空前のゴールドラッシュを生ずる。そして、この段階で、
「戦国の行商人的精神」
は、二つの方向に分かれていく。
▽一つは″海″に向かっていく。つまり、日本の外に向かっていく。国際貿易の道だ。
▽もう一つは、″土″に向かっていく。つまり、日本国内の遠い土地(関東、東北、北海道など)に向かっていく。
つまり、″国際派″と″国内派″に分かれる。が、その後、勝利を占めるのは、国内派だ。
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■信長は天下というのは時代の空気を把握した

<本文から>
 こじつけになるかもしれないが、信長たちがキッャチしたのはこういう願いである。つまり、戦国武将たちが勝手に戦争をして、農村を荒し、都市部を焼きはらい、常に一般の人々は生命と財産とを危機にさらされていた。「早く戦国の世が終わって、普通の人間として、普通の生活を送りたい」と願うのは当然である。見方を変えてみれば、信長たちが実現しようとしたのは、こういう六つの願いをもつ民衆のこしズを満たす社会をつくりあげようとしたことだ。
 伊達政宗が見落としたのは、実をいえばこのニ−ズではないかと思う。つまり、民衆の切実なニーズを基本にして、自分の天下をつくろうとしなかったのではないかと思われるのだ。信長たちは、位置する場所の有利な点もあって、このニーズをつかんだ。だから、天下というのは、こういうニーズが、一つの空気として日本の空に漂っていることだ。天下というのは時代の空気のことである。そして時代の空気というのは、この頃生きていた民衆たちの二−ズの総和である。信長たち三人は、この空気をキャッチし、つまりいまの経営でいえば、マーケティングによって把握し、プライオリティをつけた。実現の順位をつけたのである。そしてその順序によって、一人一人が歴史に対する役割を果たしていったのだ。歴史に対する役割分担とは、この仕事が一人ではできなかったからである。
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■秀吉は土木建設工事で戦った

<本文から>
 それでは、秀吉は「創造建設期」を担当して、いったいどんな事業をしたのだろうか。
秀吉の戦争は、よく、
「刀や槍や鉄砲で戦うのではなく、土木建設工事で戦った」
といわれる。秀吉の戦歴は、墨股城の築城に始まり、やがて鳥取城、高松城、小田原城の城攻め、さらに朝鮮侵略のための名護屋城、大坂城、桃山城などという″城づくり″と密接にからみあっている。また、秀吉が主導してつくり出した文化は″桃山文化″といわれ、現代にもその通産が数多く残されている。そして桃山文化を構成しているものは、建造物や、書画の類が多い。これは、秀吉が、信長から引き継いだ、
 「新しい価値を生み出す」
 という発想の継続である。
すなわち、その柱になったのは、「茶道」だ。信長は、部下に与える土地がそろそろ限界にきたのを悟り、「土地に代わるべき新しい価値」として「茶道」を考えた。この価値の転換、つまり計に見える土地というハードな財から、「茶道の精神」という目に見えないソフトな価値を創造した。そして、これに関する産業を盛りたて、内需を高めた。
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■家康の高密度管理が体制維持の秘訣

<本文から>
  しかし、なぜこういう変質を、徳川家康が強力に求めたのかといえば、家康のそれまでの歴史へのかかわり方に最も大きな原因がある。それは、信長が担当した破壊作業、秀吉が担当した建設作業、のいずれにも、徳川家康はその最初からかなり深くかかわりあってきたからである。家康の人生観は、幼少の頃から他家の人質になっていたことにもよるのだろうが、
「人の人生は重荷を負て遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
 という有名なことばに言い早くされている。この考え方は、実をいえば、徳川時代に生きたすべての日本人の生き方の根本にあったといっていい。徳川幕府が次々とつくり出した諸制度は、徳川家康の、この人生訓をそのまま実現したものだといっても過言ではあるまい。
 信長に協力し、秀吉の事業を支持してきた家康は、当然、自分の部下も、これらの事業に参加させた。したがって、家康の臣下は、初めは信長の破壊作業に、そしてその後は秀吉の建作業にそれぞれ協力した。ということは、トップとしての家康はもちろん、家康の部下も、破壊期には破壊型のビジネスマンであり、また建設期には建設型のビジネスマンであったのでる。そういうやり方をそれぞれの事業が求めたからである。
 俗謡では、
 織田がつき、豊臣がこねし天下餅 骨も折らずに食らう徳川
 などといわれているが、家康はけっして前二者のやることを傍観しつつ、棚から落ちてくボタ餅を食ったのではないことは明らかな事実である。当初から信長に協力して杵をふるいまた秀吉とともに餅をこねている。この辺は、経営者としての家康をみるときに、けっして落としてはならない点である。ただ、時世の流れを見て、「おれの出番だ」との見極めがつくまでじっと我慢していただけで、水面下では家鴨のように激しく水をかいていたのである。
 しかし、その出番がきて、両雄が実現した体制変革を定着させ、長期に維持管理していかはならぬという段になると、家康がいままで保ってきた組織部下の意識では、とうていその的は達成できない。
 家康は、もともと平和志向者である。秀吉の朝鮮侵略戦争には初めから反対だったし、家康自身出兵しなかった。
 「新しくいただいた関東地方が、よく治まっておりませんので、そちらの方に専念させてくさい」
 と、巧妙に戦争参加からすり抜けてしまった。そして、秀吉が死んだ後の朝鮮からの日本軍引きあげには、先頭に立ってこれを行っている。
 それは、家康が何よりも当時の空気に敏感だったということを示している。時代の空気に敏感だったというのは、信長や秀吉のところで書いた、戦国民衆のニーズの最大のものが、「平和日本の実現」にあったとみていたからである。
 二百六十余年間も、その実態がどうあれ、完全な平和国家を維持し得たということは、世界にもその例がない。しかし、それだけに、この、「日本の平和経営」には、特別の工夫がされなければならなかった。家康は、その工夫をどのようにしたのだろうか。
 大久保彦左衛門が『三河物語』を書いたのは、寛永年問(一六二四〜四四)のことである。この時代になって、いわゆる「徳川幕藩体制」は、ほぼ整った。しかし、それは、ひとことでいえば、
 「日本中を檻にし、日本人をその檻の中に押し込める」
 という制度であった。すなわち、支配者が日本の国を一望のもとに眺められるようにすることであり、しかも眺めやすいように、こと細かくいろいろな制約を加えることであった。
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■五代は日本の近代化に貢献した実業家

<本文から>
 そこでかねてから考えていた商社を東京と大阪につくった。このとき、すでに役員だけで二百人、従業員は一万人いたという。たいへんな大組織である。理事という役員制を設け、各理事に東京と大阪の組織をまかせた。従業員の月給には、二百五十円から四円五十銭までの幅があったという。
 やがて五代は、堂島に米商会所をつくった。これはいままであまりにも古かった米相場の建て方を近代化したものだった。また、鴻池善右衛門、三井元之助、田中市兵衛、土居道夫、住友吉左衛門、山口吾郎兵衛などに参加してもらって、大阪株式取引所を開設した。大阪商工会議所の前身である商法会議所をつくると、かれは初代の会頭に推された。副会頭は中野桂一と広瀬宰平が務めた。
 明治十三年、かれは大阪商業講習所を設立した。これがいまの大阪市立大学である。さらに大阪製鋼所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの会社を次々とつくった。さらに、北海道の開拓まで行おうとしたが、明治十八年六月、ついに倒れてしまった。大酒のせいである。糖尿病を患っていた。死んだのは九月二十五日。五十一歳であった。
 ところが、驚いたことに死んでみると財産が一円もなかった。逆に数百万円にのぼる借金が残っていた。これには世間がビックリした。いってみれば、五代は、経済の達人である。しかし、「かれ個人の経済」にはまったく目を向けていなかったのだ。
 かれは、志士たちが政治活動を通じて実現した日本の近代化を、経済によって実現した。かれは、単なる自分のための利益を追求する商人ではなく、「日本の近代化に貢献した実業家」だったといっていいだろう。それも、「大阪を経済の中心にするために努力した人物」だった。
 五代は、長崎にいたとき、坂本龍馬ともっとも仲がよかった。有名な「薩長連合」を実現する上で、その仲介人になったのは坂本籠馬だが、その具体化に協力したのは五代である。薩長連合は「政治同盟」あるいは「軍事同盟」だが、実際には「貿易同盟」でもある。それも密貿易だ。長州は当時幕府にニラまれていたから外国から艦船・鉄砲が買えない。そこで坂本が間に入ってこのダーティな役をになった。そして薩摩の代表として、龍馬と共同作業をしたのが五代である。
 二人は仲がよかったが、龍馬は横死した。五代は生き残った。ここにも二人の差があるように思える。あるいは、″政治″の龍馬よりも″経済″の五代の方が、より近代的、合理的だったのかもしれない。
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